DAY 2 / DAY 3
タイトルにある「波」はOctavio Pazの短編「Mi Vida con la Ola(波と暮らして)」へのオマージュです
「城崎さん、このたびは主人がたいへんご迷惑をおかけいたしました」
翌日の昼過ぎに羽田発の飛行機で北九州空港に到着した唐沢結希子は、ロビーで夫の部下の城崎大輔の顔を見るなり、深く頭を下げた。柔らかそうな生地の水色のワンピースの上に同系色の麻のカーディガンを重ね、足元は白のスニーカー。化粧をしっかりとしていることに城崎は気がついた。
「そんなこと仰らないでください」そう言った城崎の格好はグレーのセットアップの上下と黒の革靴。ワイシャツを替えただけで昨日と一緒。
「とにかく病院へ連れて行ってください」結希子は城崎の言葉を遮るように言った。
「そうしましょう」城崎は結希子が引いていた小さなキャリーケースに手をかける。
「大丈夫です、城崎さん、自分で引いていきますから」結希子は言ったが「せめてこれくらは」と城崎の言葉が返って来る。結希子はもう一度頭を下げた。
「こちらです」城崎はタクシーの乗り場まで結希子を先導した。
車に乗り込むと城崎は病院の名を告げる。
車が走り出すと結希子は不安そうに聞いた。「唐沢は大丈夫なのでしょうか?」
「昨日お話した通り大事には至らなかったようですので、検査の結果が出れば奥様も安心できると思います」
「容体はわかりました、ありがとうございます、それよりも心配なのは仕事の方です…」
「仕事は大丈夫ですよ」
「そうでしょうか? 今回の件で、主人は仕事での信頼を失ったことでしょうね?」
結希子がどういう方向へ話を持っていきたいのか予想ができず、城崎はとりあえず黙って聞くことにした。
結希子が言葉を継いだ。「城崎さんと一緒に出張に出かけて途中で一人になって海に落ちるなんて、あってはいけないことです、あまりにも自分勝手だからそんなことになるんです、あの人は周囲に対する気配りが足りないんです、周りの人に支えられているからいまの自分があることにまったく気づかない、普通の人が一生懸命大事にするものを簡単に手放そうとする、自分の身勝手な行動がどんな結果を及ぼすか考えようともしない、だから今回のような過ちを犯すのです、いつか唐沢がとんでもないことをするんじゃないかってずっと嫌な予感がしていたんです…」
「奥さんは動揺されているのだと思います、唐沢さんは運悪く事故に巻き込まれたのです、だいたいこの程度で、と言っては失礼ですが、こんなことで唐沢さんが信頼を失うなんて絶対にありません、僕が保証します」そう言いながら、城崎はこの場での自分の立ち位置を決めた。
「本当に…?」結希子は念を押すように聞く。
「本当です」城崎は結希子の目を見て答えた。
「今回のことが良い薬になるよう、回復したら主人には強く言って聞かせます、城崎さんのようにしっかりした方が側にいてくださって本当によかったです、これからもどうぞ主人のことをよろしくお願いいたします」結希子は懇願するように言った。
城崎は目力に押されて「まずは唐沢さんが無事回復することを願いましょう」と言葉を返した。
その後結希子は黙り込んだ。城崎は車窓の景色を見るふりをしながら、窓に映る結希子の横顔を見た。この人は正面から見た方が美人だ、鼻の形があまり美しくない。そう思うとそれ以上横顔を見ていない方がよいと感じた。
妻というのはこのように振る舞うものかと、城崎は思いを巡らせる。
結局いちばん大切なのは家族の生活で、そのために彼女は夫の尻拭いをするつもりで来た。夫の体よりも、夫が会社にける立場とその後の処遇の方が気になる。妻というものはすごいと思う。自分がもし女の立場で結婚するとしたらそんな覚悟ができるのだろうか? 唐沢さんはおそらく彼女の覚悟に気づいていないだろう。「これくらいのことで唐沢さんが信頼を失うはずはない」と言った時、彼女は「本当ですか?」と念を押した。自分は本心から「本当です」と答えたが、社交辞令でも言葉は同じ。部下の言質に意味などないと思うが、それでも彼女は言質を取りたかった。きっと記憶力が良く、相手の言った言葉をたいてい覚えていて、質問をすると見せかけて、相手は求められる答えを口にするしかない。他人としてはとても興味深いが、一緒に暮らしたら面倒くさいかもしれない。昨日のタクシーの運転手の言っていた通り、唐沢さんはこの人と距離を取りたいということなのだろうか? 城崎は窓の外を見ながらそんなことを思った。
大部屋のカーテンを静かに開けると、結希子は城崎を無視するかのように、夫に声をかけた。唐沢は目を閉じていたが、結希子の声が届くと目を開き軽く微笑んだ。
「来てくれたんだ?」唐沢はそう言いながら上体を起こした。
「無理に起きなくていいわ」結希子が夫の体に片手を添えて言った。
「いや、大丈夫だよ、わざわざ来てくれなくてもよかったのに、日帰りは辛いから明日帰った方がいいよ」
唐沢の言葉で結希子の表情が変わる。
「なんてこと言うの? あなたの勝手な行動のせいで城崎さんをはじめ会社の方にもさんざんご迷惑をおかけしてるのよ」
「私や会社の方は本当に大丈夫ですから、それよりも今は唐沢さんのお体が…」城崎は助け舟を出したつもりが、唐沢に遮られた。
「城崎君、本当に悪かったね、ビデオ会議はリスケ?」
「はい」
「だよね…」
「唐沢さんも今は仕事のことはいいですから、せっかく奥様がいらしてくださいましたし」
「週末は彩華の学校の体育祭でしょう?」唐沢は妻に向かって言う。「ずっと楽しみにしてたじゃない? お弁当作りもあるでしょう? 早く帰って準備した方がいい」
「あなたがこんな具合なのよ」
「オレは大丈夫だよ、痛いところもないし…、検査の結果が出たら退院できるから一人で帰るよ」
「いったい何が起きたの?」
「何がって?」
「普通、海になんか落ちないわよね?」
「ああ、そのことか…、急に風が強くなって、煽られて後ろに落ちた、そのまま海に真っ逆さま」
唐沢の言葉がまるで他人事のように城崎の耳に伝わる。タクシーの運転手から聞いた話を昨日はわざと婉曲して結希子に伝えたが、口裏を合わせているかのように唐沢も妻に同様の説明している。
「どうしてそんな危ない場所にいたのよ?」
「危ない場所じゃない、普通の道だよ、歩いている人は誰もいなかったけど…」唐沢は語尾に笑いを含ませた。
「もとはといえばあなたが一人でタクシーを降りたりするからこんなことになったんでしょう?」
「そうなるね、でもいちばん良くなったのは寝たことかな、おかげでこんな大ごとになった」
「寝た?」
「海に落ちた後、泳いで岸まで戻った、すごく気持ちよくてそのまま寝ちゃったんだよ、気がついたら病院にいた」
「あなたは泳げないじゃない?」
「昨日は泳げたんだ」
「ふざけてるの?」
「まさか、時と場所はわきまえるよ」
「じゃあ夢でも見ていたんじゃない?」
「そうかもね…、寝すぎておかしくなっているかもしれない」
「おかしくなってる? おかしくなりそうなのは私の方よ、ねえ、私がどれだけ心配したと思ってるの? 寝すぎたなんてよく言えるわね、私昨日から一睡もできないのよ、本当に一睡もしてないの、誰のせいよ? それなのに昨日は泳げたとか、明日帰れとか言うの? どういうつもりなの?」結希子は声を荒げた。
「どういうつもりって、言った言葉にそれ以上の含みはないよ」
「本当に明日帰っていいのね?」
「そうしてよ、城崎君も先に戻ってよ、仕事溜まっちゃうから」
「指示を出すより城崎さんに謝る方が先でしょう?」結希子がすぐに反応した。
「お気遣いありがとうございます」城崎も唐沢が言葉を発する前に口を挟んだ。「とにかく今は唐沢さんに安静にしていただくことが一番です」
「城崎君、迷惑かけてわるかったね、とにかくいろいろとありがとう、申し訳ないけど眠くなってきた…」そう言いながら唐沢は目を閉じる。
「ちょっと…」
「奥さん、やめましょうよ」
「城崎さん、唐沢が迷惑をかけて本当にごめんなさい」結希子は夫に背を向けると、城崎に深々と頭をさげた。すごい人だ、城崎は驚いた。
夫と城崎が宿泊しているビジネスホテルにも結希子も部屋を取っていた。
ホテルに向かうタクシーの中で、結希子は「唐沢さん、病室では恥ずかしい姿をお見せして申し訳ありません」と口にしたきり黙ってしまった。
病室での唐沢の態度はあまりにもそっけなく、城崎は結希子に多少の同情を感じてはいたが、「恥ずかしい姿をお見せして」と言われてしまうと、あれが夫婦喧嘩かと納得をした。父親の記憶のない城崎は、犬も食わないと言う実際の夫婦喧嘩というものを見たことがない。夫婦喧嘩であるなら、あんなものにしょっちゅう付き合わされている唐沢が一人になりたいという気持ちもわかるような気がしてくる。唐沢の態度はそっけないが、言葉の内容には思いやりがあるし、妻は唐沢を心配し気遣ってはいるが、彼女を動かしているのは義務感のような気もする。たぶん自分は夫婦というものが好きではないのだろう。単に慣れていないだけではないと思う。唐沢も結希子もそれぞれがひとりの人間としては興味深い存在だと思うが、夫婦という枠でくくったとたんに個性といったものが失われる。昨日のタクシーの運転手とその妻も、唐沢とその妻も、大差はない。本質的に興味深い存在であるはずの男と女が、夫婦になったとたんにどうでもいい存在になる。それが城崎の夫婦観だった。人のあしらいが苦にならず、対人関係にまずストレスを感じることのない城崎が、唯一苦手意識を持つユニットが夫婦。だから、夫と離れた結希子が自分の隣りでだんまりを決め込んでも、病室で夫婦の会話に付き合わされるよりはずっと気持ちが楽だった。
それに女の不機嫌な表情を見るのは好きだ。
いままで好きになった女は、みんな不機嫌な表情が魅力的だった。不機嫌な表情で人前に立てる女を見ると安心する。
知らない人間やあまり親しくない人間の笑顔を見ると本性を見せてほしいと思ってしまう。カフェを外から覗いて、一人でスイーツを頬張って幸せそうな笑顔を浮かべて女と目が合って、彼女の恥ずかしそうな表情を見るのは僥倖だと思っている。でも知らない女やたいして親しくもない女の笑顔はビジネススマイルだと思っている。自分もそう。だから、一人でお笑い番組を見て、おかしい時は声を出して笑うようにしている。それをやらないと本当の笑い方を忘れてしまいそうな気がする。もしかしたら、自分は笑わなくても生きていけるのかもしれないが、そうはなりたくない。
結希子と別れて部屋に戻った城崎は靴だけ脱いでベッドに大の字になると、放心状態のまま天井を見上げていた。非日常的な出来事が続いたおかげで気が張っていたが、テンションがかかり過ぎて伸び切ってしまい壊れてしまったような感じだ。
スマホが鳴った。放っておこうと思いながら、つい手が伸びてしまった。結希子からの着信。城崎は電話に出た。
「はい」
「お仕事中でしたか?」
「まさか、横になってました」
「じゃあ、起こしてしまいましたね、ごめんなさい」
「いえ、寝てたわけじゃないです」
「お話があるのですが、お部屋に伺ってもいいですか?」
城崎は自分の部屋の番号を結希子に告げた。一瞬だけドキッとしたが、彼女もきっと落ち着かないのだろう。あのまま電話越しに長話をされたら、途中からどうでもよくなって寝落ちするかもしれない。そう考えたら来てもらった方がいい。城崎はベッドを直し、結希子のために向かいに椅子を置いた。
ノックの音が聞こえた。城崎は黙ってドアを開け、結希子が部屋に入ると鍵を閉めて、「狭いですが、奥さんの部屋もかわたないでしょうね」と部屋の奥を指さした。
「先に行ってください」結希子に促され、城崎は狭く短い通路を先に歩いた。結希子がついて来る気配がした。ベッドの前で後ろを振り返ろうとすると、突然結希子に手を握られた。
「城崎さん、聞いてほしいことがあるの」
「はい」城崎は振り返らずに答えた。
「怒らないって約束してくれる?」
「はい」
「あなたが唐沢を突き落としてくれていたらよかったのに…」
「奥さん」城崎は振り返った。
「だって…」結希子は唐沢が振り返るのを待っていたかのように、目を見て言った。「いずれこうなる予感がしていたから」
「こうなるって、この状況ですか?」城崎は頭の中に浮かんだ言葉を口にすることを躊躇った。これはまるでベタなメロドラマ、昼下がりの情事。結希子の表情は柔らかく瞳がうるんでいる。
「だって病室で私を見た時のあの人の反応、おかしいでしょう? 何事もなかったかのように、ああ、いたの? みたいな顔してたわ」
「まだ意識がしっかりしていなかったんじゃないですか? 言葉も少なかったです」
「そうかしら? 昨夜連絡を受けてから私は一睡もできなかったのに、唐沢は私のことなんか思い出すこともなく朝まで死んだように眠っていた、…いっそのことあのまま死んでしまえばよかったのに…」
「そんな言葉を口にしないでください」城崎は条件反射のように常識的な言葉を返す。
「私はずっと唐沢を愛してきたわ、でも唐沢は人を愛することができないのよ、私の愛が足りないんだってずっと思ってきたけど、これだけ一生懸命やってもダメだった、私には手に負えなかった」
夫を愛している、その「愛」という言葉を聞かされることで、城崎は目の前にいる上司の妻と自分が、このまま男と女の関係になだれ込むことを予感した。
「私ははしたない女でしょうか?」結希子が言った。
「そんなことありませんよ」城崎は何も考えずに答えた。答えの選択肢が一つしかないことは考えるまでもない。城崎が肩に手をかけると、結希子は城崎の体にしだれかかり、唇を這わせた。城崎は結希子の匂いと柔らかい肌に溺れることに決めた。
結希子は、何も着ていない城崎の体の上に下着だけをつけた自分の体を乗せて、城崎の左の頬に自分の左の頬を合わせた。城崎の長い右腕に沿って、左手の指をゆっくりと下に這わせていくと、城崎が手を握った。右手で城崎の身の毛に触れると、結希子は耳元でため息を漏らし、言葉を継いだ。「私には無力感しかないわ」
結希子の言葉を聞いて、城崎は現実が戻ってくる気がした。また夫婦の話か…、城崎はわざと黙っていた。
「唐沢から両親の話を聞いたことある?」
「いいえ」
「そう、城崎さんにも話してないの…」結希子が体を少し動かしたので、城崎はもう一度女の柔らかさを感じた。「唐沢が小学生の時に母親は家を出たの、理由はよくわからない、話してくれないから、…お義父さんは本当に優しくていい人だわ、たぶん唐沢よりもずっとまともな人、でも母の愛の欠落は埋められない、最初に唐沢から話を聞いた時はかわいそうな人だと思ったわ、だから私が愛で満たしてあげるって約束をした、結婚ってコミットメントだと思っていたから、私が愛されていないと感じるときは唐沢のせいじゃなくて、私の愛がたりないからだってずっと自分に言い聞かせてきた、…結婚の挨拶にいったとき、お義父さんは涙を流して喜んでくれた、息子は心優しい人間で母親に対して恨みがましい言葉を何一つ口にしたことはないんだってね、唐沢は優しいのではなく傷が深すぎたの、辛かったよ、寂しかったよって泣きながら心の中を吐き出すこともできないほど傷ついてしまっていた、そう理解したわ、でもそこから何もできない、何度かお義母さんのことを強く非難してみたこともある、それでも唐沢は一度ものってこない、その話はやめろとも言わないし感情を出してもくれない、『もしかしたらお義母さんの秘密を知っているの?』と訊いてこともある、そのときも『そんなもの知らないよ』と軽くあしらわれた、口にしていいことじゃないってわかっていて言ったのよ、私はただ唐沢の感情を揺さぶりたかったの、でも何も出てこないの、笑ったり不機嫌になったりはしても、泣いたり怒ったりはないの、泣くのも怒るのもいつも一方的に私だけ、唐沢は必ず謝るけど反省しないし、そもそもどうして私が泣いたり怒ったりしているのか関心もない、ただ面倒くさいから謝っているだけなのよ、私は本当に疲れたわ」
城崎はかけるべき言葉が出てこない。
「もしかしたら唐沢には変な血が流れているかもって考えたこともあるわ、でも違うと思う、二人の子供を見ている限りそうは思えないから、あの子たちには両親がいて、二人とも普通に育っている、唐沢が心を開ききれないのは子どもの頃のトラウマのせいよ、…いまオレが死んだら生命保険がいくら入ると思う? 城崎が時々ふざけて言うのよ、『いくら?』って訊くと答えを教えてくれる、けっこうな金額すぎて全然現実味がなかった、でも今回初めて思ったわ、主人が死んでお金が入る、それもいいかな…、上の子供は来年高校生よ、私のことは愛してくれなかったかけど、子供たちの父親としては文句のない人だった、十分な愛情をかけてもらった記憶は二人には残るはずよ」
城崎は相変わらず黙っている。
「ねえ、城崎さん」結希子は彼の頬を撫でて声のトーンを替えた。
「はい」
「本当のことを言ってほしいの」
「何ですか?」
「あの人ほかに好きな人がいない?」
「そんな話、聞いたことがありません」
「本当?」
「本当です」
「そうよね、私も本当は疑ったことはないの、…でも、今日あの人の体から女の匂いがしたわ」
「まさか…、体を拭いた消毒液の匂いじゃないですか?」
「あんな匂いのする消毒液あるかしら?」
「消毒液にもいろいろな種類があるかもしれないですよ」
「私にはわかる、女だから、あれが絶対に女の匂いよ、…とにかく、今回の件で夫は会社にご迷惑をおかけしたでしょうね?」
「唐沢さんは事故にあわれたんです、責められることなんてありませんよ、仕事は全部リスケすれば済む話です」
「全部ってそんなにいろいろ絡んでいるの?」
「いえ、言葉の綾です、誤解させたなら申し訳ありません、唐沢さんに元気になってもらわないと困るのは会社の方ですから」
「そうかしら? 誰かの失敗は他の誰かのチャンス、組織はそうやって回っていくのでしょう?」
すっかり結希子のペースにはまって何も言えない自分を、城崎は受け入れるしかなかった。
「城崎さんのように常識も社交性もある人が側にいてくれれば、主人はおかしなことをしないだろうって期待した、ずっと主人のことを危なっかしい人だと思っていた、いろいろなものが欠落している、昨日まで何事もなかったのに、今日突然道を踏み外す、いつかそんな日が来るような予感がずっとあった、それが昨日の出来事」
「何も踏み外してませんよ、事故なんです」
「事故だとしたらあの人が引き寄せた、…子供を産んだのは、主人のためだったのよ、子供を愛することで人を愛する喜びを知ってほしかった、確かに子供には愛情を注いでくれた、そこは100点をつけてあげる、でも他の人に対する思いやりが全然ない、私に対しても、あの人が会社で働いていること自体私には不思議なの、だって社交性がないのだもの、よほど周りの方に恵まれたのね、…母の愛を知らずに大人になったあの人の心は真ん中に隙間ができたまま閉じてしまったようなものなの、端が欠けているのなら治してあげることもできるけど、真ん中には手が届かない、私は無力さを知ったわ」
初めて子供のいる女と肉体関係を持った。相手は十歳近くも年が上。二十代の頃からまだしも、年上の女に憧れる年齢でもない。
女をカテゴライズするのは簡単だけど、体を合わせてみると女はみなあまりにも違う。年齢上とか下とかとか、子供を産んでいるとかいないとか、そんなことでひとくくりにできるようなものなど何もないと思い知らされる。
だから、女と別れた後は城崎はいつもわけがわからなくなる。
「夫に愛してもらえなかった妻の役に酔う女」を面倒くさいと思いながらも、結希子には同情をした。同情と愛の違いはよくわからない。しばらく会いたくないと思うが、会わなければきっと会いたくなるだろうという予感もする。そしてまた、今は結希子のことを特別な存在、自分にとって特別な存在というより一人の女性として唯一無二の存在のように感じながら、何日か経てば、前の男とも思い出話をことあるごとに蒸し返す面倒くさい女という枠にカテゴライズしたくなることも想像がついた。「面倒くさい」と言う言葉を何度か頭の中に浮かべているうちに、「面倒くさい」状況を自分はそれほど嫌いではないことに気がついた。愛する女に裏切られるとか、自分を裏切った女を愛するとか、騙すつもりが騙されるとか、どれもよくあるメロドラマで自分はすでに片足を突っ込んでいるのかもしれない。そう思うと楽しくなってくる・
結希子が考えそうなことに思いを巡らせているうちに、城崎はいつの間にか自分のことを考えている。
もし仕事がらみで唐沢の関係が最悪になり、自分が唐沢を海に突き落としたら、彼女の頭の中では「僕が彼女を愛していたから唐沢さんを突き落とした」と変換されるのだろう。
唐沢はひとりで海に飛び込んだ。「唐沢さんが死んだら」なんて想像したこともないけれど、考えてみたら自分にとって悪いことは何一つない。
内面では何を考えても自由だ。というより、こういうことを考えない人間は想像力がない。ビジネス書にもよく書いてある。想像力がなければ何も生まれない。つまり成功する人間は腹の中ではとんでもないことを考えているのだろう。それができない人間は、「いい人」と呼ばれていいように使われるのだ。社内では僕の価値は上がる。唐沢がいなくなれば結希子はもう上司の妻ではない。親切にする必要もないし。面倒くさければ一生会わなければいいし、ズルズルと関係を続け長ければ続ければいい。
翌日、城崎と結希子は同じ飛行機で東京へ戻った。