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黒冠のアルク ― 第一部完結/第二部・皇女編連載中 ―  作者: 久遠 恒 


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皇女、船に泊まる(前半)

第4章 皇女、船に泊まる(前半)


「空き部屋がある。」

アルクはそう言った。

それで話は終わった、という顔だった。

もちろん終わるはずがなかった。

「アルク。皇女殿下をお泊めするというのは、空き部屋があるかどうかだけの問題ではありません。」

リアが静かに言った。

声は落ち着いている。

だが、その落ち着きは、明らかに意識して作られたものだ。

「確認すべきことがいくつもあります。」

「分かった。」

アルクはうなずいた。

「任せる。」

リアは一瞬、言葉に詰まった。

「……はい。」

かろうじて返事をする。

任された。

と言うより、丸投げされた。

アルクから信頼されている、ということではある。

だが、結果的に皇女殿下をブラッククラウン号に泊めるための準備を自分が整えるという、おかしな状況になった。

(どうして私がティオ殿下の宿泊準備をしなければならないの……)

そんな思いがある。

もちろん、口には出さない。

リアは元帝国士官であり、礼法も警備手順も分かる。

この場で最も適任なのは自分だ。

それは理解している。

理解しているからこそ、もやもやが残る。

「リア、大丈夫?」

ルナが横から覗き込んだ。

「大丈夫です。」

「本当に?」

「本当に。」

リアは微笑んだ。

しかし、その笑みは硬かった。

「いやあ、皇女殿下が泊まるとなると、船の中も大騒ぎだな。」

ガロンが呑気に言う。

「ガロンも手伝ってください。」

リアの口調が少し強い。

「おう。何すりゃいい?」

「空き部屋の荷物を運び出してください。あと、寝具の確認を。」

「了解。

 殿下、うちの客室は宮殿みたいにはいきませんぜ。」

ティオは申し訳なさそうに微笑んだ。

「承知しています。むしろ、そのままを見せていただける方がありがたいです。」

「そのままねえ。」

ガロンは頭をかいた。

「そのまま見せると、俺の整備箱が転がってるかもしれませんがね。」

「それも船の生活なのですね。」

「こいつは参った。」

ガロンは笑って、食堂を出ていった。

***

ティオに用意された客室は、ブラッククラウン号の居住区画の端にあった。

もちろん宮殿の客間とは違う。

広くはない。

壁には収納式の小さな端末。ベッドは簡易型。

床には薄く補修跡が残り、船体の奥からはかすかな振動が伝わってくる。

窓はない。代わりに、壁面の小型表示窓から外部カメラの映像を映せるようになっている。

「狭くて申し訳ありません。」

リアが言った。

「いいえ。」

ティオは部屋の中央に立ち、ゆっくりと見回した。

「ここで眠るのですね。」

「はい。客室として使える部屋では、ここが一番、良い部屋です。」

ルナが腕いっぱいに寝具を抱えて入ってきた。

「一応、シーツは替えたから。あと、毛布も予備の綺麗なのにした。」

「ありがとうございます、ルナ。」

「別に。お客さんだし。」

ルナはそう言って、ベッドの上に寝具を置いた。

置き方は少し雑だった。

だが、選んできた寝具は明らかに一番状態のよいものだった。

ティオはそれに気づいた。

「大切に使わせていただきます。」

「そんな大げさに言わなくていいよ。寝るだけだし。」

「でも、宮殿の外に泊まるのは、私には初めてのことなので。」

ルナの手が止まった。

「初めて?」

「はい。皇女専用艦に乗ったことはありますが、あれは私のために用意された艦です。誰かの生活の中に、こうして泊めていただくのは初めてです。」

ルナは寝具の端を直すふりをした。

皇女は遠い。

そう思っていた。

けれど今のティオは、初めて友人の家に泊まりに来た少女のようにも見えた。

「……そっか。」

ルナは小さく言った。

「じゃあ、困ったことがあったら言って。

 船の中って、たぶん宮殿と全然違うから。」

「はい。頼りにしています。」

「た、頼りに?」

ルナの頬が少し赤くなる。

「はい。ルナは、この船のことをよく知っていますから。」

正面からそう言われると、どうにも反応しづらい。

ルナは寝具を広げながら、少し視線を逸らした。

「まあ、操舵手だし。長く乗ってるし。」

リアは二人のやり取りを見ながら、壁面端末で区画確認を進めていた。

「殿下、船内で自由に使ってよい区画は、食堂、ブリッジの一部、こちらの居住区画までです。機関区画、貨物区画、外部接続区画は、夜間は立ち入りをお控えください。」

「分かりました。」

「何か必要があれば、私かルナ、またはノアに声をかけてください。ガロンは機関区画にいることが多いので、夜間は呼び出しに少し時間がかかります。」

「アルクは?」

ティオが尋ねた。

ルナとリアの動きが一瞬、止まった。

ティオは、その反応にすぐ気づいた。

「あ、いえ。船長ですので、どこにいらっしゃることが多いのかと。」

「アルクは……」

ルナが言う。

「ブリッジか、たまに食堂。あと、気づいたら変なところにいる。」

「変なところ?」

ティオが少し笑う。

リアが補足した。

「一人で航路ログを見ていることがあります。

 夜間でも、必要があれば起きています。」

「そうなのですね。」

ティオは静かにうなずいた。

その表情を見て、ルナは少しだけ心がざわついた。

***

寝具の準備が終わると、次は着替えの話になった。

ティオは連絡艇に最低限の荷物を用意していた。

その中から取り出された寝衣を見て、ルナは目を丸くした。

「……これで、簡素なの?」

「はい。式典用ではありませんし、装飾も控えめにしてあります。」

ティオは真面目に答えた。

淡い色の上品な寝衣。

布地は柔らかく、明らかに高級品。

ブラッククラウン号の基準で見れば上品すぎる。

ルナは自分の普段着を思い浮かべた。

動きやすさ優先。

操舵席に座っても邪魔にならない服。

眠るときも、緊急時にはすぐ動けるもの。

比べるものではない。

ないのだが、少しだけ負けた気がした。

「皇女様って、寝るときも皇女様なんだね。」

思わずそう言う。

ティオは少し困ったように笑った。

「そう見えますか?」

「見える。」

「私としては、かなり普通のつもりでした。」

「それで普通……。」

ルナは小さく呟いた。

リアは丁寧に言った。

「とてもお似合いになると思います。」

「ありがとうございます、リア。」

「ただ、船内では緊急警報が鳴る可能性があります。

 上から、こちらの簡易ジャケットを羽織っていただいた方がよろしいかと。」

「なるほど。では、そうします。」

ティオは素直に納得した。

ルナは少し意外そうに言う。

「嫌じゃないの? その服に、うちの作業用みたいなジャケット羽織るの。」

「安全のためなら当然です。

 それに、ブラッククラウン号の中では、こちらの方が正しいのでしょう?」

ルナは言葉に詰まった。

そして、寝具を整えるふりをして顔を逸らした。

***

洗面区画ではノアが説明した。

「標準シャワーの使用時間は六分。節水モードなら八分まで可能。温水使用量は、現在の補給状況なら問題なし。でも、使いすぎると次の利用者に影響が出る。」

「ノア、殿下にそんな細けえ説明するな。」

ガロンが呆れたように言った。

「必要情報だよ。」

ノアは気にしない。

ティオは真剣に聞いていた。

「水の使用時間にも制限があるのですね。」

「あるよ。長距離航行中は特に。」

「皇女専用艦では、そこまで意識したことがありませんでした。」

「補給量が違うから。」

ティオは洗面区画の小さな表示盤を見つめた。

「……こういうところにも、航路生活の現実が出るのですね。」

ルナは、その横顔を見ていた。

***

準備が一段落し、リアが警備関係者との調整のために一度、部屋を離れた。

ノアとガロンも、それぞれ端末確認と機関整備に戻る。

客室には、ルナとティオだけが残った。

ルナは、ベッドの端に置いた予備毛布を直していた。

直す必要など、もうほとんどない。

それでも手を動かしていた。

沈黙が気まずかったからだ。

「ルナ。」

ティオが声をかける。

「何?」

「ありがとうございます。いろいろと。」

「だから、お客さんだし。」

「それだけではないと思います。」

ルナの手が止まった。

ティオは、まっすぐにルナを見ていた。

その目が、少し困る。

皇女らしい柔らかい眼差しなのに、逃げ場がない。

「……殿下って。」

ルナは言いかけて、少し迷った。

「本当に、アルクのこと好きなの?」

言ってしまった。

自分でも少し直球すぎたかと思った。

だが、もう引っ込められない。

ティオは驚いた様子はなかった。

少し頬を赤くしたが、目は逸らさない。

「はい。」

正直に答える。

ルナの胸が、ちくりと痛んだ。

分かっていた答えなのに、実際に聞くとやはり面白くない。

「皇女だからって、アルクは……。」

ルナの声は、少し強くなった。

「アルクは、そういう人じゃないから。」

「分かっています。」

ティオは静かに答えた。

「本当に?」

「はい。だからこそ、私はここに来ました。」

「どういうこと?」

「皇女だから選ばれるとは思っていません。

 選ばれるためには、アルクが何を見て、何を大切にしているのかを知らなければ、と思ったのです。」

ルナは黙った。

ティオは続ける。

「あなたたちが見てきたアルクを、私はまだ知りません。」

「……うん。」

「ルナがアルクの隣で見てきたものも、リアが支えてきたものも、私はまだ知りません。だから、知りたいのです。」

ルナは、毛布を握る手に力を込めた。

「諦めるつもりはないんだ?」

「ありません。」

ティオの答えは、まっすぐだった。

ルナはむっとした。

むっとしたのに、不思議と嫌いにはなれなかった。

「私だって……」

ルナは思わず言いかけた。

まだ自分の気持ちを言葉にしたことはない。

それを皇女の前で口にするのは、怖かった。

ティオは急かさなかった。

ただ静かに待っていた。

「……アルクは鈍いから。」

ルナは、代わりにそう言った。

「はい。」

「ほんとに鈍いから。」

「今日、少し分かりました。」

「少しじゃないよ。かなり。」

ティオは小さく笑った。

ルナも笑いそうになった。

「でも。」

ルナは顔を上げた。

「アルクは、ちゃんと見てるときもある。言葉は少ないけど、見てる。だから、簡単じゃないよ。」

「はい。」

「私も、簡単に譲るつもりはないから。」

言ってから、ルナは自分で顔を赤くした。

ティオも少しだけ頬を染めた。

「分かりました。」

「分かったって、何が?」

「ルナが強いということです。」

「……そういう返し、ずるい。」

「ずるいですか?」

「ずるい。」

ルナはそう言って、予備毛布を最後に一度だけ整えた。

「何かあったら呼んで。水とか、船内のこととか。」

「はい。頼りにしています。」

「だから、それ言うのずるいって。」

それでも、ルナの声は最初より柔らかかった。

***

しばらくして、リアが戻ってきた。

ルナは入れ替わるように客室を出ていく。

部屋には、今度はリアとティオだけが残った。

「随行員側への連絡は完了しました。

 夜間警備についても連絡系統を確保しています。」

「ありがとうございます、リア。何から何まで。」

「必要なことですから。」

リアは丁寧に答えた。

それから少しだけ間を置く。

「殿下。」

「はい。」

「殿下が遊び半分で来られたわけではないこと、分かりました。」

ティオはリアを見た。

「ですが、この船は宮殿とは違います。」

「はい。」

「アルクも、この船も、誰かの望む形に簡単には変わりません。」

リアの声は穏やかだった。

しかし、はっきりとした線があった。

踏み越えてはいけない線。

ティオは、その意味を理解した。

「変えたいのではありません。」

ティオは言った。

「私が、この船を知りたいのです。」

リアは黙って聞いていた。

「アルクを知りたい。けれど、アルクだけを見るのでは足りない。ルナも、リアも、ノアも、ガロンも、この船そのものも。全部を知らなければ、私はきっと何も分からないままです。」

「それを知って、どうされるのですか?」

リアの静かな問いかけ。

ティオは少し考えた。

「まだ、分かりません。」

リアの目が、わずかに動く。

「ですが、分からないまま諦めるつもりはありません。」

「殿下は、正面からおっしゃるのですね。」

「隠しても、きっと伝わってしまいますから。」

ティオはリアを見た。

「リアがアルクをよく知っていることも、分かっています。」

リアの胸が、少しだけ痛んだ。

礼儀正しい声。

柔らかな表情。

だがティオは逃げない。

こちらを恋敵として認識した上で、まっすぐ見てくる。

「私は、アルクのすべてを知っているわけではありません。」

リアは静かに言った。

「ですが、長く見てきました。彼がどのように考え、どのように決めるのかを。」

「はい。」

「その時間は、簡単には追いつけません。」

「分かっています。」

ティオは静かに応じた。

「ルナの近さも、リアの時間も。私にはまだありません。」

「殿下……。」

「でも、ないなら、これから作ります。」

リアは静かに息を吸った。

ティオ殿下は正面から来る。

皇女という立場を盾にしてくる相手なら、嫌えばいい。

だがティオはそうではない。

自分の弱さも、知らなさも、嫉妬も、すべて抱えたまま前へ進もうとしている。

それは、リアにとって、無視できない強さに思えた。

「分かりました。」

リアは言った。

「では、私も正直に申し上げます。」

「はい。」

「私は、殿下を警戒しています。」

ティオの目が、少しだけ大きくなった。

「それは、光栄なことなのでしょうね。」

リアは、返事をせず、少しだけ微笑んだ。

二人の間には、静かな緊張感が漂っていた。


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