皇女の決意
黒冠のアルク 皇女編 Ⅰ
―― 皇女、黒き船へ再び
プロローグ 皇女の決意
「お父様。私、アルクのこと、諦めるつもりはありません。」
皇帝宮殿の奥にある私的執務室。
ティオセフィアーナ・アウレリウムは、静かに、しかしはっきりとそう言った。
机上の報告書を読んでいた皇帝は、娘の声に顔を上げた。
外縁星域軍の再編案。辺境自治協定の草案。新航路協定の準備書類。
帝国の未来に関わる文書が並ぶ部屋で、娘が口にしたのは、一人の少年の名前だった。
皇帝は、しばらく黙ってティオを見つめた。
「ティオ、いきなり、その話か。」
「はい。」
ティオは強くうなずいた。
「先日の婚約の件を、まだ気にしているのだな。」
「気にしていないと申し上げれば嘘になります。」
ティオは視線を逸らさなかった。
皇女として育てられた彼女は、感情を顔に出さない術を知っている。
それでも、その瞳の奥に、隠しきれない感情が揺らめいていた。
「傷ついているわけではありません。
アルクは、誰かに命じられて選ぶ人ではありませんから。
お父様に勧められたからといって、私を選ぶことはないと思います。」
「それでよいのか?」
「少しだけ、悔しくはあります。」
皇帝の口元が、わずかに緩んだ。
「正直でよろしい。」
「笑わないでください。」
ティオの顔が少し膨れた。
「笑ってはおらぬ。」
「笑っています。」
ティオは、膝の上で指を重ねた。
「私は小さいころから、お父様に帝国を築いた祖先の英雄譚を聞いて育ちました。」
皇帝の目が細くなる。
「星間流を読み、まだ誰も知らなかった航路を拓き、人々を導いた者たちの話です。
帝国は自然に広がったわけではなく、最初の道を見つけた者がいて、その道を守った者がいたのだと、何度も聞かされました。」
ティオは記憶をたどるように言葉を続けた。
幼いころ、彼女はその物語が好きだった。
遠い星々を結ぶ航路。
星間流の奥に隠れた道。
見えない流れを読み、人々を新しい星へ導いた者たち。
それは、ずっと昔の英雄譚だと思っていた。
今の帝国には、再びかなえることはできない物語だと感じていた。
「けれど、その力を持つ人が今の時代に本当に現れました。」
ティオの声に熱がこもる。
「しかも、その人は帝国の命令で動いたわけではありません。皇帝のためでも、皇女のためでもなく、自分の意思で道を選びました。
辺境の人々を救い、帝国の軍を退け、それでも帝国そのものを壊そうとはしなかった。」
皇帝は黙って聞いていた。
「私がアルクに惹かれるのは、私が皇女だからではありません。
一人の人間としても、当然のことだと思っています。」
「英雄譚を聞かせすぎたかもしれんな。」
皇帝は静かに言った。
「だが、ティオ。物語の英雄と、生きている人間は違う。
アルクは、帝国のために用意された駒ではない。皇女の前に現れた伝説でもない。
辺境で生きてきた一人の船長だ。」
「分かっています。」
ティオはすぐに答えた。
「だからこそ知りたいのです。
物語の英雄ではなく、今を生きているアルクを。」
その言葉に、皇帝は少し表情を変えた。
ティオは続ける。
「アルクを知るには、彼が守った航路を知らなければなりません。黒冠航路、辺境、そして、あの船に乗る人たちを。
報告書ではなく、自分の目で見なければならないと思っています。」
皇帝は机上の書類へ視線を落とした。
辺境自治協定。新航路協定。
それらは今、帝国が最も慎重に扱わなければならない政治課題だった。
「ちょうど、その話が出ている。」
「その話……ですか。」
ティオは首を傾げた。
「レイグナーや宰相から進言があった。
辺境との協定を進めるにあたり、一度、皇族が辺境へ赴くべきだとな。」
ティオの表情が引き締まった。
「皇族が、辺境へ……。」
「そうだ。帝国が変わったことを、言葉だけではなく行動で示す必要がある。
辺境自治を認め、新航路協定を結ぶなら、皇室が安全な中央に留まったままでは説得力がない。」
皇帝は娘を見た。
「本来なら、私が行くべきなのだろう。
だが、今の帝都を長く空けるわけにはいかぬ。軍と官僚機構の再編も、まだ途上だ。」
ティオは黙って聞いていた。
「皇族の中で、年齢、立場、能力を考えれば、おまえが最も適任だ。」
「私が……。」
ティオは思いがけない話に少し驚いた。
「そうだ。」
皇帝の声は、父のものではなく、皇帝のそれになっていた。
「外縁星域を経て、辺境星域へ向かう。
辺境自治承認の意思を示し、新航路協定の準備を進める。外縁にも中央が彼らを無視していないことを示す。
公式訪問、皇帝の特使という形になる。簡単な役目ではない。」
ティオは緊張して静かに息を吸った。
先ほどまで、彼女はアルクへの想いを語っていた。
だが今、目の前に置かれているのは、帝国の未来に関わる役目だった。
それでも、ティオにとって不思議と二つは別のものではなかった。
アルクと、アルクたちが守った航路。
辺境の人々。
そして帝国の未来。
すべては、同じ道に通じているように思えた。
「お父様。」
ティオは決意した。
「そのお役目、私にお任せください。」
皇帝は娘をじっと見た。
「危険だぞ。」
「承知しています。」
「強硬派の影響力は、軍内外にまだ強く残っている。
皇女の辺境訪問は、彼らにとっては都合が悪い。」
「それでも、行くべきです。」
ティオの決意は揺れなかった。
「危険だから行かないのでは、辺境の人々に信じてもらえません。
安全な場所から帝国を信じてほしいと言っても、思いは届きません。」
皇帝は目をつむり、しばらく黙っていた。
そして決断した。
「敵は艦隊で来るとは限らぬ。帝国を壊す者は時に内から来ることもある。」
ティオの表情が、わずかに硬くなった。
「その危険も含めて、護衛と準備は整える。親衛艦隊も動かす。
だが、最後にその場で判断するのは、おまえだ。」
「はい。」
ティオは立ち上がり、深く頭を下げた。
「皇女ティオセフィアーナ・アウレリウム、辺境への公式訪問、謹んで拝命いたします。」
皇帝はうなずいた。
「頼んだぞ。」
ティオは顔を上げた。
その瞳には緊張と覚悟が見えた。
ティオセフィアーナ・アウレリウムにとって、このような重い役割を背負っての公式訪問は初めてだ。
そして、瞳の奥には、もう一つ光があった。
「お父様。公式訪問の事前勉強も兼ねて、お願いがあります。」
「アルクだな。」
言う前に、その名前を出され、ティオは一瞬、言葉に詰まった。
皇帝は少し笑った。
「顔に出ているぞ。」
「……出ていましたか。」
「皇女としては、少しな。」
ティオは小さく咳払いをした。
「公式訪問に先立ち、もう一度ブラッククラウン号を訪ねる許可をいただきたいのです。
辺境の実情をアルクたちから直接聞くために。そして……あの船を、知るために。」
「アルクを知るためでもあるな。」
「はい。」
ティオは、はっきりと答えた。
皇帝はしばらく娘を見ていた。
やがて静かにうなずく。
「許可する。
だが、忘れるな。あの船では、肩書だけでは席は与えられまい。」
ティオは、その言葉を胸に受け止めた。
ルナとリア。
アルクの隣に、すでに席を持っている二人の姿が脳裏に浮かぶ。
その姿が、思っていたより、はっきりと見えた。
「分かっています。皇女としてではなく、一人の客人として見てまいります。」
皇帝は言った。
「行くがよい、ティオ。」
「はい、お父様。」
帝国の未来に続く辺境への旅は、ティオにとって、もう一度あの船へ向かう旅でもあった。
ティオは深く一礼し、執務室を出た。
扉が閉じる直前、もう一度だけ振り返る。
皇帝は何も言わなかった。
ティオも、何も言わなかった。




