皇女、船に馴染む(前半)
第2章 皇女、船に馴染む(前半)
ティオセフィアーナ・アウレリウムが席に着いた瞬間、ブラッククラウン号の食堂に奇妙な沈黙が落ちた。
椅子を引いたのはアルクだった。
皇女への礼として、自分の隣の椅子を引いた。ただ、それだけである。
アルクの認識としては、特別な意味はない。
だが、その椅子はアルクに近かった。
近すぎる、とルナは思った。
近いですね、とリアも思った。
そしてティオは、分かっていながら、そこへ腰を下ろした。
「ありがとうございます、アルク。」
「ん。」
アルクは短く答えた。
ルナの視線が二人の間を行き来する。
リアは表情を完璧に整えている。
だからこそ、逆に内心では何かを抑えていることが分かってしまう。
少なくともルナには分かった。
「……お茶、出すね。」
ルナはそう言って、お茶の準備を始めた。
声は明るい。
だが、動きが少しだけ速い。
「ありがとうございます、ルナ。」
ティオが微笑む。
「うん、お客さんだからね。」
ルナは食器棚の方へ向かった。
そこで一度、足を止める。
ティオに出すカップをどれにするべきか?
いつも自分が使っている少し欠けたカップは論外。
ガロンがよく使う大きすぎるカップも論外。
ノアが勝手に目盛りを書き込んだカップも論外。
リアが普段、使っている白いカップは、きれいだが、勝手に使うと怒られそう。
結果、ルナは棚の奥から、比較的傷の少ない来客用のカップを取り出した。
来客用といっても、ブラッククラウン号の来客用である。
宮殿の茶器とは比べるべくもない。
それでもルナは、できるだけ丁寧に並べた。
「ルナ、茶葉は左の缶だよ。」
ノアの声がした。
いつの間にか食堂に来ていた。
「分かってる。」
「今、右の缶を開けようとしてた。」
「分かってたけど、確認しただけ!」
ティオは思わず小さく笑った。
その笑いに、ルナは振り向いた。
「な、何?」
「いえ。やはり、楽しそうですね。」
ティオが同じことを言う。
「……変な船だけどね。」
ルナも同じように返す。
「それを見てみたいです。」
「変なところを?」
「はい。報告書には、たぶん書かれていないと思いますから。」
ルナは不思議そうにうなずいた。
皇女というものは、もっと遠い存在だと思っていた。
きれいな言葉だけを使い、きれいな場所だけを見る人。
そういう印象が、どこかにあった。
けれど、目の前のティオは、食堂の傷や、棚の中のカップや、ノアとのやり取りを、興味深そうに見ている。
それが調子を狂わせる。
「殿下、うちの船は宮殿みたいにはいきませんぜ。」
今度はガロンが入ってきた。
大きな身体を扉にぶつけそうになりながら、手を上げる。
「いや、失礼。ティオ殿下、と呼べばいいですかね。」
「いいえ、ティオで構いません。」
「そいつはありがていが、俺みたいなのが呼び捨てにしたら、あとで首が飛びませんかね。」
「飛びません。」
ティオは真面目に答えた。
ガロンは一瞬きょとんとして、それから豪快に笑った。
「こりゃいい。皇女殿下に首の心配をしてもらえるとはな。」
「していません。飛ばないと申し上げただけです。」
「なおさらいい。」
ガロンは笑いながら席に着いた。
食堂の緊張が少し緩んだ。
リアは、ティオの前に置かれたカップを整えながら、言った。
「殿下。お口に合うか分かりませんが。」
「ありがとうございます、リア。」
「……恐縮です。」
リアは丁寧に答えた。
その所作は美しい。
食堂の少し傷ついたテーブルの上でも、彼女だけは宮殿の応接室にいるような落ち着きを持っていた。
ティオはそれを見て内心で思う。
やはりリアは強い。
ルナのような“近さ”で踏み込むのではない。
礼節を崩さず距離を保ちながら、自分の存在を主張している。
「ここで、皆さんは食事をされるのですね。」
ティオは食堂を見回した。
「食事もするし、作戦会議もするし、たまにガロンが寝てる。」
ノアが即座に答えた。
「寝てねえ。仮眠だ。」
ガロンが反論する。
ティオはまた笑った。
宮殿では誰もこんなふうには話さない。
会話は整えられ、立場に応じた言葉が選ばれる。
笑いさえも場の空気と相手の地位を考えて抑えられる。
だが、この船では違う。
誰かが言い、誰かが返し、誰かが笑う。
そのどれもが自然だった。
「羨ましいです。」
思わず、ティオはそう言っていた。
食堂の空気が少し止まる。
ルナが首を傾げた。
「羨ましい?」
「はい。」
ティオはカップに手を添えた。
「宮殿では、会話にも順序があります。誰が先に話すか、どの言葉を使うか、どこまで踏み込むか。すべてに意味が生まれます。」
「皇女殿下だから?」
ルナが聞いた。
「はい。けれど、この船では皆さんがとても近くに見えます。」
ティオは正直に言った。
「近すぎるときもあるけどね。」
ルナが小さく呟く。
その声は明らかにアルクを意識していた。
ティオもリアも、それに気づいた。
アルクだけが、いつも通りの顔で茶を飲んでいる。
「近いのは悪いことか。」
アルクが言った。
ルナは一瞬で赤くなった。
「そういう意味じゃない!」
「そうか。」
「そう!」
アルクは納得したようにうなずいた。
たぶん、何も分かっていない。
ティオはその様子を見て、気持ちが少しだけざわついた。
こんなやり取りができる距離。
言葉が足りなくても、妙に成立してしまう関係。
今の自分は、まだその輪の外にいる。
「アルクは、いつもここで航路の話をされるのですか?」
ティオが尋ねる。
「するときもある。」
「どのように?」
「必要なことだけ。」
「それでは説明になっていません。」
リアがすぐに補足した。
「アルクは、航路の感覚を短い言葉で示すことが多いのです。
私たちはそれを、ノアの解析やルナの操舵感覚と合わせて確認します。」
「なるほど。」
ティオは興味深そうにうなずいた。
「アルクだけで航路を選ぶのではないのですね。」
「一人じゃ無理。」
アルクは短く答えた。
その言葉は、ティオの胸に残った。
一人では無理。
英雄譚の中の英雄なら、ひとりで星々を導くのかもしれない。
だが現実のアルクは違う。
彼は仲間と船に乗っている。
ルナが操舵し、ノアが解析し、リアが支え、ガロンが現場を守る。
だからこそ、ブラッククラウン号は航路を越えてきた。
「やはり、船は人の集まりなのですね。」
ティオが言うと、ガロンが面白そうに眉を上げた。
「いいこと言うじゃねえですか。
船体だけありゃ船ってわけじゃねえ。動かす奴がいて、直す奴がいて、無茶を言う船長がいて、文句を言いながらついていく奴がいて、初めて船になる。」
「無茶は言ってない。」
アルクが言った。
ティオは、また小さく笑った。
この船を知りたい。
その思いが、よりはっきりしていく。
「もしよろしければ、船内をもう少し見せていただけませんか。」
ティオが言うと、ルナが即座に反応した。
「ブリッジなら私が案内する。」
リアも口を開く。
「私も同行します。
殿下がご覧になる場所によっては、帝国艦との違いを補足できますので。」
ノアが端末を掲げる。
「機能説明なら僕も必要。」
ガロンが笑う。
「機関区画の入口ぐらいなら俺が案内するぜ。奥は危ねえけどな。」
ティオは少し驚いた。
同時に嬉しかった。
歓迎されている。
完全にではないかもしれない。警戒もある。探る視線もある。
それでも拒まれてはいない。
「ありがとうございます。では、まずはブリッジを見せていただけますか。」
「行こう。」
アルクが立ち上がった。
その一言で全員が動き出す。
ルナは自然にアルクの少し右へ。
リアはティオの隣へ。
ノアは端末を見ながら先行し、ガロンは後ろからついてくる。
ティオは、その動きの滑らかさを見た。
誰かが細かく命じたわけではない。
けれど、それぞれが自分の場所を知っている。




