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黒冠のアルク ― 第一部完結/第二部・皇女編連載中 ―  作者: 久遠 恒 


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皇女、船に泊まる(後半)

第4章 皇女、船に泊まる(後半)


夜が深くなると、ブラッククラウン号の中は昼間とは違う顔を見せた。

照明は落とされ、通路には淡い誘導灯だけが残る。

機関部の低い振動が、床を通じてわずかに伝わる。

どこかで空調が静かに動き、時折、船体の奥で金属が小さく鳴った。

宮殿の夜は静かだった。

だがブラッククラウン号の夜は違う。

壁の向こうに、誰かがいる気配がある。

この船が眠りながらも動き続けていることが、肌で分かる。

ティオは、眠る前に船内を歩いた。

客室の端末には、現在地と許可区画が表示されていた。

ティオはその範囲を外れないように、ゆっくりと通路を進んだ。

簡易ジャケットを羽織り、足音を抑えて通路を進む。

ブリッジの入口付近まで来ると、航路表示の淡い光が漏れていた。

中を覗くとアルクがいた。

正面スクリーンの前に立っている。

昼間と同じ場所。

ただ、夜の光の中に立つその背中は、少しだけ違って見えた。

「眠れないのか。」

アルクが振り返らずに言った。

ティオは少し驚いた。

「はい、少し。」

「そうか。」

「入ってもよろしいですか?」

「いい。」

ティオは静かにブリッジに入った。

航路表示盤には、星間流の淡い線が幾重にも重なっている。

帝国の公式航路図とは違う。

安全な道だけではなく、危険な揺らぎも、未確定の流れも、そこには映っている。

「夜の船は、不思議ですね。」

ティオが言った。

「不思議?」

「宮殿は、夜になると静かすぎるのです。

 広い廊下も、庭も、部屋も、すべてが遠く感じます。」

ティオは、航路表示の光を見つめた。

「でも、この船は狭いのに、寂しくありません。壁の向こうに誰かがいて、船が動いていて、音がしている。誰かがここで生きているのが分かります。」

アルクは少し考えた。

「慣れる。」

ティオは小さく笑った。

「私は、慣れてもよろしいのでしょうか。」

アルクが、そこで初めてティオを見た。

「来れば、慣れる。」

短い言葉だった。

けれど、ティオの胸には強く残った。

“来るなら”

歓迎の言葉でもない。甘い言葉でもない。

でも、拒まれてはいない。

“来るなら慣れる”

アルクらしい簡潔な答え。

「では、また来ます。」

ティオは言った。

「そうか。」

「はい。」

沈黙が落ちた。

ティオは航路表示盤を見上げた。

「アルク。」

「何だ。」

「私は視察に行きます。皇女として、外縁と辺境へ。」

「聞いた。」

「怖くないと言えば、嘘になります。」

アルクは黙っていた。

「でも、行かなければならないと思っています。帝国が変わると言うなら、皇女も中央に閉じこもっていてはいけないと思うからです。」

「そうだな。」

その短い肯定が、ティオには嬉しかった。

「気をつけろ。」

アルクが言った。

ティオは目を細めた。

「はい。」

それ以上、言葉はなかった。

けれどティオは、その夜の短い会話を、きっと忘れないと思った。

ブリッジの外。

通路の陰に、リアが立っていた。

警備連絡の確認を終えて戻る途中だった。

声をかけるつもりはなかった。

ただ、航路表示の光が漏れていたから、少し様子を見ただけだ。

そこに、ティオとアルクがいた。

近すぎるわけではない。

触れているわけでもない。

甘い言葉を交わしているわけでもない。

それでも、リアは、足が動かなかった。

アルクの「気をつけろ。」という言葉を聞いた。

それは、誰にでも言う言葉ではない。

少なくとも、どうでもいい相手に向ける言葉ではない。

リアは、そっと目を伏せた。

(私は何を期待していたのでしょう?)

ティオ殿下がこの船に近づかないこと。

アルクが殿下に何も声をかけないこと。

自分だけが、アルクの気持ちを分かっていること。

そんなことを期待していたのか。

リアは、指先に力が入っていることに気づき、そっと手を開いた。

そして、静かに踵を返した。

足音を立てないように、通路を戻っていく。

***

翌朝。

ティオは、思っていたよりも自然に食堂に入ることができた。

昨夜借りた簡易ジャケットを羽織り、髪はきちんと整えている。

皇女らしさは消えていない。

だが、前日よりも少しだけ、船の空気に馴染んで見えた。

「おはようございます。」

ティオが言う。

「おはよう。」

ルナが返した。

「眠れた?」

「はい。船の音が少し不思議でしたが、思っていたより落ち着きました。」

「慣れりゃ子守歌ですよ。」

ガロンが大きなあくびをしながら言った。

「ガロンの場合、どこでも寝られるだけ。」

ノアが端末を見ながら言う。

「睡眠時間、推定七時間五分。」

「俺のか?」

「ティオの。」

「殿下の睡眠時間を勝手に推定するな。」

ガロンがたしなめる。

ティオは小さく笑った。

「よく眠れましたから、大丈夫です。」

リアは、朝食の用意をしながらティオを見ていた。

昨夜の会話。

ブリッジで見た光景。

それはまだ胸に残っている。

だが表には出さない。

リアはいつも通り、穏やかな声で言った。

「朝食後、連絡艇の出発時刻を確認します。公式訪問の準備もありますので、あまり遅くならない方がよろしいでしょう。」

「はい。分かっています。」

ティオは静かに応じた。

「でも、その前にもう少しだけ、皆さんと話してもよろしいでしょうか。」

「もちろん。」

ルナが言った。

言ってから、照れたように視線を逸らす。

「昨日の続きもあるし。」

ティオは嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとうございます。」

アルクが食堂の入口から入ってきた。

「起きたか。」

「はい。おはようございます、アルク。」

「おはよう。」

短い挨拶。

それだけなのに、ティオの表情が少し柔らかくなる。

ルナはそれを見て、少しだけ唇を尖らせた。

けれど、昨日ほど強くは反応しなかった。

ティオがこの船で一晩過ごした。

その事実が、ルナの中で何かを少し変えていた。

敵ではない。

でも、油断はできない。

そういう相手になっていた。

***

朝食のあと、ティオはブラッククラウン号を後にする準備をした。

客室は丁寧に整えられていた。

使った寝具と、借りた簡易ジャケットはきちんと畳まれている。

「お世話になりました。」

ティオは客室の前で、リアとルナに頭を下げた。

「大げさだよ。」

ルナが言う。

「でも、ありがとうございました。」

「まあ……また来ればいいじゃない。」

言った瞬間、ルナは自分で固まった。

しまった。

そう思っている顔だった。

ティオは、目を少し大きくして微笑んだ。

「はい。必ず。」

ルナは顔を赤くしてそっぽを向いた。

「別に、すぐって意味じゃないから。」

「はい。」

「でも、来るなって意味でもないから。」

「はい。」

「分かってる?」

「分かっています。」

「ならいいけど。」

リアは二人のやり取りを静かに見ていた。

そして思う。

ルナも少し変わった。

ティオを拒むだけではいられなくなっている。

それが良いことなのか、まだ分からなかった。

***

ブラッククラウン号の出口に向かう通路で、ティオは何度も振り返った。

食堂。ブリッジ。居住区画。客室。

どこも宮殿とは違う。

けれど、一晩、そこで過ごした。

同じ船の音を聞き、同じ食卓に着いた。

それだけで、昨日より少しアルクたちに近づけた気がした。

連絡艇の前に、アルクたちが並んだ。

アルク、ルナ、リア、ノア、そしてガロン。

ティオは、その一人一人を見た。

「この一泊は、私にとって公式訪問の準備以上の意味がありました。

 ブラッククラウン号のことを、少しだけ知ることができました。

 皆さんが何を見て、何を守ってきたのかも。」

「少しだけだよ。」

ルナが言う。

「はい。だから、また教えてください。」

ルナは返事に困り、結局、小さくうなずいた。

「うん。」

リアは丁寧に一礼した。

「公式訪問のご無事をお祈りしております。」

「ありがとうございます、リア。」

ノアが言う。

「必要なら、航路資料は追加で送る。」

「助かります。」

ガロンは腕を組んだ。

「殿下、外縁も辺境も、書類よりずっと面倒ですぜ。」

「はい。昨日、それを少しだけ学びました。」

「なら大丈夫だ。」

ガロンは笑った。

最後に、ティオはアルクを見た。

アルクには、ティオが昨日この船に来た皇女とは、少しだけ違って見えた。

もう、ただの客人ではなかった。

そして昨夜と同じ言葉。

「気をつけろ。」

けれど、今度は皆の前だった。

ティオは、その言葉を胸に受け止めた。

「はい。行ってまいります。」

連絡艇の扉が閉じる。

接続アームが外れ、船体がゆっくりと離れていく。

窓の向こうで、ブラッククラウン号の黒い船体が少しずつ遠ざかっていった。

ティオは、その船を見つめ続けた。

まだ、そこに自分の場所はない。

これから自分は、皇女として外縁と辺境へ向かう。

辺境自治。

新航路協定。

帝国と辺境の和解。

そのすべてを背負う旅になる。

ティオは心の中で誓いを立てた。

皇女として、必ず公式訪問を成功させる。

そして、ひとりの少女として、必ずもう一度あの船に戻ってくると。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


本日で、『黒冠のアルク』第二部・皇女編の第1巻が終了します。


皇女編第1巻では、第一部の戦いの後の、アルク、ルナ、リア、ティオたちを中心に描いてきました。

穏やかで、少しにぎやかな四人の関係を楽しんでいただけていましたら幸いです。


次回からは、皇女編第2巻がスタートします。


皇女ティオの辺境訪問が本格的に動き出し、帝国と辺境をめぐる物語は新しい局面へ入っていきます。


引き続き、アルクたちの航路を見守っていただければ幸いです。


次回からも、月・水・金の20時過ぎ更新予定です。


ブックマークや評価で応援いただけると、今後の更新の大きな励みになります。


引き続き、よろしくお願いします。


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