フェアリーリングの中心で
期待を胸に、一歩一歩確実に。鼓動の高鳴りは抑えられず、自然と息も荒くなる。
そして、見えた。
前方に現れたのは、何でもない森の一風景だ。見る限りでは、他の場所と何の区別もつかない。
だが、そこは透陽には特別な場所だ。己が生まれ変わった、始まりの地。だから、季節が移ろい多少色が変わっていても、一目見ただけでわかる。
「俺は、あの日、ここに居た」
答え合わせをするかのように呟く。そよぐ風は静かだ。
間違いなくこの空間に居た。どくり、どくりと血が熱く流れる。うかされた脳は、当時の情景を幻のように紡ぎ出す。
だが自分の立ち位置は逆だ。当たり前だ、あの時は往路、今度は復路なのだから。
そろり、そろりと足を進め、一つ一つ確かめるように口にする。
「あの辺からヴィロサは歩いてきた!」
右手方向のコナラの木の間。薄暗い森に、純白の天使が舞い降りた。それが始まりだった。
「ここに座って、ヴィロサと話した!」
地面に倒れた木。彼女は優しく手を引いて、透陽のつまらない身の上話を聞いて、そして厳しく叱咤してくれた。
ただ半年の間に住み着くものはいたようで、片端面からは小さなオレンジ色のキノコがびっしり生えている。確実に時は経ったのだ。
「この辺りで泣いていたっけ」
色々なことでいっぱいいっぱいになって、年甲斐もなく泣いていた。決して死神のように鎌を持って凄んできたヴィロサが恐ろしかったせいではない。多少は加味するとしてもだ。
だがヴィロサは泣きじゃくる男を蔑むことはせず、むしろ優しく胸の中に抱いてくれた。今思うと気恥ずかしいが、それでも、あの柔らかさと温かさは忘れられない。
「そして、俺は、この木にロープをかけて……それで……」
生と死の境界上に立っていた。もう一歩でも踏み出せば、日の光届かぬ地獄の底に落ちていただろう。
だが、そうはならなかった。天使が奇跡と共に舞い降りたから。
ざわりと風が吹き、透陽の頭を撫でつける。そして鈴のような声がどこからともなく響き渡る。
「死を望んだ人間を生に誘ったのは、死の天使の名を持つ私。うふふ、世の中って、不思議なものよね」
木の影から影が現れる。白くつばの大きな婦人帽をかぶり、真っ白のワンピースをまとい、胸にはドクロのペンダント、そして背から生える美しき翼。高潔で気品のある全身像の中に、見え隠れする可憐な少女のような柔らかいオーラ。間違いない。
「ヴィロサ!」
気が付いた時には、愛しき彼女のことをひしと抱きしめていた。半年強の時を超え帰って来たのだ、死天使ヴィロサの腕の中に。
ヴィロサはくすくすと笑いながら、透陽の耳にささやいた。
「おかえり、私の愛しい人間」
「ただいま、俺の大好きなキノコ」
かくして透陽の悲願は達成されたのだ。全てはこの時のために。ヴィロサの命の温もりを、しかとその身に感じる。
再会のその場所は、ドクツルタケのフェアリーリングの中心だった。
「さあ。あなたのお話しを聞かせてちょうだい。私の知らないところで、あなたが何を見て、何を学んで、何を経験したのか。嬉しいことも、悲しいことも、悩んでいることも、全部、全部、聞かせてちょうだい」
ヴィロサはルビーをはめ込んだような目で、透陽の双眸をとらえて離さない。
そのまま手を引かれて促されるがまま、先の倒木に並んで腰かけた。もちろん、ひそやかに息づくオレンジのキノコは傷つけないように。
肩と肩が触れ合うような距離だ。そしてヴィロサはおとぎ話を聞きたがる幼子のように、透陽の顔を覗き込んでいる。
全部聞きたいと彼女はいった。だから、透陽は全て話す、始まったばかりのキャンパスライフの思い出を。
入学してすぐ、まだ学生生活にも慣れていないというのに、アミガサ三姉妹にここぞとばかりに振り回されたこと。おかげでサークル選びをするタイミングを見失ってしまったのも、いい思い出だ。
春の終わりには紀伊教授と榎ゆきのコンビに出会った。それからは彼の研究室に頻繁に顔を出すようになったが、副次作用的に「勉強熱心な学生がいる」との評判が立ったらしい。まあ、勉強と言ってもキノコについてだけなのだが。何にせよいい師に巡り合えた、と透陽は思っている。
思い出というなら大学自慢の附属農場と研究林のことを忘れてはいけないだろう。楽しい実習を行う農場にも狐野姉妹を中心にキノコが住んでいるが、何と言っても研究林だ。とても一日では回りつくせない。梅雨にはヴェルナに案内してもらって色々なキノコや冬虫夏草と親交を深められたものだ。もちろん、ヴィロサであってヴィロサではない彼女のことも忘れてはいけない。このヴィロサとあのヴィロサで並べて比べてみたいものだ。
それにしても、梅雨の散策は名残惜しいものがある。あそこで花野郎が踏み込んでこなければ、もっと色々見せてもらえたかもしれないのに。やはり一人で探索するよりも、ガイドが居た方がずっと充実するのだと理解した。キノコのことはキノコに聞くのが一番良い。
そう、花野郎。透陽の友「人」だ。あいつのことをヴィロサに話さない手はないだろう。面白いし、ちょっと自分と近い部分もあるし、なによりいいやつだ。試験の最終日には「終わった」と青ざめた顔をしていたが、元気にしているだろうか。
透陽の場合は試験はやりきった、大丈夫だという楽観的な見通しだ。直前にツキヨタケを見に行っておきながら試験に落ちたのでは、ただのキノコ馬鹿になってしまうから、残りの時間は全力を打ち込んだ。結果が出る前に帰省してきてしまったが、問題はないだろう。
「――とまあ、そんな感じだよ」
ようやく終わった透陽の話は長い、それに上手でもない。それでもヴィロサはずっと熱心に聞いていたし、豊かな表情を見せてくれた。聞き疲れている様子も無い、むしろもっと知りたいと、透陽の心の奥までをのぞき込むような風である。
「楽しいのね、大学というところは」
「うん。ヴィロサも連れていきたいよ」
「あら、そう? でも、そうすると、あなたは他の人間たちから奇人変人狂人の仲間に入れられるかもね。いつでもキノコを持ち歩いて、キノコに向かって話しかけている、なーんてね」
「……なんか、そういう人を知っているんだけど」
遠く西方から紀伊教授の大きなくしゃみの音がこだました気がした。ああなりたいかと言われれば、理性がそれを否定する。ところが本能では、自分の行き着く先はああいうふうじゃないかと感じる。
同じ屋根の下でヴィロサと過ごしながら、暇があれば山へキノコを探しにに行って、娘たちと親睦を深める。なかなか悪くない。
そんな妄想劇はヴィロサの笑い声でかき消され、透陽は現実に戻る。
「一つ安心したわ」
ヴィロサが微笑んだ。
「ちゃんと人間のお友達もできたこと、ちゃんと。人間の社会で馴染んでいること。心配だったのよ、あなたは私たちに近すぎるから。そのまま、こちら側の仲間として、生きるつもりなのではないかと」
「それができるなら、やりたいくらいさ」
透陽は肩をすくめた。もし人間からキノコに生まれ変われる技術があるのなら、喜んでその実験体になるのに。そうすれば、彼女たちとずっと一緒に居られるのだから。
そんな透陽の冗談めいた様子に、ヴィロサは不敵で妖艶な笑みを浮かべた。赤い目の奥底からさらに赤い光が沸き起こり、まるで警告を受けているようだ。
「駄目よ、だめだめ。そんなこと絶対にだめ。だってあなたは人間だもの、私が愛した人間。もしあなたの体が菌糸になったとしたら、私はあなたを許さない。こちら側になんて受け入れてやるものですか。この手で追い詰めて追い詰めて、あなたの居場所をこの地上からなくすだけよ。奈落の底で血反吐にまみれて後悔なさい」
ざわりと背筋が凍った。見えない重圧がのしかかるような息苦しさも覚える。第一、「死」に関することをヴィロサが言うと洒落にならない。
ヴィロサは身を乗り出し、顔を近づける。息がかかるような距離で、彼女はしなやかな人差し指をもって、透陽の唇に触れた。そのまま身の程知らずの人間へ言い含めるように語りだす。
「だから、あなたはあなたの道を精一杯生きること。道半ばにして死ぬなんて、許すものですか。人間の社会で、一人の人として生きなさい。人間よりも遥か膨大な時を生きるキノコに魅了されてしまった、儚き生の生き物としてね。大地に生きる私の頭の上で、太陽のように輝いて、そして笑顔で死になさい。私に助けられたあなたには、そうして私を喜ばせる義務があるわ」
随分と高圧な物言いだ。だが、顔は妖精のように穏やかであった。
透陽は心して頷いた。もちろんだ、自分は人間、彼女はキノコ。それでいいし、それがいい。体の構造が根本から違っても、相手を尊重し愛することには、何の支障があるだろうか。
ただ、一つだけ。
「でもね、ヴィロサ。俺の心は、もう君の――いや、君たちの菌糸で一杯だよ。全く、困ったものさ」
そう胸を押さえながら言うと、ヴィロサは吹き出した。
「そういうわりに、全然困ってなさそうだわ」
そうして笑顔を交わし合った。
キノコ目録
ドクツルタケ/アマニタ・ヴィロサ
猛毒キノコとして名高い種。海外では「Destroying Angel」と異名を持つ。
上から下まで全て白色の、大型の部類に入るテングタケ型キノコ。
傘は中高の平ら、つばは膜質、柄には強いささくれが生じ、KOHで肉が黄変するのが特徴。
摂取すると消化器系の中毒症状を呈した後、一旦症状が回復、さらにその後内臓が破壊されることで死に至る。




