拾九 昔語り【其の一】
暗闇の中で、白い影がふわりふわり、と舞うようにゆらぐ。
いつものように白い影の輪郭が次第に美しい娘の姿を成していくのを眺めながら、宗音は「またか」と夢を自覚した。娘が踊るように手足を動かし、くるりと向き直っては宗音に笑いかける。
だが、今日はいつも少し違うようだ。
「宗音、宗音」
娘が名を呼んだ。鈴のような軽やかな声だ。しかし、その響きは悲しみが籠もっている。見ると、笑っていると思っていた表情が、実は今にも泣き出しそうな悲しげな顔をしていたのだ。
「来ないで⋯宗音。来ないで」
夢の中の宗音は、分かっていた。この娘はいつも反対のことを言うのだ、と。
「来ないで」と言うことは「来て」ということなのだ。
「何があった?」
心配になった宗音が尋ねると、
「光明が」
と娘が言う。
光明。今は子糸房丸と名を改めた弟弟子だ。何か嫌な予感がして、宗音は思わず身構える。娘は一体何を訴えているのだろう。そう思ったところで⋯
***
宗音はパチリと目を見開いた。
気がつくと宗音は顔のそばで動くモノを無意識に掴んでおり、右手の中でぎゅむっと押しつぶされたナニカがジタバタともがいていた。
「ぬぁああっっ!ひゃなせぇぇ」
フタマルである。
「何をしている」
宗音は起き出して、手の中でもがくフタマルを見つめた。
「そりはコッチの台詞だあぁい!」
「何故部屋に入ってきている。結界を解いたのか?」
と言ったところで思い出した。
昨日は夜遅くまで旅支度を整えていたこともあって、簡易結界を張らずに寝てしまったことを。
見ると、いつもは三匹一緒にいるはずなのに、他の二匹は部屋に入らず、部屋の外からちょろちょろとこちらの様子を伺っていた。
まだ日は昇っていない薄暗さなので、三匹は姿を保っているようだ。
「ソーオンがうなされておるからぁ!様子を見に来てやったのだんっ!」
手の中のフタマルがそう叫ぶ。
どうやら心配されていたようである。
宗音はようやく事態を把握して手の力を緩めた。
「まったくくく〜!ヒトマルもミツマルも『ソーオンは危険だぞん』と言うからワシ一人様子を見に来てやったのにいいい」
フタマルはぷりぷり怒っている。
寝ていても宗音は宗音だ。ちょいと本気を出せば、このような小さな妖はぷちり、とひねり潰されてしまうのを警戒していたらしい。
「すまない。起こそうとしてくれたのか?」
「そーじゃん。うなされておったぞおおん?」
うなされていたのか。
そういえば、またあの夢を観ていたが、起きるとその記憶は途端に朧げになる。そう思っていると、フタマルは怒りが収まってきたのか、今度はニヤニヤし始めた。
「しっかし、お主も隅におけんのおおお?女の名前を呼んでおったぞん」
「⋯なん、だと」
「確かぁああ、『サグメ』とか言っておったん」
サグメ。
名を聞いた瞬間、宗音はすべてを思い出した。
***
宗音が六歳の頃の話である。
妖が見えることで実家での居場所をなくし、周防の宝積寺に預けられたばかりの頃だった。
父も母も、見知った者が一人もいない山奥の寺で、宗音はこの環境になれようと必死だった。自分の居場所が保てなければ、幼いながらにもう後がないと思っていたのだ。
悲壮感さえただよわせた幼子に、同瞬和尚は淡々と接した。毎日の生活を丁寧に積み重ね、身体を鍛え、しっかり食べる。まずはこの基礎を徹底的に教え込む。武人上がりのせいか、優しい言葉をかけて子供を育てるような人柄ではなかったのだが、どんな者でも分け隔てなく受け入れる懐の深さがある人物だった。
一方で、宗音を一番可愛がってくれたのは、兄弟子の普門だった。
当時、十四だった普門は年の割に身長が高く、肩が張っていてより一層大きく見えた。目がキツネのように細く、一見睨まれているようにも見えるのだが、実は意外と幼い者に優しい。
「よしよし、宗音。次は槍だ。槍を持って構えてみろ」
「はい!普門さま!」
宗音は槍を構え、教えてもらった通りに型を作る。
「いいぞ、宗音は覚えが早いな!だが、私に敬称は不要だぞ。『普門』と呼べ」
「承知しました!普門」
この当時、兄弟子は他にも徳龍、普明などもいたのだが、それぞれの理由で不在の事が多く、同瞬和尚の側で雑務を一手に引き受けていたのは普門だった。毎日目まぐるしく働いており、ずっと宗音を気にかけてくれるわけではない。
宗音もまた、聡く、聞き分けのよい子だったこともあって、己の立場をわきまえて兄弟子の邪魔にならないように、己に課せられたことを淡々とこなす日々。
そんな風にして半年ばかりが過ぎた頃だった。
宗音には弟弟子というものができた。
このときのことを宗音はよく覚えている。
既に髪の毛がなくなって久しい同瞬のもとに、髪の毛はわずかばかり生き残っているものの、同瞬より随分とくたびれた老人が腹に縄を結んだ男児を連れてきたのだ。
「同瞬、ひさしいのう」
その老人は同瞬和尚と知古の友人らしく、ひとしきり昔を思い出して語り合っていたかと思えば、男児をそのまま寺に残して去っていった。
「宗音。新しい弟子じゃ。名を『光明』と言う。お前は兄弟子としてしっかり世話をしてやりなさい」
「はい、和尚さま」
たった半年で兄弟子に昇格してしまった宗音だったが、実はかなり嬉しかった。己に初めて役割ができたのだ。
普門がしてくれたように、宗音もしっかり弟弟子の面倒をみなければならない、と張り切った。
だが。
この光明という弟弟子は一筋縄ではいかなかった⋯。
まず、何故縄で結ばれていたのかというのはすぐ判明した。
光明はすぐどこかへ行ってしまうし、人の話は聞かないし、木にも登れば、川にも飛び込む。びしょびしょになってもお構いなしだ。
「光明!光明!勝手に行ってはだめだ!戻ってきて!」
宗音は必死に追いかけ、話しかけ、なだめすかした。しかし。
「あーーーー!」
としか返事がない。
「こりゃ飛んだ野生児じゃな⋯」
気がつくと同瞬が後ろに立って、木に登ってから降りてこないびしょ濡れの光明を眺めている。
「猿、ですかね」
その隣には普門も呆気にとられた様子で木の上の光明を眺めていた。
同瞬の言うところによると、光明は産まれてから人里離れた山奥で育ったのだそうだ。母は出産とともに亡くなり、光明をここへ連れてきた老人との二人暮らし。老人は必死に育てようと頑張ったらしいが、やはり人との関わりや会話をする機会が極端に少なかったのだろう。光明は五つになっても言葉をほとんど発することがないらしい。一応、話しかければ意味はなんとなく理解しているらしいが、会話をする気がないようだ、と。
「まずは人に戻さにゃなぁ⋯」
ここから、宗音を中心とした宝積寺での猿育が始まった。
宗音は、前述した通り張り切った。
光明を立派な「人」にすることが己の使命のように感じ、まずは飯の食い方、布団での寝方、小便の仕方まで手取り足取り教えていった。
光明の方も、どこまでもついてくる宗音に最初こそ驚いたようだが、生まれて初めて楽しいと感じたようだった。
老人は光明についてこれるだけの体力がなかったため、いつも地上で喚くだけ。しかし宗音は光明と同じように木にも登るし、川にも飛び込むし、どこまででもついてきた。どう頑張っても引き離せない。
それが面白くおかしく、また宗音もずっと周囲の目を気にして畏まっていたからか、光明を捕まえるという名目のもと、人目を気にせず野山を駆けずり回るのが楽しかった。
同じ年頃の子供と、初めて子供らしく過ごしたひとときでもあったのだ。
こうして、光明が少しずつ人間に近づき始めたある日のこと、村から病にかかった女性の治療をお願いされた同瞬和尚は、普門と末っ子二人組を連れて毎日のようにその家に通うことになった。




