683話 諸説です
カトリンは自身の唇をなぞる様に指を動かした。
考える時の癖なのか、男を誘う媚態のひとつなのかは分からない。
けれどそれは娼館で生きてきたからこそ身につけた動作であるのは確かであった。
「いい人? 変な客は多かったけど……。まあ、私の今の顔を見たら皆引いちゃうわ。あっ、でもテオは何か自分のところへ来いとか言ってたわ。王都の話をもらったから、その返事もしないで私こっちに来ちゃったの。もっと文字を覚えたら、手紙を書いた方がいい?」
「あのテオが?」
鉱山の人足頭のテオは好漢ではあったけれど、カトリンにそんなに入れ込んでいたかしら?
「街の診療所へ連れて行ってくれたのがテオなの。そのまま私が落ち着くまで付いていてくれて……。だから私に同情したんじゃない?」
なるほど、弱っているカトリンを見て庇護欲を刺激されたのか。
お婆ちゃんの私を庇ってくれたりしていたし、そういう気質なのだろう。
「手紙……は、どうかしら? 鉱夫達は仕事がなくて解散したのではないかしら。今、住んでいる所を調べてもらいましょうか?」
「そっか。じゃあ放っておいていっか」
カトリンは、自分の色恋の話だというのに、あっけらかんと話している。
目を見張る美人なのだから、さぞかし愛を囁かれて求婚されたことだろう。
自分に関心があれば向こうから来るし、興味が無くなれば去っていく。
それが彼女にとっての客であり男なのだ。
気の毒なことに残念ながら彼女にテオの気持ちは届かないようだ。
元娼婦にとっては、そんなものかもしれない。
この話しぶりを見るにテオと言わず、男性には興味がないようだ。
「せっかく新しい生活が始まったんだもの。男の人はもういらないわ。一生分寝たもの。娼館では客を繋いどけって言われてたけど、今は必要ないでしょ?」
「それはそうね」
教会には神に愛を捧げる者はいれど、カトリンに夢中になる男はいないと信じたい。
「だから、私のお客は今日からずっとロッテ婆だけよ!」
カトリンは蠱惑的に微笑んだ。
不思議な事に、彼女の痛々しい傷はその美しさの邪魔にはならなかった。
だって彼女は心の底から輝いて見えるのだもの。
その後、カトリンは王都の大聖堂にある修道士施設のひとつの薬草園に務めることとなる。
大聖堂という特別な場所に見習いの身で仕える事は異例中の異例といえることだった。
だけれどそれに異を唱える人間はいない。
何故なら、彼女に会いに隣接する王宮からしょっちゅう聖女シャルロッテが通ってくるからだ。
教会の権威を強めたい者も、聖女自体を崇拝する者にとっても、その行動は歓迎すべきモノなのである。
カトリン自身も純粋で、周りから愛される素直な人柄であるのも手伝って平和に暮らすことが出来た。
読み書きを覚えてからの彼女は勤勉で、薬草辞典をいつも持ち歩いていたほどだ。
先輩修道女の指導もあって「見習い」の文字がとれるのも早かった。
シャルロッテは彼女が神に身を捧げる事を最後まで反対していたけれど、カトリンの意思は堅く折れるしかなかった。
彼女が修道女として地母神教に正式に入門が決まると、聖女から黒い面紗が祝いの品として与えられた。
一見傷を隠す物のように思える面紗であったけれど、どちらかというとその美貌を隠す物である。
幼い頃から娼館で教育された彼女の色香は、傷などで失せるものではなかったからだ。
修道士や聖教師達の中でも宗教家としての自覚が薄い者や女性に免疫がない者、そして男信者にとってもある意味彼女は毒だった。
定期的に暴走する者や思い詰める者も出た事で顔を隠す方が良いと判断されたのだ。
さて、聖女シャルロッテ・エーベルハルトの側仕えに「黒衣の貞女」の存在が従うことは広く知られているが、後世の歴史家の中には「黒衣の貞女」はひとりの人間を指すものでは無いと主張する説が有力であった。
貞淑で男を寄せ付けず顔を伏せ沈黙の行を守る修道女として有名な彼女だが、記録には慈悲深く聡明で、全国を行脚し薬草の知識を広め傷病人を助けて回ったとも伝えられている。
他にも武功に優れているとか、聖女のいる場所であればどこにでも現れ神出鬼没であるとの記述も散見される。
あまりに活躍の場が広く多岐に渡るので、何人かの修道女の逸話が「黒衣の貞女」の名に集約されたのではないかという説が浮かぶのもおかしなことではなかった。
シャルロッテの聖女としての長い在位を「黒衣の貞女」が生涯現役で支える事が出来たのも、複数人の修道女がその役を担っていたとすれば腑に落ちるというものである。
「黒衣の貞女」に限らず側に仕えた少女や、執事や聖なる獣達。
そして異形のナニかなど聖女シャルロッテには神秘的で不可解な存在や事象が事欠かない。
書物や歌に残されたそれらを読み解こうとする人々はその想像力を働かせ、色々な解釈を付け加えていったせいで何が事実かはわからなくなっていく。
そうして脚色され日々形を少しずつ変えて彼女の物語は続いていくのだ。
時を経てなお。




