DAY 1
タイトルにある「波」はOctavio Pazの短編「Mi Vida con la Ola(波と暮らして)」へのオマージュです
―人は何のために生きる? 陶酔のため? 自分の半分を失ったままでは、陶酔なんてできない
―私は水に溶けるの
「東京からいらしたのでしたら、本来なら九十九島はぜひ見ていただきたい、でも五月というのにこの季節外れの寒さで雲行きも怪しい、風も強い、今日はおすすめできません、本当に歩かれるんですか?」
ブレーキを踏んで車を停車させると、それまで無言でハンドルを握っていたタクシーの運転手が突然饒舌になった。
「ご心配なく」唐沢譲はそっけなく答えた。唐沢の隣りに座っていた城崎大輔は二人のやり取りを黙って目で追っている。
唐沢は「じゃあ仕事頑張って」と城崎に声をかけて、一人でそそくさと車を降りた。
やはりこうなったか。城崎は心の中で苦笑した。
上司の唐沢とは、何度かタクシーで一緒に取引先に出掛けたが、帰りはいつも別行動だった。「寄る場所がある」「気分転換したい」何らかの理由をつけて城崎一人をタクシーに乗せ、唐沢は消える。出張先では同じタクシーで帰ると思ったが、「帰りは城崎君が奥に乗ってよ」と言われた時からすでに怪しかった。
乗車してすぐに、城崎は「明日のミーティングの資料、これからまとめますね」と口にした。唐沢は「邪魔しないよう、一人で景色でも見て歩いて帰るよ」と言い出した。
タクシーは再びゆっくりと発進した。城崎の横には、唐沢が置いて行った黒いバッグが残されていた。
「今のお客さん、きっと後悔すると思います、私が忠告したってことは覚えておいてください」運転手が城崎に言った。
ああ、話好きの人が気を遣って黙っていたのだ。城崎は後ろを振り返った。唐沢の姿は遥かに遠い。カーブに差し掛かると城崎の体が横に揺れて、唐沢は視界から消えた。
今日は午前中から、取引先のソフトウェア会社のオフィスにいた。東京から遠く離れた長崎県佐世保市。年に一度の佐世保詣でに、城崎が初めて同行した。地方の小さな会社の技術が、自分の属する事業部の根幹を支えていることを、あらためて実感した。長い打ち合わせは4時前に終わり、上司のいない車内で城崎は気を緩めたかった。それでも会話に付き合うのは礼儀だ。
昨日は昼間の仕事を終えて羽田発長崎行きの飛行機に乗った。佐世保駅前のバスセンターに着いた時には夜の8時半を回っていた。二人とも疲れていて、夕食はコンビニ弁当で済ませた。今日はこれから唐沢が、繁華街の海鮮料理の店に連れて行ってくれると言う。東京へ戻る飛行機は明日の朝。唐沢が連れ回すつもりでいるなら付き合う覚悟でいた。
「ホテルに戻ってひとりでお仕事ですか? 大変ですね」白髪を茶色く染めた運転手が城崎に言う。城崎は頭の中に三人を配置した。彼が50、自分が30、上司の唐沢が真ん中の40。
「あれは嘘です」城崎は間を置いて答えた。
「え? 嘘なんですか?」
「嘘というより方便と言った方がいいでしょうか」城崎は答える。「上司は一人になりたい人です、ホテルに戻って仕事をすると言えば、先に帰れと言えるじゃないですか、それくらいは見透かされているはずです」
「なるほどぉ」運転手の声のトーンが上がる。「上司の方、妻子があるでしょう、あのタイプだと奥さんは美人ですね?」
ここで会ったことがないと答えては、話の腰を折るだけだ。運転手に対し、礼儀を欠くことになる。
「ええ、綺麗な人です」城崎は正直に返事をした。たとえ美人ではなくても「いいえ」とは答えないだろう。意味のない質問と決まりきった答え。コントだ。
「きっと完璧な奥さんですよ、一緒だと息が詰まるくらい、だから上司の方は一人になりたがる、そんな雰囲気がありましたよ」
「雰囲気でわかるんですか? すごい観察力ですね」
「ははは、いやあ、こういう仕事をしてると、人を見る目が養われます」
運転手が相好を崩したことを、後部座席の城崎はルームミラーで確認した。
市役所の職員をしていた城崎の母親は、城崎が小学生の頃から処世術を教えた。
単純なことで喜んでみせること。食事を出されたらすごくおいしそうに食べること。自慢話をされたら相手の目を見て笑顔で「すごいですね」と驚いて見せること。それこそが礼儀で、礼儀を知っていれば、確実に他人から好かれて世の中をうまく渡っていける。心の内は何を思ってもいい。他人の心の内はわからないのだから。
「お客さんはずっと東京ですか?」
「はい、運転手さんは?」質問をされたときは、同じ質問を返せばいい。たいていの人は、他人の話を聞きたいのではなく、自分の話を聞いてほしい。
「実は私も東京です、と言っても町田ですがね」
やはり自分の話。城崎は言葉を返す。「だから言葉が標準語ですか?」
「普段はこっちの言葉使いますよ、東京のお客さんを乗せた時は標準語に戻ります、ほっとしますよ、慣れたつもりでも無理してるのかなあ? うちはねえ、カミさんが佐世保なんです」
「それでこちらに?」
「ええ、…私もカミさんも子供が大好きでね、子供が欲しくて結婚したようなものです、でもこればかりは授かりものでね、ダメでした、…5年ほど前にカミさんの親が亡くなりましてね、カミさんは時々帰ってはいたんですよ、で、主のいなくなった家をどうしようって話になったわけです、親戚の子供も近くにいるし、私も環境を変えたい理由がありましてねえ…、なんだかんだでこちらに住もうかって勢いで来たわけです、来てみたら仕事がこれくらいしかない、…ところが、慣れてみると悪いものじゃない、東京にいた時はタクシーに乗るなんて思ってもみなかった、意外と私には合ってるんでしょうね、すべてカミさんのおかげかな、ははは」
「そうでしたか」城崎は相槌を打つと、夫婦の話題が出た時に訊くべき質問をした。「どちらで出会ったんですか?」
「ああ、よくある職場結婚というやつです、職場と言ってもお客さんみたいに立派な会社じゃないですけどね…」
「職場に運命の人がいたなんて羨ましい話です」
「いやいや、そんなじゃないですよ、まあなんていうか、人は半径3メートル以内で恋をするって言うじゃないですか、まさにそれですよ、会社が同じなら相手の給料も察しがつく、腹の探り合いもいらない、楽だったんですよ、結婚したら喧嘩もしますけど、一緒に暮らせば情が移るのが夫婦ですよ」
「最後はのろけですか? ごちそうさまでした」城崎はおどけた口調で言った。
「いやあ、…実を言うと東京を離れることを決めた理由は女がいたんです、カミさん以外の、そっちが面倒くさいことになりましてね」
フックだ、城崎は思う。
会話が始まると城崎はいろいろと考える。どんな答えをするべきか、どんな質問を返すべきか、話題をどちらに持っていくべきか。うまくはまれば相手が一方的に喋ってくれる。あとはその会話に乗ってしまえば楽ができる。たいていはそれで事足りる。相手が乗ってこなければフックを出す。きっかけ、とっかかり、壁に洋服をひっかけるフック。
一向に自分の話をしようとしない城崎に、運転手がフックを出してきた。
「それは大変でした」城崎はこのフックには引っかからないことを決めた。
「お客さん、ご結婚は?」運転手はさっと話題を変えて、ストレートに訊いた。
「してません」城崎は短く答える。
つねに相手の腹の内を探りたくなる自分の性格の面倒くささを、城崎はわかっていた。それでもこうせずにはいられない。どんな相手であれ、他人が目の前にいるときの沈黙の時間が一番怖かった。どうするかをあれこれと考えてしまい、落ち着かない。沈黙をゼロの状態と考えれば、ゼロからイチを作り出すのは大変な作業だ。喋らずに外を見ていられる、唐沢のような人間が一番苦手だった。
「お客さんならいくらでも見つかるでしょう、お相手くらい」
「いやあ、なんか面倒くさくて…」
バカなふりやモテないふりも有効だ。それが「ふり」であると見破れない相手はたいてい心を開く。「ふり」であることを見破る一枚上の相手は評価してくれる。
今の「面倒くさい」は本心だった。つねに相手の心の内を探ろうとする自分には、心から女性を愛することなど無理な気がする。愛するとはどういうことなのか、どういう状態なのか、想像ができない。
「愛が冷めるなんてよくあること、それでも続けなければいけないのが結婚です」
地味な外見の運転手の口から突然ロマンチックな言葉が出てくる。そのギャップに城崎は可笑しくなった。
人間を甘く見るな。これも母から教わった。この人だってかつては愛人を持っていた。
「そういうものですか?」城崎は身を乗り出した。
「だって婚姻届を役所に提出するでしょう、婚姻届とは契約書です、たとえばお客さんがある女性に惚れたとしましょう、お客さんは誠実な人で、誰よりも彼女のことを愛する自信がある、その思いを彼女にすべて伝えた、時間もお金もたくさん使った、それでも彼女はあなたの気持ちに応えてくれない、どうすればいいでしょうか?」
運転手はやや間を置いたが、城崎の答えを待たずに言葉を続けた。
「どうにもなりません、一生懸命になればストーカーだと訴えられるかもしれない、愛に応えない彼女には何の非もない、好きになった側が悪いのです、愛さない側が愛する側を訴えることができる、逆はできない、それが恋愛です、でも結婚はそうではない、ギブアンドテイクです、愛が冷めたというのは言い訳にはなりません、愛されたら愛さなくてはいけないのです、愛を強制されるのです。…でもね、ここが不思議ですが、強制されるのはそれほど嫌なものでもない、しょうがないなあと思う気持ちも愛です、想像したら結婚は面倒くさいものでしょう、でも、してみるとそれほど悪いものではないですよ」
誰かの受け売りかもしれない。でも内容自体は興味深い。この話を、きっと何十回もしているのだろう。
「あの、子供がいない方が夫婦は仲が良いものでしょうか?」城崎は運転手が喜びそうな質問をした。
「ちょっと違うのかなあ…、子は鎹と言う言葉があるでしょう? 子供を育てている間は、子供を最優先に協力してしまうのでしょう、結局は子供がいなくても協力していける夫婦が幸せなのだと思います」
「そういうことですか」
「先ほどの上司の方、お子さんはおいくつですか?」
「中学生です、男の子と女の子」
「そんなに大きいお子さんがいらっしゃる?」
「二十代で結婚して子供ができたそうです」
「たいへんだ、これからお金がかかるでしょうね」
話題が結婚観から経済観に移りそうになるタイミングで、佐世保の市街地が城崎の目に入った。城崎は会話を終わらせるために黙った。
車内で流れていたラジオのニュースの一部が聞こえた。
―被害者の元夫の○○容疑者36歳を殺人未遂容疑で逮捕しました。○○容疑者は復縁を迫ったものの―
「愛は冷めるものです」運転手は先ほどの言葉を繰り返した。話に見事に落ちがついた、この運転手はきっと満足だろう。
タクシーを降りて、唐沢と自分の二つのバッグを持ったまま、ハッとした。一度愛した相手を憎むようになるのは、もしかしたら自分のような人間かもしれない。他人の気持ちなどわかりようがない。人を本気で好きになるということは、わかりようのないその気持ちをわかろうとすることかもしれない。その努力が報われないと知った時に、しかたがないで済ますことができるのだろうか?
他人の話を聞くより、自分の話を聞いてほしい。最後はここに落ち着く。運転手との会話は、お約束のオチへ向かうコントだった。
「ただいまホテルに戻りました。バッグを預かっておりますので、戻られたらご連絡ください」
部屋に戻ると真っ先に社用スマホで唐沢にメッセージを送った。
エレベータの横の自販機で買ったペットボトルのコーヒーに口をつけた。セットアップの上下をハンガーにかけて靴下を脱ぎ、ベッドに大の字になってストレッチを始めた。関節を柔らかく保つことのメリットは大きい。ケガをしなくなるのはもちろん、動きが優美な人間は動きがぎこちない人間よりも格段に良い印象を与える。結局、小さなことの積み重ねが、埋めようのない大きな差へとつながる。格差のない社会などあるはずはないが、そのことは口にしない方がいい。それもまた礼儀だ。
戻ってから一時間は優に過ぎたが、送付したメッセージが既読にならない。一人のときはスマホも見たくないのだろう。城崎はベッドから起き上がり、報告書でも作ろうとノートPCを開いた。その時。部屋の電話が鳴った。
「フロントでございます、城崎様、本日はタクシーでお戻りになられましたか?」女の声が唐突な質問をした。
「はい」城崎は落ち着いて答えた。
「唐沢様はどちらにおいでかご存じですか?」
「いえ」
「お手数ではございますがロビーまでお越しいただけないでしょうか? 運転手さんが唐沢様のことでお話があるそうです」
「わかりました」
城崎は受話器を置くと、急いで部屋を出てエレベータで一階に降りた。先ほどの運転手とフロントの女性が不安げにこちらを向いている。
「どうされました?」城崎は二人に近づきながら訊いた。
「上司の方、戻ってないそうですね?」運転手は数時間前とは表情だけではなく声のトーンも違う。客商売をしている時の柔らかさがなくなった。
「まだ戻りません、メッセージも既読がつきません」
「少し前にスーツ姿の人が海に落ちて病院に運ばれたって聞きましてね、もしやと思って参上した次第です」
「海に落ちた?」
「ええ、ただ場所がね、お連れさんが降りた場所よりもさらに先なんですよ、おかしな話だとは思いますがね…」
「海に落ちるなんて、そもそも、あることですか?」城崎は不審に思った。
「初めてですよ、そんな話、…でも救急車で運ばれたのは本当だから」運転手は自分に向けられた不審さに苛立った。
「わざわざいらしていただきありがとうございます」
「乗せていきますよ、病院まで」運転手は有無を言わせぬ口調で言った。
「ぜひお願いします、少々お待ちいただけますか? 必要なものを持ってすぐに戻りますので、…そうだ、運転手さん、お名刺お持ちですか?」
「名刺? 車に戻ればあるけど」運転手は不快な表情を見せた。
「落ち着きましたらあらためてお礼をさせていただきますので、あとで一枚頂戴してもよろしいでしょうか? とりあえず車にお戻りください」
城崎はもう一度軽く頭を下げると早足でエレベータに向かった。
部屋に戻り、使うはずはないと思いながらもパソコンをバッグにしまい、上着を着てポケットにスマホと財布を入れて、バッグを手に部屋を出た。
ありがたいことに、移動中のタクシーの中で運転手は無言だった。病院には10分ほどで到着した。城崎は千円札を二枚出して釣銭は受け取らずに領収書だけを受け取り、「あらためてご連絡します」と言ってタクシーを降りた。
救急受付と書かれた入り口を通り、ガラス窓の開いた受付口で警備員らしき人に要件を告げた。
「海に落ちて運ばれた人がいると聞いたのですが、私の上司かもしれません」
目の前の男がメモを見て言った。「唐沢譲さん?」
「そうです、私の上司です」
「お待ちください」警備員の男は電話で誰かと話しながら、クリップボードに挟まれた入退館記録書を窓口越しに城崎の手前に滑らせた。
「こちらへご記入をお願いします」電話を切ると男が言った。「身分証はお持ちですか?」
城崎が免許証を見せると、救急のナースステーションへの行き方を指示された。
エレベータで上の階へ上がり、ナースステーションの看護師に声をかけると、廊下の椅子で待つように言われた。
「唐沢は大丈夫なのでしょうか?」
「先生からご説明がありますので、それまでお待ちください」
やがて白衣にサンダル履きの二十代と思われる男性医師が現れた。表情は穏やかだった。城崎は立ち上がって軽く頭を下げた。
「ご苦労様です、唐沢譲さんの会社の方ですね?」
「はい、部下の城崎と申します、先生、唐沢はいかがでしょうか?」
「いまのところご心配されるような所見は特にありません」医師は落ち着いて答えた。
「外傷はありません、意識もしっかりしていますし、血圧、体温、心電図、すべて問題はありません、眠くてたまらないと仰ってぐっすり眠られているようです、海に落ちたということですので、明日一通り精密検査を予定しております」
「ひとまず安心しました、先生、ありがとうございます」
「入院の手続きが必要なのですが、城崎さんにお願いしてよろしいですか?」
「もちろんです」
「それから、ご家族とお話したいのですが、連絡はつきますか?」
「はい、まずは会社に連絡します、ここで電話をしてもよろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
城崎は唐沢の上司にあたる部長に電話をした。唐沢が海に落ちて病院に運ばれたが、医師によれば外傷はないとのこと、急ぎでご家族と連絡を取る必要があるので自分が電話をかける、詳しい報告はその後でする、その三点を手短に伝えた。
「そうしていただけると助かります、城崎さん、お手数おかけしますがよろしくお願いします」動揺しているのか、部長の言葉が気持ち悪いくらい丁寧だった。
城崎は唐沢の妻の携帯番号を知っていた。一年ほど前の土曜日、社員の家族を招いた職場見学のイベントがあった。唐沢の妻と二人の子どもも参加した。城崎は唐沢の妻からあいさつをされた。綺麗な人という印象よりも、気の強そうな人という印象の方が先に来た。この人に何かを頼まれたら、自分はきっと断れない。彼女はその場で、「緊急の場合があるといけませんから」と自分の携帯番号を城崎に伝えた。
それから間もなくして、唐沢が風邪で仕事を休んだことがあった。喉が痛くて声が出せず、唐沢本人ではなく妻がオフィスに連絡を寄こした。ちょうど席を外していたので誰かが電話を取ったが、その数分後に城崎の携帯が鳴った。「主人がご迷惑をおかけして申し訳ありません、今日は家におりますので、何かありましたら私にご連絡ください」彼女の携帯からだった。
城崎は妻の携帯に電話をした。
「あら、城崎さん、どうされました?」彼女は芝居がかった声を出した。
「夜分に申し訳ありません、部下の城崎です」城崎は家の電話にかけているような口調で言った。「落ち着いて聞いていただけますか?」
「はい」彼女は三秒ほど間を置いて返事をした。
「唐沢さんが海に落ちて病院に運ばれました」
「そんな…?」
「かなり強い風が吹いていました」伝えるべき情報として、それくらいしか思いつかない。「僕とは別行動をされていました、お医者さんがお話ししたいそうですが、このままお話ししていただけますか?」
「わかりました」
「少しお待ちください」城崎はそう伝えると、「奥様とつながっています」と言って医者に自分のスマホを渡した。医者は電話越しに状況を伝えると、「お話になりたいそうです」と言って城崎にスマホを差し出した。
城崎は軽く頭を下げて受け取ると、医者の目を見ながら「代わりました」とスマホの向こうの唐沢の妻に言った。
「城崎さん、ご迷惑おかけして本当に申し訳ありません」
「そんなことおっしゃらないでください、こちらのことはすべてやっておきます、どうぞあまりご心配なさらないでください」
「明日、そちらに向かいます、それまでよろしくお願いします」
「かしこまりました、お気をつけていらしてください」
「城崎さん、このあとはホテルに戻られますか?」
「そのつもりです」
「落ち着かれたらもう一度ご連絡をいただけますか? 私、佐世保には行ったことがなくて」
「はい」
「何時でもかまいません、待ってます」
「戻りましたらすぐに連絡いたします」
電話を切ると、城崎は医師と一緒にナースステーションに戻った。医師は看護師に指示を出し、城崎に頭を下げると足早に立ち去った。城崎は椅子に座り、看護師から渡された書類に指示通り記入を始めた。唐沢譲の三文字を書き終えたところで、人として当然湧いてくるはずの心配が、自分の中にはまったくないことに気がついた。唐沢が海に落ちたのは、偶然とか運が悪かったとか、そんな言葉では済まされない、何か別な理由があるような気がする。そもそも「海に落ちた」などという言葉を聞いたことがない。耳にすっと入ってくるが、とても異様な言葉だ。
「海に落ちた」城崎は看護師に聞かれないよう、小さな声で口に出してみた。
違和感しかない。
唐沢は、なぜホテルとは反対の方向に向かったのだろう。景色を見ていただけなのか?
当事者の唐沢は、今頃誰にも邪魔をされずに悠々と眠っている。
「羨ましい人だ」城崎は再び小さく声に出した。




