第7話:下層への挑戦
翌朝、昨日と同じようにギルドの重い扉を開けると、そこには既に見慣れた姿があった。
依頼が張り出された掲示板の前で、アリシアがそわそわと落ち着かない様子で誰かを待っている。彼女はゼロスの姿を認めると、ぱっと顔を輝かせた。
「あ…おはようございます。アリシアさん」
「あ、おはようございますっ、ゼロスさん」
昨日までの、どこか遠慮がちだった雰囲気はもうない。ゼロスを見るなり、彼女は太陽のような明るい笑顔で駆け寄ってきた。その屈託のない様子に、ゼロスも自然と口元が緩む。
「今日はどんな依頼を受けられますか?」
「あ…その、今日もホーニーラビットの討伐は如何でしょうか?昨日ので、少しだけ自信がつきましたし…」
アリシアは、期待と不安が入り混じったような表情で、恐る恐る提案する。
「いいですよ。でも、ちょっとホーニーラビットだけだと、アリシアさんの成長に繋がらないかな、とも思うんです」
「い、いえ、私なんて、そんな…」
途端に、彼女はシュンと肩を落として俯いてしまう。その自信なさげな姿に、ゼロスは慌てて両手を振った。
「大丈夫大丈夫!俺もついてますし、とりあえず、今日は下層まで行ってみましょうよ!ほら、武器も手に入れましたし」
ゼロスは悪戯っぽく笑うと、背中に差していた鋼鉄の棍棒を抜き、軽く掲げてみせた。その無骨な武器は、彼の言葉に確かな説得力を持たせていた。
「しょ、承知致しました…」
アリシアは、期待と不安で高鳴る胸を押さえながら、こくりと頷いた。この人といると、いつも自分のペースが乱されてしまう。だが、その彼に引っぱられる感覚は、決して嫌なものではなかった。
「よし、ならついでに下層モンスターの討伐依頼も見ていきましょうか」
彼はそう言うと、掲示板へと向き直り、無数に貼られた依頼票の中から、目的のものを探し始める。その手慣れた様子を、アリシアは不思議そうに見つめていた。
「ぇ…そんな、行ったこともないのに、どんなモンスターがいるか、わかるんですか?」
彼女の問いに、ゼロスはきょとんとした顔で首を傾げた。
「あはは、アリシアさん、ホントに何も知らないんですね」
その純粋な疑問に、ゼロスは思わず笑ってしまった。
アリシアは、子供扱いされたように感じたのか、ぷくっと頬を膨らませて、少しだけムッとした顔をした。
その反応を見て、ゼロスは慌てて手を振った。
「あ、ごめんごめん。そういう意味じゃなくて…その、ギルドの依頼は、事前に情報が出てるんだよ。まぁ、先遣隊がいるんだ。ダンジョンは毎月中身が変わるからね」
「な、なるほど!ギルドにはそんな危険な任務を専門にされてる方々もいらっしゃるんですね!」
目を輝かせるアリシアに、ゼロスは少しだけ遠い目をして続けた。
「まぁ…Bランクダンジョンまでかな、中身がわかるのは。一度踏破したことがあるランクの情報しか、冒険者には解禁されてないし。Aランク以上は…そもそも先遣隊の帰還率が低すぎるから、情報自体がほとんどないんだ」
「そ、そうだったんですね…」
彼の言葉の端々から、自分がまだ知らない、冒険者という職業の厳しさが垣間見えた。
「まぁ、とりあえず、今日はEランクの下層まで行ってみよう。なるべく早めにランクも上げたいしね」
「しょ、承知致しました。サポートはお任せくださいっ」
彼女はこくりと頷き、きゅっと唇を引き締めた。その決意に満ちた表情を見て、ゼロスは満足げに頷くと、掲示板に貼られていた一枚の依頼票に手を伸ばす。
『下層にて、オーガ討伐。報酬条件、魔核1個から』
街の門を抜け、再びダンジョンへと続く道を歩く。
昨日とは違い、今日のゼロスの背中には、大きな革の背嚢が揺れていた。
「そういえば、ゼロスさん、今日は背嚢を背負ってらっしゃるんですね」
「うん、今日はアリシアさんを下層に連れていこうと決めてたからね。予め3日分の食料と水、ポーション各種と、念のための脱出用スクロールは持ってきたんだ」
「そ、そんなに…重くないですか?半分持ちましょうか?」
心配そうに申し出る彼女に、ゼロスは笑って首を振った。
「大丈夫、これくらいの重さならなんてことないよ」
その言葉に嘘はないのだろう。彼の足取りは、昨日と変わらず軽やかだ。
だが、ヒーラーとして魔素の流れに敏感なアリシアは、彼の体から常に、ごく薄いオーラのようなものが立ち上っていることに気づいていた。
「ゼロスさん…あの、無理なさらなくていいですよ?もしかして、筋力強化のスキルを今もずっと使われてますよね…?」
「ん?よくわかるね。もう癖でね、無意識で常時掛け続けちゃうんだよね」
「じょ、常時!?」
驚きの声を上げるアリシアに、ゼロスは少し気まずそうに笑った。
「あー…大丈夫大丈夫。所詮、(微)だから…ハハハ………はぁ」
最後の言葉は、ため息に近かった。その諦観に満ちた横顔には、もし自分にもっとまともなスキルがあれば、という長年の渇望が滲んでいた。アリシアは、そんな彼の表情に胸がちくりと痛むのを感じるのだった。
「そんな…凄いことですよ。スキルを常時なんて、私なんて一日3回使ったら魔素が枯渇してしまいますよ…」
彼女の言葉に、ゼロスは励ますように笑いかけた。
「アリシアさんは初心者だからね、まだまだ伸びしろあるよ!」
「…伸びしろ…」
その言葉に、アリシアはふっと表情に影を落とした。「伸びしろ」――かつて教会で、才能ある同輩たちと比べられ、お前にはそれがないのだと、暗に示され続けた言葉だった。
彼女の笑顔が曇ったのを見て、ゼロスは内心で舌打ちした。どうやら、また余計なことを言ってしまったらしい。彼は自分の失言に気づき、慌てて話題を変えた。
「ま、まぁ行きましょうか」
「そうですねっ!」
アリシアはすぐにいつもの明るい笑顔に戻り、元気に頷いた。
歩きながら、アリシアはゼロスの背負う背嚢に改めて視線を送った。
「ところで、その背嚢、普通のサイズに見えますが…もしかして…」
「よく見てらっしゃる…そう、マジックアイテムだよ。容量と見た目が合わないから、最初はびっくりするけどね」
「そうだったんですね。そちらに3日分の食料や水、ポーションが入ってると聞いて、もしかしてと思いまして」
他愛ない会話を続けているうちに、二人は見慣れたEランクダンジョンの入り口に到達した。
洞窟内に足を踏み入れると、ゼロスはアリシアを手で制し、後方に下がるよう合図する。そして、昨日手に入れた鋼鉄の棍棒を静かに抜き放った。
上層から中層へ、ゼロスは一切の迷いなくまっすぐに進んでいく。
道中、昨日と同じようにホーニーラビットが物陰から次々と襲い掛かってくるが、今のゼロスにとっては障害にすらならなかった。彼は見向きもせず、ただ通り過ぎるついでとばかりに、棍棒を凄まじい速度で振り抜いていく。
アリシアの目には、ゼロスが黒い鞭を振るっているような残像しか見えない。
その影が振るわれるたびに、ホーニーラビットの体から破裂音が響き、骨も肉も関係なく、跡形もなく粉砕されていった。
アリシアが心配そうに尋ねると、ゼロスは振り返りもせず、肩をすくめて答えた。
「…あの、ゼロスさん。先ほどから、魔核ごと破壊されているようですが…」
「ん?大丈夫大丈夫、ホーニーラビットの魔核くらいなら、ダイアウルフの魔核1個で5個分くらいにはなるよ」
そのあっけらかんとした答えに、アリシアは呆れたように息をつく。
「そ、そんなにですか…」
その圧倒的な力の差と、価値観の違いに、アリシアはもはや驚く気力も失っていた。
あっという間に中層へと到達した二人は、浅層とは明らかに違う、濃密な魔素の匂いが漂う空気に身を置いた。
「あの…休憩とかはされますか?」
「ん?疲れちゃった?」
ゼロスは彼女の気遣いが少し意外だったのか、きょとんとした顔で振り返った。
「いえ、ゼロスさんのお身体が心配で」
「俺は大丈夫だよ、まだ肩慣らしが足りないくらいだよ」
彼は悪戯っぽく笑いかけると、まるで散歩でもするように再び歩き出した。
「そ、そうですか…」
そのあまりにも平然とした態度に、アリシアはただ圧倒されるしかなかった。彼の背中を見つめながら、彼女は自問する。元Aランクパーティの荷物持ちと聞いていたけれど、これほどまでに高ランクの冒険者というのは強いものなのだろうか、と。
中層から下層へと続いているであろう一本道を、ゼロスはゆったりと歩いていく。
アリシアは、彼の背中から1メートルも離れないように、必死に後を追った。
その時、道の脇にある岩陰から、黒い影が弾丸のように飛び出してきた。ダイアウルフだ。
しかし、その鋭い牙がゼロスに届くことはなかった。
空気を切り裂く音もなく、ただ高速で振り抜かれた棍棒が、ダイアウルフの上半身を跡形もなく吹き飛ばす。
宙を舞う下半身の中心から、ゼロスは慣れた手つきで魔核だけを素早く抜き取った。
「これくらいの大きさのモンスターは、魔核ごと吹き飛ばす心配がないから楽でいいな」
ゼロスは、先ほど蹴りで粉砕したダイアウルフの骸に歩み寄ると、手早くその胸から魔核を抜き出した。
そして、そのまま地面に転がっていた何かに手を伸ばすと、近くの草むらに向かって、腕をしならせて投擲する。
「ギィィィンッ!」
直後、茂みの奥からダイアウルフの甲高い断末魔が響き渡り、何かが地面に叩きつけられる重い音が続いた。
信じられないものを見る目で、アリシアはゼロスを見つめる。
「も、もしかして、今…魔核を投げたのですか?」
「そんな勿体ないことしないよー。あいつらの骨をちょっと借りて投げただけだよー」
彼はそう言って、何事もなかったかのようににこりと笑う。
「・・・」
アリシアは言葉を失った。彼の規格外の戦闘能力を目の当たりにするたびに、彼女の中で彼に対する疑念は、もはや確信に近いものへと変わっていった。本当に、この人は、ただの荷物持ちだったのだろうか。
中層を抜け、下層へと続く階段の手前は、広々とした空洞になっていた。そこはモンスターの気配が一切しない、ダンジョン内でも稀有な安定区画だ。二人はここで、束の間の休息を取ることにした。
アリシアは、水筒の水を一口飲むと、意を決したように隣に座るゼロスを真剣な眼差しで見つめた。
「あの…ゼロスさん」
「なんだい?アリシアさん」
「あの…本当に、ゼロスさんは荷物持ちだったんでしょうか…」
「ん?荷物持ちだったよ~」
あまりにも呑気なその回答に、アリシアはさらに疑念を深める。彼女はぐっと身を乗り出した。
「その…私には、正直に言ってくださらないでしょうか?」
彼女の真剣な眼差しに、ゼロスは少しだけ驚いた顔をした。
「え!?何を!?」
「その…本当は、ゼロスさんが元いたAランクパーティの、リーダーの方だったのではないでしょうか…」
「・・・はい?」
「それで、かつての仲間たちに何か濡れ衣を着せられて、パーティを追放された…とか…」
「…ないない」
あまりにもあっさりとした否定に、アリシアは言葉を失う。
「そんなっ…では、Aランクの冒険者の方々は、皆さんあんなにお強いのですか!?」
「んー、強いと思うよー」
「…え?」
「少なくとも、俺じゃぁAランクダンジョンに出てくるドラゴンは倒せないからなぁ」
「そ…そうなんですか…あんなにお強いのに」
彼の言葉が本心からのものだと分かり、アリシアは混乱する。目の前でダイアウルフの群れを赤子のように捻ったこの人が、自分より遥かに強い存在がいることを、当然のように語っている。
「まぁ、強いっていっても、ここは初心者用のダンジョンだしなぁ」
その言葉に、アリシアは耳を疑った。
「つ、つまり、Dランクの冒険者の方なら、簡単に制覇できるようなダンジョンだと…?」
「うん。たぶん」
その答えは、アリシアにとって、あまりにも衝撃的だった。
Dランクパーティから追い出された自分。その自分が足を踏み入れることすら躊躇するこの場所を、彼は「初心者用」だと言い、Dランク冒険者なら「たぶん簡単」だと言い放った。
自分と、目の前にいるこの青年と、そして世の中の冒険者たちとの間にある、絶望的なまでの実力差。その現実を、アリシアは初めて、はっきりと突きつけられたのだった。
彼女は、その大きすぎる衝撃に、思わず頭を抱えて蹲ってしまった。
(第七話/了)




