皇女、ブラッククラウン号へ再び(後半)
第1章 皇女、ブラッククラウン号へ再び(後半)
ブラッククラウン号が停泊しているドックは、商用区画にあった。
本来なら皇女専用の連絡艇が降りるような場所ではない。
今回の訪問は公式行事ではない。
皇室の大仰な儀礼も、赤い絨毯も、整列した儀仗兵もいない。
あるのは、誘導灯とブラッククラウン号の黒い船体だけ。
ドックの照明を受けて、船体の表面が鈍く光っている。
ティオセフィアーナ・アウレリウムは、連絡艇の窓越しにそれを見つめていた。
「あれが……。」
以前にも来ている。
帝国航路の外側を飛べる船。
辺境の人々を運び、物資を運び、戦いを乗り越え、帝国の進路さえ変えてしまった船。
ブラッククラウン号。
その船に、アルクがいる。
ルナとリアがいる。
ティオは乱れた呼吸を静かに押さえ込んだ。
今日は公式訪問ではない。
皇女としての立場を捨てられるわけではないが、皇女として飾られに行くわけでもない。
一人の客人として、あの船を見る。
父は、肩書だけでは席は与えられまい、と言った。
「分かっています。」
ティオは、誰に言うでもなく小さく呟いた。
連絡艇がドックに接続する。
固定アームが船体を固定し、短い振動が足元に伝わった。
扉の向こうで気圧調整の音がする。
ティオは白を基調にした外出用の簡素な装いを選んでいた。皇女としての品位は保っているが、式典用の重い衣装ではない。過度な装飾も避けた。
それでも、彼女が立つだけで、その場の空気は変わる。
ティオは美しかった。
容姿、姿勢、柔らかな視線、落ち着いた表情。
すべてが調和していた。
連絡艇の扉が開く。
タラップを降りる。
三人が待っていた。
中央にアルク。
その右にルナ。左にリア。
自然な並び。
何度も危険を越えてきた者たちの立ち位置。
ティオは、それを見た瞬間、胸の奥がほんの少し締めつけられるのを感じた。
アルクはいつも通り、静かにこちらを見ていた。
ルナは背筋を伸ばしていた。
表情は明るい。
けれど、その瞳にははっきりと警戒の色がある。
リアは丁寧に一礼した。
完璧な礼。
だが、ティオはその落ち着きの中に、同じような緊張を感じ取った。
ティオは一歩前へ出た。
「お迎え、ありがとうございます。」
リアが先に口を開く。
「ようこそお越しくださいました、ティオセフィアーナ殿下。」
「二度目の訪問ですね。」
ティオは微笑んだ。
「できれば、ティオと呼んでいただけると嬉しいです。」
リアは一瞬だけ沈黙した。
ルナの眉がわずかに動く。
アルクは表情を変えない。
「それは……」
リアが言いかける。
ティオは、少しだけ首を傾けた。
「難しいでしょうか。」
リアは丁寧に答えた。
「殿下のご意向は理解いたします。
ただ、船内での呼称については、状況によって使い分けさせていただければと思います。」
「はい。それで構いません。」
ティオはうなずいた。
その返答に、リアは少しだけ目を伏せる。
ルナが少し勢いをつけて言った。
「えっと、ようこそ、ブラッククラウン号へ。」
言ってから、少しだけ言葉を探す。
「ティオ……殿下。」
ティオは笑みを深めた。
「ありがとうございます、ルナ。」
名前を呼ばれた瞬間、ルナの表情がぴくりと動いた。
いやな感じではない。むしろ親しげだ。
だが、ルナには少し引っかかった。
「うん。えっと、はい。」
珍しく言葉が乱れる。
ガロンがいたら、確実に笑っていただろう。
ティオは、最後にアルクを見た。
「またお会いできて嬉しいです、アルク。」
アルクは短くうなずいた。
「来たか。」
皇女への言葉としては、あまりにも簡素。
だが、ティオはその一言で、心が少し温かくなるのを感じた。
過剰な礼もない。
飾った言葉もない。
皇女だからといって特別な扱いをしない。
それが、アルクだった。
「はい。来ました。」
ティオは答えた。
その声には、皇女としての落ち着きと、一人の少女としての喜びが混じっていた。
ルナとリアは、その声に含まれた感情を感じ取った。
アルクだけが、たぶん何も気づいていない。
「船内を案内する。」
アルクが言った。
それだけで歩き出す。
ルナが慌てて横に並ぼうとし、リアも自然に一歩後ろへ移る。
ティオも歩き出した。
その瞬間、三人の位置が微妙に重なった。
アルクの隣。
右に立つのか、左に立つのか。
少し後ろに控えるのか。
三人の足が止まる。
アルクが気配を察して数歩先で振り返る。
「どうした?」
ルナは慌てて言った。
「何でもない!」
リアも答える。
「問題ありません。」
ティオも微笑んだ。
「少し景色を見ていただけです。」
三人の答えは違った。
だが、どれも本当ではなかった。
アルクは不思議そうに三人を見たが、それ以上は追及しなかった。
「行くぞ。」
「うん。」「はい。」「はい。」
三つの返事が重なった。
ルナは、ティオをちらりと見た。
ティオも、ルナを見た。
リアは、その二人の視線を静かに見ていた。
まだ何も始まっていない。
けれど、ブラッククラウン号には、小さな火種が持ち込まれようとしていた。
***
ブラッククラウン号の通路を進みながら、ティオは周囲を見回した。
船の内部は皇女専用艦とはまったく違っていた。
装飾は少ない。
通路は必要最低限の幅しかなく、壁面には後付けの配線カバーや補助端末がいくつも並んでいる。
整備用のハッチには、使い込まれた跡がある。
床の一部には、何度も補修された痕跡があった。
だが不思議と雑然とはしていない。
必要なものが必要な場所にある。
何かが壊れても、誰かがすぐ手を伸ばせるように配置されている。
この船は飾られるための船ではない。
生きるために使われてきた船だった。
「以前、訪れたときにも感じましたが、近いのですね。」
ティオが呟いた。
ルナが振り向く。
「近い?」
「人と船の距離が、です。
皇女専用艦では、区画ごとに役割が厳密に分かれています。乗員の居住区、指揮区画、儀礼区画、警備区画。
けれど、この船は……」
ティオは壁面の手すりに目を向けた。
「誰かがここを何度も通り、何度も触れてきたのだと分かります。」
ルナは少しだけ意外そうな顔をした。
皇女が、そんなところを見るとは思っていなかったのだろう。
「まあ、古い船だからね。」
ルナは言った。
「でも、ちゃんと動くよ。アルクが無茶な航路を選んでも、ちゃんとついてくる。」
「無茶な航路を選ぶのですか?」
ティオがアルクを見る。
アルクは短く答えた。
「必要なら。」
「必要なら、ですか。」
ティオは小さく笑った。
「あなたらしい答えです。」
ルナの眉が、また少し動く。
“あなたらしい”
その言葉は、アルクをよく知っている者の言葉のように聞こえた。
実際には、ティオはまだアルクを深く知っているわけではない。
それでも、そう言えてしまうのが少しだけ面白くなかった。
リアが穏やかに補足する。
「アルクは、常に最短な道や、安全な道を選ぶとは限りません。その時に必要な道を読むのです。」
ティオはリアを見た。
「リアは、よく分かっているのですね。」
「長く一緒にいますから。」
リアの返事は丁寧だったが、自分の存在を強く主張していた。
ティオは、その強さを感じ取った。
ルナとリアが、アルクとともに生きてきた時間。
自分は、まだそこへ届いていない。
ティオは微笑みを崩さなかった。
「なら、今日は教えてください。
ブラッククラウン号のこと、アルクのこと。」
ルナが即座に反応する。
「アルクのことなら、私も知ってるよ。」
「ええ、ぜひ聞かせてください。」
ティオは自然に返した。
ルナは一瞬、言葉に詰まった。
挑発されたわけではない。
だが、まっすぐ受け止められると、それはそれで困る。
リアは二人を見て、静かに息を整えた。
「まずは、食堂へご案内しましょう。
船内で一番、普段の様子が分かりやすい場所です。」
「食堂……。」
ティオの目が少し輝いた。
「ぜひ見てみたいです。」
ルナが小さく呟く。
「……席、どうしよう。」
「ルナ?」
リアがルナの顔を見る。
「何でもない!」
その声は、船内通路に大きく響いた。
アルクはまた振り返った。
「騒がしい。」
「アルクのせいだからね!」
ルナは思わず言った。
アルクは無表情のまま首を傾げた。
「俺が?」
「……何でもない。」
ルナはぷいと顔をそらした。
ティオは、そのやり取りを見ていた。
こんなふうに、何の遠慮もなく言える距離。
皇女としての礼も、言葉の重みも考えず、ただその場の感情で声をぶつけられる近さ。
それは、ティオがどれほど望んでも、すぐに手に入るものではない。
けれど、目を逸らすつもりもなかった。
「楽しそうですね。」
ティオが言う。
ルナが振り向く。
「楽しいっていうか、いつもこんな感じだけど。」
「それが、楽しそうに見えます。」
その言葉に、ルナは少し黙った。
皇女は笑っていた。
だが、その笑みの奥に、わずかな寂しさがある。
ルナはそれに気づいた。
だから、少しだけ言い方を変えた。
「まあ……変な船だけど、悪くはないよ。」
ティオの表情が、ほんの少し柔らかくなった。
「はい。そう思います。」
アルクが食堂の扉の前で立ち止まった。
「ここだ。」
扉が開く。
ティオの前に、ブラッククラウン号の食堂が広がった。
小さなテーブル。
使い込まれた椅子。
壁際の端末。
片づけられてはいるが、完全には消せない生活の跡。
ここで彼らは食べ、話し、作戦を立て、ときには眠気をこらえながら航路を越えてきたのだろう。
ティオは、静かに一歩、足を踏み入れた。
宮殿の、どの部屋よりも狭い。
皇女専用艦の、どの応接室よりも簡素。
けれど、不思議と温かさを感じる場所。
「ようこそ。」
リアが言った。
「ブラッククラウン号の食堂です。」
ルナが少しだけ早口で付け加える。
「普段はもっと散らかってるけど、今日はちゃんと片づけたから。」
「ルナ。」
リアがたしなめる。
ティオは小さく笑った。
「ありがとうございます。私のために片づけてくださったのですね。」
「べ、別に殿下のためだけじゃないけど。」
「では、ティオで。」
「……ティオ、のためだけじゃないけど。」
ルナは少し照れたように言い直した。
ティオはその呼び方を聞いて、嬉しそうに微笑んだ。
リアはその様子を見て、少し目を伏せる。
アルクは自分の席に着き、何も考えず自分の隣の椅子を引いた。
「座れ。」
ティオは、その椅子を見た。
アルクが引いた椅子。
ルナとリアも見る。
食堂の空気が一瞬で張り詰めた。
アルクは、ただ隣の椅子を引いただけだった。
ティオは微笑んだまま動きを止めた。
ルナの視線が椅子に刺さる。
リアは無言で考えている。
数秒後。
ティオは、静かにその椅子に手を置いた。
「ありがとうございます、アルク。」
ルナとリアの表情が硬くなる。
アルクは短くうなずくだけ。何も分かっていない顔。
ティオは椅子に腰を下ろした。皇女としてではなく客人として。
けれど、その席が何を意味するのかを彼女は分かっていた。
ルナも、そしてリアも。




