皇帝の決断
黒冠のアルクⅥ
―― 帝都動乱
第1章 皇帝の決断
帝国は広大だった。
中央星域だけでも直径およそ七百光年に及ぶ。
命令が出されても、それが全域の指揮系統に反映されるまでには時間が必要だった。
平時においては、それでも構わない。
だが非常時には、そうは行かない。
遅延は帝国の運命そのものを左右することもある。
***
皇帝は静かに報告書を閉じた。
机上には軍内部の動静を整理した資料が整然と並んでいる。
艦隊配置、人事構造、通信統制系統、方面指揮網の連結状態。
どれも既知の内容だった。
強硬派が軍の主流であることは、改めて確認するまでもない。
問題はそこではなかった。
問題は――
その主流派の意思だ。
「どうしたものか……。」
皇帝は小さな声でつぶやいた。
軍監察局長が静かにうなずいた。
軍監察局は軍内部の統制を目的として設けられた監察機構だった。
その局長は歴代皇帝が自ら指名してきた。
軍の指揮系統からは独立し、実質的に皇帝直属の地位に置かれている。
皇帝が軍の動向を把握するための組織だった。
「辺境政策に関する強硬派の姿勢に変化はありません。
このままでは辺境星域との摩擦は増えるばかりです。」
監察局長は断言した。
皇帝は静かにうなずく。
皇帝は監察局作成の報告書に視線を落とした。
辺境星域艦隊。
中央星域艦隊。
戦略計画部門。
軍の中枢には強硬派の影響力が強い。
このまま放置すれば――
軍は皇帝の意向を越えて暴走しかねない。
それが問題だった。
「力を持たせ過ぎたか……」
皇帝は小さくため息をついた。
「指揮系統を再編する。」
皇帝は言った。
側近たちが驚いて顔を上げる。
短い言葉だった。
しかし、その意味は重い。
監察局長が確認する。
「対象は強硬派中枢ですね。」
皇帝はうなずいた。
すでに迷いはなかった。
「人事発令は本日付で出したいが。」
室内に緊張感が漂う。
監察局長は即座に言った。
「お言葉ですが、即日の発令はできません。」
皇帝は視線を向ける。
監察局長は続けた。
「発令はすなわち指揮官の交代です。
将官クラスの交代となれば、遠距離の移動が必要となる場合もあります。
即日発令となると、指揮官不在の部隊が多数、発生し、指揮系統が混乱します。」
人事異動は発せられるだけでは意味を持たない。
伝達され、確認され、受理され、実際に指揮官が現地に着任して初めて効力を持つ。
その過程には時間が必要だった。
「やはり無理か……。
どの程度かかる?」
皇帝が問う。
「最短でも三週間。
通常は、一ヶ月必要です。」
監察局長は答えた。
皇帝は沈黙した。
軍の中枢人事だった。
帝国艦隊副司令長官。
同参謀総長。
各方面艦隊司令官。
そして軍務省の局長クラス。
それらを同時に動かす。
「まず内示を行い、三週間後に正式発令及び辞令交付となります。」
監察局長が言う。
皇帝はしばらく黙っていた。
時間が必要になることは理解している。
そして、その時間が意味するものも理解していた。
内示により皇帝の意思を示してからの空白の時間――。
帝国は軍によって維持されている。
皇帝はそれを理解していた。
中央星域の秩序も、外縁の航路も、辺境の防衛も。
それらすべては軍の存在によって成立している。
政治でも、制度でも、理想でもない。
軍だった。
その軍の中枢を同時に動かす。
それがどれほどの意味を持つのか、皇帝は誰よりも正確に理解していた。
だが同時に、軍だけで帝国を維持できるわけではないことも理解していた。
航路が止まれば秩序は止まる。
物資が届かなければ統治は止まる。
そして今、帝国が維持できなかった辺境の航路を一隻の船が守ろうとしている。
ブラッククラウン。
皇帝はすでに報告を受けていた。
灯台航路網の外側で航路を維持できる存在。
もしそれが可能だと証明されれば、航路は国家の独占ではなくなる。
帝国という構造そのものが揺らぐ。
だから軍は排除を主張した。
軍の立場としては正しい判断だった。
一方で行政官たちは別の報告を上げていた。
黒冠航路によって辺境の輸送量は回復し始めている。
医薬品、燃料、器材が届いている。
それは統治の失敗を意味すると同時に、統治の可能性をも意味していた。
制度として取り込めるならば帝国はむしろ強くなる。
皇帝だけが理解していた。
ブラッククラウンは敵であると同時に希望だった。
そして、それは警告でもあった。
帝国が変わらなければならないという静かな警告だった。
皇帝は目を閉じた。
「……分かった。
そのように進めよ。」
監察局長が一礼する。
側近たちが動き始める。
内示文書が作成され、それが各部署に伝達される。
決断はなされた。
この決断が帝国を静かに揺らすかもしれないことを皇帝は理解していた。
あとは、その結果を待つだけだった。




