白き檻の中の皇女(五)
第8章 白き檻の中の皇女(五)
ティオの前で、黄色い誘導線が格納庫へ伸びていた。
第二安全区画へ向かう線ではない。
壁面表示には、まだ「避難誘導」と出ている。
だが、通路の匂いが変わっていた。
皇女区画の清潔な空調ではない。
整備区画に近い、金属と冷却材の匂い。
ティオはその場から動かなかった。
周囲には、六人の警備兵。
背後には閉じた隔壁。
「殿下、こちらに。」
警備兵の班長が、丁寧に頭を下げた。
礼は正しい。
声も荒くない。
「殿下、ご移動をお願いします。
お時間がありません。」
「何の時間ですか。」
ティオは厳しい声で尋ねた。
班長は答えない。
左右の男たちが、半歩だけ近づく。
腕を伸ばせば届く距離。
しかし、ティオを掴もうとはしない。
彼らはティオを傷つけないように動いている。
「あなたたちは、私をどこへ連れて行くつもりですか。」
「安全な場所です。」
ティオは一歩、前へ出た。
男たちが動きを止める。
ティオは静かに言った。
「私が皇女であることは、理解していますね。」
「はい。」
「ならば、私の移動先を隠す理由を説明しなさい。」
「殿下をお守りするためです。」
「誰からです。」
班長は目を伏せた。
それだけで、ティオには分かった。
彼らは、騙されて動いているわけではない。
自分たちが何をしているか分かっている。
ティオは視線を左へ向けた。
壁面の小さな端末。
整備用の緊急通報パネル。
距離は三歩。
だが、男たちは、その三歩を許す配置ではない。
ティオは視線を戻す。
「私に触れるつもりですか。」
班長は、もう一度深く礼をした。
「可能な限り、そのようなことはいたしません。」
「可能な限り……ですか。」
「殿下にお怪我をさせることは、我々の本意ではありません。」
ティオは、ゆっくり息を整えた。
叫んで助けを呼ぶべきか?
いや。
声を上げても、届く先はわずかだ。
時間を使わせるしかない。そして助けを待つ。
彼らは急いでいるが、ティオを傷つけることは避けたがっている。
「私は、ここから先へは進みません。」
「殿下……。」
班長が、初めて困ったように目を伏せた。
左右の男たちが、互いに短く視線を交わす。
「殿下、どうかご理解ください。」
「理解するための説明がありません。」
沈黙が落ちた。
奥の男が一歩近づく。
班長が手で制した。
「止めろ! 殿下に触れるな。」
男は動きを止めた。
ティオは目を細める。
「私を外へ出すつもりですか?」
班長の表情が、ほんの少しだけ崩れた。
一瞬。
本当に一瞬だった。
だが、充分だった。
「そうですか。」
ティオは言った。
「私を、安全区画ではなく、艦外へ出すつもりなのですね。」
「殿下……。」
左右の男たちが、改めて位置を詰めてきた。
ティオは、思わず後ろに一歩下がった。
「殿下。」
右側の男が腕を伸ばす。
ティオはその手を避けようとした。
靴底がわずかに滑る。
右足首に、鋭い痛みが走った。
膝が崩れかける。
班長が即座に命じた。
「お支えしろ。乱暴にするな。」
左側の男がティオの腕を支えた。
ティオは床に手をつき、体を立て直した。
足首が熱い。
歩ける。だが、走るのは難しい。
ティオは顔を上げた。
「触れるなと言いました。」
「申し訳ありません。お怪我は?」
「答える義務はありません。」
ティオは痛みを顔に出さないよう、膝を伸ばした。
完全には伸びない。
「医療班を呼びます。」
班長が言った。
ティオは短く笑った。
「どこの医療班ですか?」
返答はなかった。
通路の奥で、低い機械音がした。
格納庫入口の大きな隔壁が動く音。
班長が端末を確認する。
その顔に、迷いが出た。
ティオは見逃さなかった。
彼らの計画は、予定どおりには進んでいない。
自分が立ち止まり、問い、足を痛めたことで、進行が鈍っている。
その背後で、奥の男が低く言う。
「時間がありません。」
「黙れ。」
班長が返す。
ティオは足首の痛みを押さえ込むように、手袋の指を握った。
***
格納庫に続く補助通路の空気は、さらに冷えていた。
ティオはゆっくりと歩いていた。
右足首に体重をかけるたび、痛みが響く。
速くは歩けない。
それを隠すことも、もう難しかった。
周囲には六人の警備兵。
前方に格納庫入口の隔壁が見える。
半分だけ開いている。
そこから、中が見えた。
白いラベルの貼られた大型コンテナ群。
ティオは足を止めた。
「ここは格納庫ですね。」
「はい。」
班長は答えた。
「殿下には、ここでしばらくお待ちいただきます。」
その時だった。
格納庫の奥で、低い解錠音がした。
続いて、内部ロックが外れる金属音。
ティオはそちらを見た。
大型コンテナの一つ。
その側面が、内側からわずかに開いた。
光が漏れる。
細い隙間から、灰色の作業服を着た男が出てきた。
一人。また一人。
全部で七人。
全員、動きが機敏だった。
手には銃を持っている。
腰には装備ケース。小型端末。
最後に出てきた男が、ティオの前にやって来た。
年齢は四十前後。
頬はこけている。
目に、長い潜伏の疲れが残っていた。
男は深く頭を下げた。
「皇女殿下。」
警備兵たちよりも、さらに丁寧な礼だった。
ティオはその男を見た。
「あなたは?」
「名乗る資格はございません。」
「では、命じます。名乗りなさい。」
男は一拍置いた。
「ヴァイスナーとお呼びください。」
「本名ですか?」
「いいえ。」
「正直ですね。」
「殿下に嘘を重ねることは、本意ではありません。」
ティオは周囲を見回した。
ティオをここまで連れてきた警備兵たちが六人。ヴァイスナーたちが七人。
逃げ道はない。
それに、今の足では逃げることもできない。
「首都星を出た時から、ここにいたのですか?」
ヴァイスナーの目がわずかに動いた。
「お察しのとおりです。」
ティオは手袋の指を握りしめた。
「アウローラの乗員が、あなたたちを入れたのですね。」
「殿下を傷つける意図はありません。」
「私の質問への答えではありません。」
「申し訳ございません。」
ヴァイスナーはもう一度頭を下げた。
その態度に、ふざけたところはない。
皇女を本気で敬っている。
そのうえで、拘束しようとしている。
「あなたたちは、自分が何をしているか理解していますか。」
「はい。」
「私を誘拐するつもりですね。」
ヴァイスナーは否定しなかった。
「一時的に、お預かりいたします。」
「言い方を変えても同じです。」
「承知しております。」
「ならば、これは帝室への反逆です。」
その言葉で、補給区画の空気が硬くなった。
若い男の一人が、わずかに顔を上げる。
ヴァイスナーが片手を上げた。
男は口を閉じる。
「反逆ではありません。」
ヴァイスナーは静かに言った。
「我々は、皇帝陛下に弓引く者ではありません。」
「では、皇帝陛下の娘を拘束する理由は?」
「帝国を、取り返しのつかない譲歩から止めるためです。」
「譲歩?」
「辺境自治の承認。新航路協定。いずれも、あまりに早い。」
ティオはヴァイスナーを見た。
「我々は敗れましたが、思想まで消えたわけではありません。」
ティオは何も言わなかった。
格納庫の奥で、作業機械の駆動音がした。
何かを準備している?
ティオには、機械音の種類までは分からない。
だが、急がなければならない理由は分かった。
「私をどこへ運ぶつもりですか?」
「殿下の身柄を一時的に確保し、帝都と辺境の協議を停止させます。
殿下のお命とお身体は、必ずお守りします。」
ティオは短く息を吐いた。
「私を傷つけない。敬意は払う。けれど、自由は奪うのですね。
ずいぶん都合のよい忠誠です。」
若い男が一歩出かけた。
ヴァイスナーが止める。
「控えろ。」
「しかし――」
「控えろ!」
二度目の声で、若い男は下がった。
ティオはその動きを見た。
「ヴァイスナー。」
「はい。」
「私は、あなたたちと同行しません。」
「ご同行いただきます。」
「皇女として拒否します。」
ティオは呼吸を整えた。
逃げることは難しい。だから、助けが来るまで、ここを動かない。
「申し訳ございません。」
ヴァイスナーはそう言って、腰のケースから細い拘束具を取り出した。
金属ではない。柔らかい白い素材。
手首を傷つけにくいものだ。
ティオはそれを見た。
「用意がいいのですね。」
「殿下にお怪我をさせないためです。」
「それを、気遣いだと思っているのですか。」
ティオは苦笑した。
「あなたたちは、ブラッククラウン号を見落としています。」
ティオは少しだけ顔を上げた。
ヴァイスナーの目が細くなる。
「辺境の船一隻に、何ができるとお考えですか。」
「今に分かります。」
ヴァイスナーは静かに言った。
「殿下、時間がありません。
ご同行をお願いします。」
「拒否します。」
ヴァイスナーは目を閉じた。
次に開いた時、声は変わっていなかった。
「殿下をお支えしろ。乱暴にするな。」
左右の男たちが動いた。
ティオは後ろへ引こうとする。
足がついてこない。
右足首に痛みが走り、体がわずかに傾く。
ヴァイスナーが慌てて手を出す。
「殿下。」
「触れないで。」
「お怪我が――」
「あなたたちのせいです。」
若い男がティオの体を支えた。
ヴァイスナーが白い拘束具を持ったまま、ティオの前に膝をついた。
跪礼に近い姿勢だった。
「ご無礼を。」
「許しません。」
「承知しております。」
ヴァイスナーは顔を上げなかった。
左右の男たちが、ティオの腕を支える。
拘束具が近づく。
その時、一人の兵の端末が鳴った。
短い電子音。
「医療搬送ポッドの準備、完了しました。
通常待機状態。即時、起動できます。」
ヴァイスナーの手が止まる。
「救難艇は?」
「まだ呼んでいません。殿下の収容後、正式信号を送ります。」
ティオはその会話を聞いた。
やはり、外へ出す気だ。
ヴァイスナーが拘束具を一度下げる。
「殿下。お聞きのとおりです。危害を加えるものではありません。」
「今の会話を聞いて、安心するとでも。」
「艦外へお移りいただきます。
帝国のためです。」
「帝国は、あなた一人のものではありません。」
ヴァイスナーは初めて、わずかに顔を上げた。
「だからこそです。」
ティオはそれ以上言わなかった。
足首が痛む。




