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DAY 4 AM

「死んだように眠る」という言葉がある。

だけど本当は、眠っていたのではなく、死んでいたのではないかと思うことがある。

夢はたいていばかばかしく、途中で、ああ、これは夢だと気づく。

目覚めたとき、夢を見ていたのではなく、あの世に行っていた気がすることもある。

今までの人生で出会った人々が一堂に会するパーティーが開かれている。すでに亡くなった友人たちの姿もある。自分自身はそこで何をしているわけでもない。友人たちが酔っぱらって笑っているのを見ている。なぜかそれがとても楽しい。やがて目が覚めて、そこに誰がいて、誰がいなかったかまったく思い出せない。自分があの世に行っていた気がする。

愛おしい夢などない。もう一度同じ夢を見たいとか、夢が現実になればいいとか、そんな願いは夢の記憶とともに薄れていく。それでも夢は楽しい。現実と同じように楽しい。生きている間にしか体験できない。人は死んだらおしまい、前世も来世もない。あの世を垣間見ることは、「もっとしっかり生きろ」という警告だ。



長崎発羽田行きの飛行機は九州上空を南東に進み、やがて四国の南側の太平洋上に出る。唐沢譲からさわゆずるは自分の殻に閉じこもるように、窓に顔をつけ、青い海を見下ろした。ここから放り出されたら、自分の身体は雲の上で引っかかるとしか思えない。あの雲を突き抜けて、一気に落下するなんてあり得ない。自分には世の中が正しく見えていないのかもしれない。そう考えると、様々なことが腑に落ちる。

小学生の頃に母が家を出て行った。その話を結婚前の結希子ゆきこにしたら、「かわいそうな人」と言われた。世間的にはそうなるだろう。母を恨んだことはない。妻に話した頃には、もう予定調和の出来事として完全に終わっていた。結婚相手に、伝えるべき情報を伝えただけで、同情や共感はいらなかった。

子供が生まれた時、「もし生きているならお義母さんも孫の顔を見たいでしょうね」と妻は言った。唐沢は、出産という大仕事を終えた妻への気遣いのつもりで「そうだね」と言った。「そうは思わない」と本心を告げたら、面倒くさいことになるとわかっていた。

唐沢の父は息子に十分すぎるほどの愛情を注いだ。父は母を恨むことも忘れることもできなかった。母がいなくなって寂しかったが、人間は環境に適応するという知識を、唐沢は人生の早い段階に独学で身につけた。

大事なことから目をそらしていたことに気がついた時、独学で身につけた知識の誤りを思い知る。

子供の成長を見届けたいとか、孫の顔を見たいとか、いわゆる普通の感覚が母には「欠落」していた。その欠落は唐沢に遺伝した。そう考えれば辻褄が合う。欠落した人間は母親になるべきではないのか? それは違う。人生は生きる価値があると母は信じた。子供の人生は母のものではなく子供のものだ。自分が父親となり、母に完全に同意したことに気がついた。自分の子供たちには幸せになってほしいが、そこには自分がいる必要はない。

就職や結婚が人生の岐路だというが、本当に大事な岐路はすっと通り過ぎてしまう。唐沢の人生で岐路と呼べるものは一つしかない。

世界で一番好きだった水川刹那みずかわせつなを手放した、20年前。

その通り過ぎた岐路に、いま戻って来た。

考えが一つの場所に収斂し、頭の中がすっきりした。唐沢は目を閉じる。自然に笑みが漏れた。その表情があまりにも幸せそうで、知人でさえ彼とは気づかないかもしれない。いかれた中年男に見えなくもないが、誰に何を思われても気にならなかった。三日前に海に落ちた一部始終を繰り返し思い出す。これほどの喜びはない。



部下の城崎大輔しろさきだいすけと一緒に訪問先からホテルへ戻る途中で、唐沢はタクシーを降りたくなった。運転手は「季節外れの寒さ」と言ったが、唐沢には、おぼろげな五月の陽気の記憶しかなかった。

タクシーが去ったあたりから、唐沢の記憶が鮮明になる。

道路は海に沿ってカーブしていた。車道の左側をなぞるのは、白線で区切られただけの歩道とガードレール。その向こうのまばらに生えた草や木のさらに先は、緩やかな斜面が数メートル下の海へと続いていた。道路の途中で、わずかにガードレールが切れていた。唐沢はしばらくその場所に佇み、空と同じ色の灰色の海を眺めていた。時折、ぱらぱらと波がきらめき、そのたびに声が聞こえるような気がした。

突然、目の前に巨大な波がせり上がり、その波の中から二本の長い腕が伸びた。長い腕は唐沢の身体を両側から抱きかかえ、水の中へと連れて行った。

なすすべがなかった。泳げない唐沢は死を覚悟した。その覚悟は一瞬で萎んだ。

水圧が優しすぎて、まったく苦しくない。水の冷たさも感じない。そして明るい。

何かしらの流体にくるまれて、水の中にいるような感じがした。

「やっと見つけてくれた」水の中で女の声がした。

レースの刺繡が施された、限りなく白に近い薄い紫色のワンピースを纏い、水川刹那が水の中で優美に揺れていた。両手を伸ばして唐沢の手を取って、二人でフォークダンスを踊っているかのように、ゆっくりと水の中を回っているのが唐沢にはわかった。

「刹那?」唐沢は恐る恐る訊いた。かわいかった頃の顔とは雰囲気が違う。今の方が美しい。若い頃に当たり前のように好きになった相手が、こんなに美しい人だったという驚きが、嬉しさよりも先に来た。

「そうよ、譲」懐かしい声が囁く。声は昔の刹那と変わっていない。

「どういう状況?」

「私は水に溶けるの、私に触れている限り、譲は決して溺れないわ」

「水に溶ける?」

「水溶性なの」

「刹那は生きているの?」

「ええ、あなたが死にたくなったら一緒に死んであげる、そのために私は水の中で生きているわ」

言葉が何も思いつかない。

「譲は私のこと覚えていた?」

唐沢は刹那を忘れて生きていた。一番好きな人がいない世界で生きていた。刹那が死んだのならなぜ生きていたのだろう、それさえもわからない。ただ生きていた。

「答えなかった、忘れてたわね?」刹那がふざけた口調で訊く。

「だって…」

「だって何?」

「別れたことが辛すぎて、忘れないと前に進めなかった」

「へえ、そういう言い訳するの?」刹那が意地悪く言う。

「言い訳じゃない、本当だよ」

唐沢譲は大学三年生の時、同じゼミで出会った水川刹那と恋に落ちた。どちらからどうやって告白したのかも覚えていない。二人は当たり前のように恋人となり、時間の許す限り二人で過ごした。一緒に勉強してそのまま家に帰らないこともあった。就職後の研修ではお互い東京を離れ、まるひと月会えなかった。月が替わり、やっと会えると心躍らせてデートに向かったその日に、唐沢は刹那から別れを切り出された。世界が終わった日だった。

刹那のその後を唐沢はまったく知らない。唐沢だけではなく、大学時代の共通の知人は誰一人刹那の消息を知らなかった。

刹那と仲の良かった女友達は口を揃えて同じことを言った。

―唐沢君が知らないのに、私たちが知ってるわけないわ、だってみんな唐沢君と刹那は結婚するって信じてたから!

失恋の痛みを紛らわすため、唐沢は何人かの女性と付き合った。誰と付き合っても虚しさしか残らない。そんな女性たちの中で、ひとり結婚に対して積極的だったのが結希子だった。

唐沢は結希子と結婚した。仕事も順調で、二人の子供に恵まれた。こういうのが世間で言うところの幸せなのだろうと理解はしていた。「幸せだ」という言葉も何度か口にしてみた。でも、これが自分の欲するものかはよくわからなかった。もしもう一度人生をやり直せるとしたら、この選択肢を選ばないだろうと、漠然と感じていた。

「再会できて嬉しいわ」水の中で刹那の声が甘く響く。

「別れたのはオレに失望したからでしょう?」唐沢は戸惑っている。

「どうして?」

「だって、…オレは刹那のことが大好きだった、顔を見ているだけで幸せだった、あまりにも刹那が好きだったから、将来何をしたいとか、何かを成し遂げたいか、そんなことを考えたいとも思わなかった、明日という日は常に今日の続きだと思っていた、向上心のまったくない人間だった、刹那が嫌になるのも当然だよ」

刹那が踊りながら横を向いた。刹那の横顔が水の中できらめいて、二人の周囲の水を鮮やかな色に染めた。

封印していた思いが唐沢の胸に溢れた。世の中からすべてが消えても、刹那の横顔を見ていられたら他に何もいらない。そう思いながら、あの頃の毎日を生きていた。

「へえ、そんなふうに思っていたの?」

「そうだよ」

「でも、私のことを忘れていたって言ったわよね?」

「だから、いま少しずつ思い出してる」

「取り繕うのが下手ね」

「取り繕ってなんかいない」

「わかってるわ、譲、私は世界の誰よりもあなたを理解している…、だから…、あなたを試すようなことをしてずっと後悔していた」

「試した?」

「別れる時、譲に『私を探さないで』って言ったこと、本当は探してほしかった、でも素直に言えなかった、それでも譲は探してくれるって期待したわ、試したのよ、…気がついたらあとの祭り、そうよね、譲は私の言うことを何でも聞いてくれた、今はよくわかるわ、私が『探さないで』って言ったから譲はその通りにしてくれた、探してほしいなら『探して』とはっきり言わなければいけなかった…ねえ、もしかしてそれも覚えてない?」

「…ショックが大きすぎて、…たぶん記憶から抹消した」

「やっと伝えられたのに、残念だわ」

「ごめん、刹那」

「私、本当によくない、また試すようなことした…、譲、ごめんなさい、もう一度あなたに会えて浮かれてるの」

「オレもだよ」

「水に溶ける私を怖いと思わない?」刹那は唐沢を抱きしめた。

「どうして? 刹那と体を合わせて幸せな気持ちしかない」

「やっぱりあなたは世界一のバカよ、そして私たちは最高のバカップルだったわ」

「そうだった」

水川刹那と過ごした時間は、他の誰とも繰り返すことのできない特別な時間だった。

二人の間でしか通用しないプライベートワードがたくさんあった。同じものに感動し、同じものを冒涜し、いつも二人でゲラゲラ笑って過ごした。まるでもう一人の自分がいるようだった。

「あなたは欠落してるのよ、もちろん私も、欠落している人間はそれを埋めてくれる誰かを必要とする、でも私たちはお互いの欠落を二人でどんどん広げて楽しんでいた」

「そういうこと?」

「そうよ」

「不遜なバカップルだった、オレたち、…そんな相手と巡り合える確率はすごく低いと思う」

「その通りよ、私はあなたのことが好きすぎた、そしてあなたもきっと私のことが好きすぎた、二人でいると何日でもベッドの中で抱き合えた、私たちはお互いをダメにする相手と出会ってしまった、…だからいつか別れた方がいいと思っていた」

「オレは思わなかった」

「私たちは世の中のことを知らない二十歳の頃に、お互いを好きになった、大人になってから同じように人を好きになることはできない、譲とならどこで何をしても楽しく暮らせると思うわ、お金持ちになれたら二人で豪遊するし、ベッドさえあればお金なんてなくてもいい、詐欺師にでもなろうかって二人で相談して笑ってるかもしれない、そんなことができるのは譲とだけよ」

「オレもだよ、刹那」

「うん、それは知ってる、付き合っていた頃も別れた後もずっと知ってる、…でもお別れを言うしかなかった」

「どうして?」

「私たちが就職した直後に、父が勤務先のお金を横領していたことが発覚したの」

「知らなかった…」

「良かったわ、あなたが知らなくて、…今だったらアウトでしょうけど、まだ内部でこっそりと処理できた鷹揚な時代だったのよ、刑事告訴はされなかった、父は将来事業を始めるつもりで人脈作りのため横領したお金で接待を繰り返していたの、会社にはかなり貢献したらしいからクビだけですんだ、実は私自身もクビになるんじゃないかってビクビクしてたわ、犯罪者の娘だもの、だから私はあなたと別れる決意をした、研修先の神戸で海を見ながら決めたの」

「なんで? そんな大事なこと話してほしかった」

「ちゃんと付き合った人は譲が初めてだった、あなたがどれだけかけがえのない人かわかっていなかった」

「それはお互い様か? 若かったね、オレたち」

「そうね」

「今までどこで何をしていたの? 誰も刹那の消息を知らない」

「そうでしょうね、話してもいい?」

「聞きたいよ」

「譲と別れてからすぐに、私は求婚された」刹那は唐突に言った。

「え?」

「私は、彼の気が変わることを期待して、父のことを話したわ、でも彼は構わないと言った、それでひっそりと結婚したの、当時はサラリーマンだったけど、知り合いの人たちと起業の準備をしていた、時間はかかったけれど成功したわ、近くで見ていたからよくわかる、起業で成功するのは奇跡みたいなもの、優秀な人が揃って努力して素晴らしいアイデアがあっても運がなければ成功しないわ、一日24時間それだけを考える日々を何年も続けて、それでも成功する人は一握り、そんな世界なの、家庭は崩壊するのがデフォルトだと思うわ、夫がサラリーマンをやめてからは一緒に旅行もしたことがない、それでも私は夫のために何でもしたわ、知人を招くときは精一杯もてなしたし、夫婦で人前に出るときは満面の笑みで夫を立てた、自分の喜びなんて一つもなかった、完璧な機械のように私は夫をサポートした、それが一番楽だったの…、妊娠もしたけど流産したわ、少しも悲しくなかった、欠落してるのよ、私、…夫も二度と子供が欲しいとは言わなかった、あの人には事業があればいいのよ、事業に陶酔していたのだから」

唐沢は相槌さえ打てずに黙って聞いていた。

「もし子供ができても、あの人は一瞬たりとも子育てをしなかったでしょう、そして私も子育てを手伝わせなかったはず、成功する人間は家族なんて気にせず自分の事業に陶酔する、いいものを見せてもらったわ、だからもう十分よ、夫だって手に入れた世界を大事にしたらいい、仕事を辞めて次は私との時間を大切にするとか、そういうのもいらないの、夫のような成功者は女優とかモデルとかトロフィーワイフを手に入れればいいのよ、妻の座に収まりたい女なんていくらでも見つかるでしょう、私は糟糠そうこうの妻で十分、まあ苦労なんてほとんどしてないけど」

「そんなことはないと思う」

「私は夫のものにはならなかったの、ここが大事なところよ」

「そうか…」

「妊娠したとき、たぶん普通の人は嬉しいと思うでしょう、私は、ああ、もう夫としなくていいんだって、それだけ、流産した後も夫が私を求める機会は激減した、それもよかったわ、だって譲としたときのような、昇った後にどこまでも堕ちるような気持ちよさは一度もなかった、苦痛だったわ」

「本当に?」

「本当よ、私たちは相性がよかったのよ、知ってたの?」

唐沢は答えずに笑った。

「数年前に夫たちは、投資ファンドに株式の大半を売却することに決めたの、それがあの人たちの望んだ成功だった、やり切ったと夫は言ったわ、そしてモチベーションを失った、夫はビジネスの世界から引退を決めた、そして、これからは二人で世界中を旅しながら楽しく過ごそうと言ってくれた」

「すごいね」

「…私は、まずは国内に行きたい場所があるって言った、『どこ?』って訊かれて、日本海側の断崖絶壁に行きたいって答えた、私、二時間サスペンスが好きなの、ヒマ過ぎてそんなものばかり見てたの、知らなかったでしょう?」

「知らないよ」

「そうよね? 譲と付き合っていたことは見たことないし、あんな場所が本当にあるかをこの目で確かめたかった、本当にあったわよ、…それで、二人で断崖絶壁に立って、夫に渡したの」

「何を?」

「離婚届」

「どうして?!」

刹那はニコッと笑うと、落語家のように声色を使い分けて、夫婦の会話を再現した。

―お願い、私を自由にして

―目的はお金か?

―お金なんかいらないわ、言った通りよ、私を自由にしてほしい

―お金なんかって、これだけのお金を稼ぐのにどれだけ頑張ったか、刹那が一番近くで見てきてくれたじゃないか?

―そうね、そしてあなたは夢をかなえた、だからもういいでしょう?

―もういいって何?

―あなたは二十代の前半に人生の目標を見つけ、その目標に邁進し、成功した、あなたはやりたいことをやったのよ、私は二十代の前半に私であることを一度あきらめたわ

―だったら今からやればいい、オレがいくらでもサポートするよ、刹那の喜ぶ顔が見られるなら何でもするよ

―だからお願いしてるの、私を自由にして

―どうして?

―あなたは代用品だから

刹那はオチをつけたように、もう一度ニコッと笑う。

「そんなひどいことを言ったの?」

「だって、嫌われなければ別れられないじゃない? きれいに別れようなんて無理、すべてあなたにもう一度会うためよ、譲」刹那はさらっと言う。

「ありがとう」唐沢は他の言葉が浮かばない。

「夫がどうしたか聞きたい?」

「もちろん」

「私を突き落としたわ、日本海の荒波に」

「え?」

「夫の顔を見たのはそれが最後、私はそのまま水に溶けた、水に溶けていればいつか譲に会えると思っていたから」

「死んでないよね?」

「死んでいるように見える?」

「断崖絶壁から突き落とされたんでしょう?」

「でも私の遺体は上がってない、失踪届が出されたか、離婚届を出されたか、それとも何も出されていないかどれかよ」

「それでいいの?」

「いいも悪いも、別れたいと言ったら崖から突き落とす男なのよ、一緒にいてもここから先は悪いことしか起きないわ、…それよりも、譲、あなたはいままで幸せだったんでしょう? 私を忘れるくらい、奥様もお子様もいるんだから」

「ずっと思っていた、端から見たら自分の生活は幸せそうに見えるだろう、でも自分には幸せって何かよくわからなかった、今やっとわかったよ、オレは刹那のいない世界で生きてきた、そんな世界に幸せなんてないんだよ」

「でもちゃんと家族を作ったじゃない?」

「作ったのかもしれない、でもまっとうはできないだろう、きっと母親もそうだった」

「譲のお母さまが?」

「刹那にちゃんと話したことはないよね? オレが小学生の時、母親は夜中に置手紙一枚残して家を出て、それっきり戻らなかった、親父はわけがわからないというふうに取り乱した、大人があそこまで号泣するのを後にも先にも見たことがない、…実は、オレは寝たふりをしたまま母親が家を出ていく姿を見送ったんだ、何の感慨もなかった、自然なことに見えた、その後はぼんやりと過ごしていた。でも刹那と出会って世の中は楽しい場所だと思った、この世に誕生させてくれた母親には感謝してる、刹那のいない世界にいたからそのことも忘れていたけど、いま少しずつ思い出している」

「言いたいこと理解できるわ、…でも私、自分が譲の一番の理解者のつもりでいたのに、お母さまの話さえ知らなかったのね?」

「お互い過去を詮索する必要もなかった、出会った時は子供だった過去しかなくて、そのお互いの過去には興味がない、好きという気持ちしかなかった、二人にとって、目の前が楽しすぎた」

「私たち、いい時に出会ったのね」

「刹那の言う通り、あんなふうに人を好きになることなんて二度とない、今ならわかるよ」

刹那は唐沢の頬を撫でた。唐沢は犬か猫にでもなったかのように、水の中で、刹那の掌に顔をこすりつけて目を閉じた。

「まだ信じられない、夢みたいだ」

「夢じゃないわ…、もし私たちが一緒になっていたら、きっと子供なんて作らず二人で遊び歩いていたでしょうね」

「飽きもせずにね、…でも、楽しそうな顔ばかりしてはダメ」刹那は意地悪そうな表情を浮かべる。

「どうして?」

「奥さんはあなたが信じているほどやわじゃないわ、私の存在を知ったら譲のことを殺しかねない、気を付けて」

「そんな心配してくれるなんて…」唐沢は結希子の顔を思い出すことなく、刹那を見ていた。

「…ねえ、そろそろ苦しくなってきたでしょう?」

「大丈夫」唐沢がそう答えようとして口を開いた瞬間、水圧に押された塩辛い海の水が口の中に飛び込んできた。もう喋れない。普通に海の中にいる。

「そろそろあなたを放すわ」刹那は悠然と喋り続ける。「でもまたすぐにあなたの前に現れる、約束するわ、譲、さあ、ゆっくり力を抜いて、そのまま何もしなくていいの、流れに乗れば岸にたどり着けるわ」

唐沢は言われた通り力を抜き、両手両足を伸ばしてみた。身体が水の中を勝手に進む。

「振り向かないで、まっすぐ前だけを見て」後ろから追いかけてきた刹那の声が、耳元で泡のように消える。水の中ではすべてが流れていく。唐沢は流れに身を任せてゆらゆらと揺れながら岸にたどり着いた。水から上がると浮力が消え、身体が重くて動かない。その不自由さが心地よく、唐沢は眠りに落ちた。

その日の記憶はそこで終わる。


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