皇女、ブラッククラウン号へ再び(前半)
第1章 皇女、ブラッククラウン号へ再び(前半)
「皇女殿下がまた来るって、本当なの?」
ルナの声は、いつもより少しだけ尖っていた。
ここは、ブラッククラウン号の食堂区画。
船は、首都星アウレリウムの衛星軌道上のドックに停泊している。
いつもなら航行ログを眺めながら軽食をつまむ場所が、今日は妙に片づいている。
テーブルの上には余計な工具も、部品も、ガロンが置きっぱなしにしていた古い整備布もない。壁際の収納扉まできちんと閉じられていた。
その不自然な整い方が、かえって船内を落ち着かなくしていた。
ノアは端末を片手にのんびりと答えた。
「本当だよ。到着予定は標準時で三十分後。
皇女専用の小型連絡艇が、このドックに入る予定。」
「……三十分後。」
ルナは腕を組んだ。
赤い髪が、いつもより少し乱れている。
本人は平静を装っているつもりなのだろうが、食堂の中を何度も行ったり来たりしている時点で、落ち着いていないことは誰にでも分かる。
ガロンは椅子の背にもたれ、にやりと笑った。
「おいおい、ルナ。そんなにうろうろしてると床が削れるぞ。」
「削れないわよ!」
「いや、勢いだけで削れそうだ。」
「ガロン!」
ルナの頬が赤くなる。
怒っているのか、焦っているのか、自分でもよく分かっていないらしい。
リアは、その様子を静かに見ていた。
彼女はいつも通り、姿勢よく椅子に腰かけている。銀色の長い髪は整えられ、表情も穏やかだ。だが手元のカップには、さっきからほとんど口をつけていない。
ノアが端末から目を上げずに言う。
「リアも、さっきから三分二十秒、コーヒー、飲んでいないよ。」
リアの肩が、ほんの少し動いた。
「……ノア。そういう記録は、必要ありません。」
リアが冷たく言った。
「必要かどうかじゃなくて、見えたから言っただけ。」
「それを言わない配慮も、時には必要です。」
「なるほど。学習しておく。」
ノアは本当に学習項目にでも入れるような顔でうなずいた。
ガロンが肩を揺らして笑う。
「いやあ、皇女殿下ってのはすげえな。来る前から船内の空気をここまで変えるとは。」
「別に変わってないわよ。」
ルナが即座に言った。
「少し片づいているだけでしょ。お客さんが来るんだから当然じゃない。」
「お客さんねえ。」
ガロンはわざとらしく天井を見上げた。
「皇女殿下をお客さん扱いできる船ってのも、なかなかねえぞ。」
「皇帝陛下の許可を受けた非公式の視察だと聞いています。」
リアが静かに言った。
「本来なら正式の儀礼で迎えるべきですが、この船には、そんな用意はありませんし。
今回は辺境への公式訪問の準備と意見交換が目的だそうですから、こちらが過剰に構えすぎても、かえって殿下のご意向に反するでしょう。」
「ほら、リアもそう言ってる。」
ルナはなぜか勝ち誇ったように胸を張った。
「普通に迎えればいいのよ、普通に。」
「普通に、ね。」
ガロンは笑いを噛み殺している。
「で、その普通ってのは、アルクの隣の席を空けておくことか?」
ルナの動きが止まった。
リアの指も、カップの取っ手に触れたまま止まった。
ノアだけが平然と端末を操作している。
数秒の沈黙。
ルナは、ぎこちなく首を傾げた。
「……何の話?」
「いや、何でもねえよ。」
ガロンはわざとらしく両手を上げた。
「俺はただ、食堂の席順って大事だよなあ、と思っただけだ。」
「大事じゃないわよ。どこに座ったって同じでしょ。」
「なら、殿下がアルクの隣に座っても問題ねえな。」
「それは……」
ルナは言葉に詰まった。
リアは視線を落とし、静かにカップを置いた。
小さな音がした。
けれど食堂の中に妙にはっきり響いた。
「……問題はありません。」
リアが言った。
声は妙に落ち着いている。
「ただ、緊急時の動線があります。操舵、通信、機関区画への移動。
その点では、席にも意味があります。」
ノアが端末から顔を上げた。
「リア、それは後付けの理屈っぽいね。」
リアは無言でノアを軽くにらむ。
ノアは俯いてリアの視線を避けた。
「でも、内容は正しいよ。緊急時の動線は大事。」
「ほら!」
ルナが勢いよくノアを指した。
「ノアも大事って言ってる!」
「うん。ただ、普段の食事席にそこまで厳密な運用規定はない。」
ガロンは、こらえきれずに笑いだした。
「いやあ、こりゃ殿下が来る前から戦争だな。」
「戦争じゃない!」
ルナが叫ぶ。
その瞬間、食堂の扉が開き、アルクが入ってきた。
黒い航行服に、いつもの無表情。
手には小さな端末を持っている。
おそらくドック側との入港手続き確認を終えたところだろう。
彼は食堂の空気を一瞬、見ただけで、短く言った。
「騒がしいな。」
アルクはテーブルの周囲を見た。
片づいた食堂。妙に整った椅子。
落ち着かないルナ。
平静すぎるリア。
面白がっているガロン。
平常運転のノア。
それだけ見て、だいたいの事情を理解したらしい。
「普通に迎えればいい。」
アルクは言った。
ルナがすぐにうなずく。
「そうよね。普通でいいのよね。」
「そうだ。」
アルクは短く答えた。
リアが言う。
「アルク。殿下は非公式視察とはいえ、皇女です。最低限の礼は必要です。」
「分かってる。」
「船内の案内は、誰が担当しますか?」
アルクは少し考えて答えた。
「俺がする。」
ルナとリアの表情が、わずかに動いた。
ガロンがまた何か言いかけたが、ノアが先に口を開いた。
「到着まで二十六分。連絡艇はドック外周の誘導ラインに入った。」
アルクはうなずいた。
「迎えに行く。」
「私も行く。」
ルナが即座に言った。
リアも続ける。
「私も同行します。
皇女殿下への対応であれば、帝国式の礼法を把握している者がいた方がよいでしょう。」
「じゃあ俺も。」
ガロンが立ち上がりかける。
ノアが端末から顔を上げた。
「全員で行くと、迎えというより圧になるよ。」
ガロンは座り直した。
「それもそうだな。」
アルクは、ルナとリアを見た。
「二人でいい。」
「うん。」
ルナはすぐにうなずいた。
「承知しました。」
リアも答える。
だが、リアの内心は、承知しました、というほど単純なものではなかった。




