第8話:続下層への挑戦
頭を抱えて蹲るアリシアをなだめすかし、ゼロスは彼女を促して下層へと続く階段を下りていった。
ひんやりとした湿り気を含む空気が、さらに密度を増して肌を撫でる。上層が無機質な石造りの通路、中層が光るキノコに照らされた幻想的な森だったのに対し、下層はごつごつとした岩肌が剥き出しになった、自然の洞窟そのものといった様相を呈していた。天井は低く、壁からは絶えず水が滴り落ち、その音が重苦しく反響している。
「…もう、大丈夫です」
アリシアが深呼吸をして顔を上げた。その瞳には、まだ実力差への不安が残ってはいるものの、逃げ出さずに隣に立つという覚悟を決めた強い光が宿っていた。
ゼロスは、彼女の緊張が解けたのを静かに確認すると、「さ、行こうか」と声をかけ、自然な動作で前に歩みを進める。アリシアも、迷宮の奥へと消えていく彼の背中に遅れないよう、しっかりと付いて行った。
張り詰めた静寂の中をしばらく無言で歩いていたが、耐えきれなくなったようにアリシアが口を開いた。
「あの…ゼロスさん、依頼にあったオーガというのは、どのようなモンスターなのでしょうか?」
ゼロスは、その問いに少しだけ驚いた顔で振り返った。彼女の瞳には純粋な好奇心が浮かんでおり、オーガという存在がどれほどの脅威か、まだ実感として結びついていないようだった。本当に、この世界に足を踏み入れ、過酷な現実に直面したばかりなのだな、と彼は改めて思う。
「オーガっていうのは、そうだな…クマから体毛をなくして、二足歩行になって、武器を使えるようになったモンスター…かな」
そのあまりにも的確で、同時に人間という種族にとって絶望的な説明に、アリシアの顔からサッと血の気が引いていく。剥き出しの筋力と知性を兼ね備えた怪物のイメージが、脳裏で最悪の形を結んだ。
「どうかした?」
ゼロスの問いかけに、アリシアはか細く、震える声で答えた。
「そ、そんなの…人間が戦って、勝てるわけないじゃないですか…」
その怯えきった声に、ゼロスは困ったように笑った。
「大丈夫。確かに身体能力の差は、人間とモンスターじゃ比べ物にならないけど、俺たち人間にはスキルっていう技術がある」
「スキル…」
アリシアの顔から希望の色が消えた。スキル。その言葉は、特別な才能を持たない彼女にとって、選ばれた強者だけの特権のように響いていた。
神聖法皇国ルーメンの教会で「落ちこぼれ」と見下され、存在価値を否定され続けた過去の呪縛が、胸の奥で鈍く疼く。彼女は護身用の樫の棒をぎゅっと握りしめる。その指先は、力を込めすぎるあまり、白くなっていた。
ふと、その硬直した指先に、温かいものが触れた。
ゼロスが、彼女の手にそっと自分の手を重ねていたのだ。
「言ったろ? キミが死ぬような場所なら、連れてきていない。大丈夫だ」
その手の温かさが、彼女の心の氷を溶かしていくようだった。アリシアは、弾かれたように顔を上げて、ゼロスの顔を見つめた。
その瞳は、どこまでも穏やかで、それでいて揺るぎない力強さに満ちていた。
どうして前のパーティは、こんなに優しくて頼りになる人を、あんな酷い言葉と共に追い出してしまったのだろう。アリシアの心に、純粋な疑問と、そして彼の尊厳を傷つけた元仲間たちに対する静かな怒りが込み上げてくるのだった。
その時だった。洞窟の奥、ぬるりとした闇の中から、巨大な影が姿を現した。
身長は三メートルを優に超え、剥き出しの筋肉が醜く盛り上がっている。手には、大木をそのままへし折ったかのような巨大な棍棒。紛れもない、下層の捕食者オーガだ。
その圧倒的な威圧感を前に、アリシアは息を飲み、体が鉛のように動かなくなる。本能的な恐怖が、彼女の思考と手足を縛り付けていた。
だが、オーガが二人を獲物と認識し、迎撃の体勢を整える暇はなかった。
ゼロスが、その俊足で一気にオーガの足元まで肉薄する。
オーガが巨体をひねり、視界から消えたゼロスの姿を捉えようとするよりも早く、全体重を乗せたゼロスの右蹴りが、オーガの右膝を内側から的確に打ち抜いた。
ゴキャッ、と骨が砕ける湿った音が、洞窟内に不気味に響き渡る。
巨体を支えきれなくなったオーガが、バランスを崩して大きく傾いだ。
悲鳴を上げる間もなく、ゼロスは手にした鋼鉄の棍棒を、真空を切り裂くような速度で薙ぎ払う。轟音と共に、オーガの頭部が熟れた果実のように破裂した。
巨体が、地響きを立てて崩れ落ちる。
その全ては、ほんの数秒の出来事だった。
ゼロスは、恐怖と緊張で固まっていたアリシアに振り返ると、まるで大したことではなかったとでも言うように、優しく声を掛ける。
「ね? 大丈夫でしょ」
アリシアは、その一瞬の光景を必死に目で追ってはいた。だが、彼女の認識では、ゼロスが一瞬姿を消したかと思うと、次の瞬間にはオーガの足元に現れ、残像のような動きをしたかと思えば、オーガの頭が破裂していた――そうとしか見えなかった。
この人はこれほどまでに強いのに、なぜ今もなお「ただの荷物持ち」を自称し、自らの価値を低く見積もっているのだろうか。彼女の中で、驚愕はもはや深い畏怖の念へと変わっていた。
ふと、ゼロスが地面に落ちているものを見つめていることに、アリシアは気づいた。それは、先ほどのオーガが持っていた巨大な棍棒だった。原始的だが、その質量はそれ自体が致命的な凶器だ。
「あ…あの、どうかされました? ゼロスさん…?」
ゼロスはアリシアの問いには答えず、棍棒を片手で軽々と拾い上げると、まだ薄暗い洞窟の奥目掛けて、槍投げのように構えた。
いや、投げはしなかった。
彼は棍棒を斜めに地面に突き立てると、助走もなしに、その末端を思い切り蹴り飛ばしたのだ。
彼の足がしなり、ゴッ、という破裂音が洞窟を震わせる。巨大な棍棒は、まるで巨大な質量弾となって暗闇の奥へと消えた。
一拍おいて、洞窟の奥から、何かが硬い岩にぶつかり、崩れ落ちる重い音が響き渡った。
「いよっし! 二体目ゲット!」
まるで的当てゲームでも成功させたかのように、彼は無邪気に笑う。
そのあまりに現実離れした光景と、どこまでもゲーム感覚な彼の言動に、アリシアは自分の中の現実感がガラガラと崩壊していくような、奇妙な錯覚に陥るのだった。
ゼロスは鼻歌交じりに、先ほど倒したオーガ二体の亡骸から、手際よく魔核を抜き取っていた。その動作は、まるで熟した果実でも収穫しているかのように迷いがなく、戦いの直後とは思えないほど緊張感に欠けている。
やがて彼は、抜き取ったばかりの魔核の一つを、アリシアの目の前に差し出した。
「ほら、アリシアさん。これがオーガの魔核だよ」
差し出されたのは、彼女の拳ほどもある紫水晶のような塊だった。下層の濃密な魔素を吸い込み、内側から鈍い光を放つその石は、ずっしりと重みをアリシアの手のひらに伝えてくる。
「お、大きいですね…」
「これ一個でいくらになると思う?」
ゼロスは、まるで子供が悪戯を仕掛ける時のように、ウキウキとした表情で尋ねる。
アリシアは必死に頭を回転させた。昨日手に入れたダイアウルフの魔核が銀貨二十枚ほどだった。オーガはそれより遥かに格上の魔物だ。ならば、倍以上の価値は確実だろう。
「銀貨…五十枚くらい、でしょうか…?」
彼女なりに、かなりの大金を予想して答えたつもりだった。銀貨五十枚あれば、一般家庭の半月分の生活費に相当する。しかし、ゼロスは楽しそうに首を横に振った。
「外れー。なんとこれ一個で、金貨二枚!」
その言葉に、アリシアは息をのんだ。
「金貨二枚!? それって、一般家庭の二か月分の家賃と食費になるじゃないですか!?」
彼女の悲鳴のような声が、静かな洞窟にこだました。
そのあまりに切実な生活感に満ちた叫びに、今度はゼロスが少し驚いた顔をした。
「アリシアさんって…結構、家庭的なご意見をお持ちで…」
「す、すいません…!」
思わず自分の困窮した生活習慣を露呈させてしまったことに気づき、アリシアはカッと顔を赤らめた。
「いやいや、俺なんかは金貨一枚だと一週間くらいしか持たない感覚だから、すごく勉強になるよ」
その言葉を聞いた途端、アリシアの表情が曇った。彼の異常な金銭感覚の根底にある、搾取に満ちた壮絶な過去を思わずにはいられなかったからだ。
「…やはり、今までそれだけ、その…過去のパーティでは消耗品にかかるお金は凄かったのでしょうか…?」
彼女が心配そうに尋ねると、ゼロスは少し遠い目をして、どこか寂しげな笑いを漏らした。
「ハハ…まぁ、そうなるのかな。Aランク攻略中は、凄いときは金貨五十枚使ったことあるし」
「ご、五十!?」
開いた口が塞がらなかった。金貨五十枚。それは一般人が五年間、遊んで暮らせるだけの巨額だ。それがたった一回の攻略で消えるという現実が、彼女の常識を激しく揺さぶる。
「そ、その…そんなに使って、ゼロスさんは生活できていたんでしょうか…?」
彼女の声は、心配の色で震えていた。
ゼロスは、そんなアリシアの純粋な気遣いが少し可笑しいような、それでいて心の奥底に染み入るような、複雑な表情で答えた。
「まぁ…消耗したアイテムを補充して、手元に金貨三枚くらい残るような生活だったかなぁ…」
「金貨三枚!?」
「…少ないの? 多いの? 俺、ちょっと金銭感覚壊れてるみたいだね」
彼はへらりと笑って見せる。だが、その笑顔の裏で、どれほどの不当な扱いを飲み込んできたのだろうか。Aランクの稼ぎがありながら、手元に残るのが一般人の一ヶ月分の生活費と同等など、異常としか言いようがない。
「い、いえ…でも、毎回金貨三枚ですと…その…お貯金は…?」
頭では無作法だと分かっていながら、どうしても気になってしまった。彼という人間をもっと深く知りたいという抑えきれない衝動が、彼女の唇から滑り落ちた。
「…ダメだよ、アリシアさん。そんなこと聞かれても、答えられないよ」
彼は悪戯っぽく人差し指を立てて、アリシアの言葉を遮った。その表情は穏やかだったが、そこには決して踏み込ませないという、優しくも冷徹な拒絶が横たわっていた。
「すっ! すいません! こんな失礼な事を聞いてしまって! あ、あまりにも私と感覚がかけ離れていたもので!」
彼女は自分の無神経さを恥じ、慌てて深々と頭を下げた。
そんな彼女に、ゼロスは穏やかな、確信に満ちた声で語りかけた。
「大丈夫だよ。アリシアさんも、すぐ稼げるようになるよ…あと、使う金額も跳ね上がる感覚も、きっとわかるようになる」
その言葉は、まるで不可避な未来を予言するかのようだった。
「そ、そうだったんですね…」
彼の言葉に、アリシアはふと胸をよぎった寂寥感に戸惑った。白金貨一枚という目標が達成された時、この不思議な旅も終わってしまうのだろうか。そんな考えが、彼女の心を暗く染める。
ゼロスはアリシアの不安を吹き飛ばすように、パンと手を叩いて立ち上がった。
「さてと、話はいったん切り上げて、残りのオーガを探そう。とりあえず、金貨十枚は稼ぎたいとこだしね」
「そ、そんなに…もうすでにオーガ二体で四枚分あるじゃないですか…別にこれ以上、危険を冒さなくても…」
アリシアが心配そうに声を上げると、ゼロスは悪戯っぽく笑いかける。
「あ、十枚ってのは一人分ね! アリシアさん、まだ上着の部分の装備、きっと一般服だろう? 上着はズボンの軽く倍はするから、その費用も今日のうちに稼いでおきたいとこだよね」
「…私…ちょっと、お金の計算で頭が痛くなってきました…」
彼女はふらつきながらこめかみを押さえた。自分の常識が、目の前の青年によって次々と破壊されていく。
そんな会話を続けながら、ゼロスはアリシアと共に、薄暗い洞窟をさらに奥へと進んでいった。
道中で襲い掛かってくるオーガを、ゼロスは次々となぎ倒していく。もはやアリシアには、何が起きているのかを正確に捉えることはできなかった。ただ、黒い棍棒の残像が閃くたびに、三メートルを超える巨体が轟音と共に崩れ落ちていく光景が繰り返されるだけだった。
「っと…これで二十個目。結構稼げたね」
彼が二十個目の魔核を革袋にしまいながら言う。
「わ、私、ちょっと眩暈が………Dランクダンジョンに上がると、更に稼げるんでしょうか!?」
「あはは…そんなことはないよ。どこのダンジョンも、下層に掛けられている討伐金額は特別なんだ。Dランクダンジョンも、ここの下層を超えるモンスターは、最下層の主くらいしか出てこないからね」
「そ、そうだったんですね…ちなみに、ギルドのランク昇格に必要な条件も、やはりここの主の討伐、なのでしょうか?」
「いえ、そっちは金です」
「お金!?」
アリシアが驚きの声を上げた、その時だった。
「まぁ、そろそろ昼前になるし、あと一体オーガを狩ったら帰ろう…かっ!」
そう呟いた瞬間、彼は何でもない動作で足元の石を蹴り飛ばした。
放たれた小石は、不可視の砲弾となって闇を切り裂き、奥に潜んでいたオーガの眉間を正確に撃ち抜いた。一拍遅れて、巨体が崩れ落ちる重い音が洞窟に響く。
「………」
アリシアはもはや思考が追いつかず、ただ茫然とその光景を見つめていた。
「これで二十一個目。ダイアウルフの魔核二個と合わせて金貨四十三枚くらいになるかな…? 二人で分けて二十一枚ずつと、残り一枚は昇格祝いの宴も開こうか?」
彼はまるで夕飯の献立でも決めるかのように、こともなげに言う。
「え!? よ、よろしいのですか!? 私、また何もしていないんですが」
慌てて首を横に振る彼女に、ゼロスは悪戯っぽく笑いかけた。
「いいって、いいって。俺たちパーティだろ?」
その言葉は、何のてらいもない、まっすぐな響きを持っていた。
「ゼロスさん…」
じわりと胸の奥に温かいものが広がっていく。追放され、誰にも必要とされなかった自分が、今、確かに彼の「仲間」として隣にいる。その事実が、何よりも嬉しかった。
その時だった。
突如、洞窟の奥から、空気を震わせるほどの凄まじい咆哮が響き渡った。
地響きと共に、壁からぱらぱらと土砂が落ちる。それは今まで対峙してきたどのモンスターとも比較にならない、圧倒的な存在感を示す咆哮だった。
「…まさか、これは…」
アリシアの顔からサッと血の気が引いていく。
対照的に、ゼロスの表情からはいつもの軽薄さが消え、獰猛な戦士の顔つきに変わっていた。彼は静かに、そしてどこか面倒臭そうに呟いた。
「…出現条件の百体目の討伐を満たしちゃったか…」
闇の奥から、地を裂くような凄まじい足音が聞こえてくる。ドシン、ドシン、と一定のリズムで刻まれるその音は、凄まじい速度でこちらに近づいていた。
「ゼロスさん! 今すぐ撤退をっ!」
「いや、無理だ! もう完全に捕捉されてる! 脱出用のスクロールは起動に一分かかるから、今からじゃ間に合わないっ!」
ゼロスの声は冷静だったが、その瞳には獲物を捉える獣のような鋭い光が宿っていた。
「じゃぁ、どうしますか!?」
アリシアの悲痛な声に、ゼロスは彼女の前に立ちはだかった。
「下がってろアリシア!! 俺が迎え撃つ!!」
彼はそう叫ぶと、アリシアの肩を掴んで力強く後ろへと押しやった。その掌からは、熱を帯びた魔素の奔流が伝わってくる。
その、刹那だった。
全てを飲み込むような洞窟の闇の奥に、二つの紅い光が、爛々と浮かび上がった。
(第八話/了)




