第3話
翌日の夜だった。
父は突然、引っ越しの準備を始めた。
「しばらく別の場所に住もう。」
そう言っただけだった。
理由は詳しく説明しなかった。
だが、私は反対しなかった。
あの爆破事件のあとだ。
街全体が不安に包まれていた。
最低限の荷物をまとめる。
衣類。
生活用品。
そして――タイプライター。
それだけは絶対に持って行きたかった。
だが、重かった。
私には持ち上げることも難しい。
「貸しなさい。」
父が当たり前のように持ち上げた。
「ありがとう。」
二人は夜道を急いだ。
春とはいえ夜風はまだ冷たい。
小走りで歩き続ける。
やがて一つの街角を曲がった。
そこに一台の車が停まっていた。
黒い車だった。
運転席には男が座っている。
街灯が届かず、顔はよく見えない。
父は何も説明しなかった。
当然のように助手席へ乗り込む。
私は後部座席に座った。
荷物はトランクへ積み込まれた。
車が静かに走り出す。
車内には会話がなかった。
エンジン音だけが響いている。
私は何度か父を見た。
だが父は窓の外を見つめたままだった。
どれほど走っただろう。
街の灯りが少なくなっていく。
やがて車は郊外らしい場所で停まった。
運転手が降りる。
父も降りた。
二人は小声で何か話していた。
内容までは聞き取れない。
ほんの数言。
それだけだった。
やがて男は頷く。
そして車は闇の中へ消えていった。
残されたのは父と娘だけだった。
目の前にはアパートがあった。
三階建て。
どこにでもありそうな古い建物。
階段を上がる。
案内された部屋は三階だった。
扉を開く。
父が照明のスイッチを入れた。
部屋が明るくなる。
私は思わず目を瞬いた。
「あれ……。」
前の部屋とよく似ていた。
間取りも。
窓の位置も。
部屋の広さも。
まるで同じ部屋をそのまま運んできたようだった。
「気に入ったか?」
父が笑う。
「うん。」
私も微笑んだ。
「なにか足りないものがあれば父さんが買ってやる。」
そう言って窓の外を指差した。
「あそこに大通りがある。」
見ると確かに街灯が並んでいる。
「その先にバス停があるから、市役所へも行ける。」
「うん。」
「心配はいらない。」
私は頷いた。
父は分かっている。
自分が何を考えているのか。
そして何を考えないようにしているのかも。
だから安心させようとしているのだろう。




