里程標(マイルストン)をさかのぼって
深い緑の中を縫うように透陽は歩く。県立森林公園、この園内のどこかだったということは間違いない。だが、子細なポイントは全く覚えていないのだ。
あの時は――今思えば本当に低レベルだと思うが――それでも、透陽は絶望の淵に居て、凍り付いた脳のまま走ってきたのだ、どこから園内にはいったかすら定かではない。
逆順を辿ろうにも、何も知らず何もわからず何も考えずにたどった道のり、思い出せというほうがどうかしている。
ならば逆転の発想だ。あの時適当に歩き回っていたのなら、今回もそうしてみれば道が開けるかもしれない。
だから透陽はひたすら歩く。風の吹くまま、気の向くまま。キノコの胞子が導くままに。
それにしても、と半年前と今とを比べてしみじみ思う。あの時は、よくこんな山の中をくたびれたスニーカーで歩いたものだ、しかも普段はろくにアウトドアな活動をしない男が。それに、よくこんな山の中を「帰りたくない」と言いながら一人で歩けたものだ、慣れてきた今でも時々心臓が縮みあがるというのに。
あの時は必死だった。目の前に積みあがった問題を解くだけでいっぱいいっぱいで、頭を柔らかくして視野を広げるなんて出来なかったから。半年前、あの時までの己は愚かだった。今ならそれがわかる。
知者で鋭敏の皮を被って十九年生きてきて、しかし内実は無知で愚鈍で仕方が無かった。半年前、キノコたちにはそれを散々に思い知らされた。だからカキシメジに騙されるし、マジックマッシュルームの一種、ヒカゲシビレタケとキスしてしまうし。今となっては、苦笑いするしかない。
そして、やはりヴィロサだ。透陽を叩きのめし、そして光へ導いた一番の恩人が彼女であることは間違いない。
思えば思うほど、再会が待ち遠しくて仕方ない。
その時、視界を横切った風に、白い胞子が見えた気がした。もしかして。期待を胸に風上を見上げたが、そこに居るのはヴィロサではない。八割がた真っ白なのはよく似ているが。
その主はまるで風に乗るかのように、此方に向かって歩いてくる。幽霊のようなたたずまいだと透陽は思った。
さくり、さくりと音がする。何かと思えば、足にはアイゼンがついている。雪山でもないのにと思ったが、よく見れば、真夏なのにファーのコートとマフラーをしっかり着込んでいるではないか。
だが不思議と暑苦しくはない。追い風に長い縮れ髪がちぎれて舞い、雪を降らせているように見えるからか。それとも、彼女自身が涼やかな顔で歩いているからか。いや、やはり幽霊を思わせる雰囲気だろうか、なんせ夏だ。
彼女はゆったりとした足取りで向かってくると、そのまま透陽の隣を追い越していった。すれ違いざまに視線がかち合った時、彼女は白い瞳を丸くしたまま、ぺこりと頭を下げた。
そして、さくりさくりと去っていく。知らない子だ、でも、どこかでヴィロサやヴェルナに近い雰囲気を感じた。色合いだけではなく、もっとこう、全体的なもので。
透陽は思い立って、彼女に声をかけた。
「ねえ、君。この辺りで、アマニタ・ヴィロサを見なかったか?」
「ヴィロサならもっと向こう。わたしが降りて来た道を登って、斜面を向こうに降りて、沢を越えて、太陽に向かって。あとは風の吹くままに」
「ありがとう!」
「どういたしまして、我らの友人、ヴィロサの想い人」
「……え!?」
どうして知っているのだ、初対面なのに。考えるに、キノコのネットワークで情報が流れているに違いない。透陽は赤面した。
冬服のキノコ娘はふふっと少女を思わせる笑みを浮かべると、一つ手を振って去っていく。後姿から、透陽の下に声が届いた。
「じゃあ。あなたの願いが叶うことを祈るわ、友人」
「……本当だよ、友茸」
背中を向けたままそう言い伝えて、透陽も再び歩き始めた。
教えられた通り、緩い傾斜を登って、そのまま前方の急斜面を滑り降りて、底に流れる沢を飛び越えて、その沢沿いに歩く。太陽の方向――今はまだ東にある時間だ――に向かって。即ち、水の流れに逆らう方向だ。
せせらぎの音を耳に、比較的なだらかな沢沿いを歩いていると、どうにも記憶がくすぐられる。この風景を半年前にも見たような、無いような。いや、見た。
「まあ……沢って覚えがあるけど、目印とかは何にもなかったし、わかんないよなあ」
「そりゃそうでしょうねえ、親友」
「ぶふあっ!?」
急に耳元で声がしたものだから、反射的にのけ反る。そのまま沢に転落しそうになったが、つま先の力でどうにか堪えた。
人間の男があたふたしている様が相当面白かったのか、キノコの女は腹を抱えてげらげらと笑っていた。
だがそれに不快さなど全く感じない。むしろ、透陽の顔はどんどん明るく輝き始める。
一度見たら忘れることがないだろう、彼女の強烈なファッションは。赤く燃えるような髪に、でっかい赤レンズのサングラス、露わになった肌にのたうつ炎のタトゥー。間違いない、半年前にも会った彼女はカエンタケの――。
「カエンじゃないか!」
そして、親友だ。彼女とタマゴテングタケのファルは、透陽に初めてできた親友なのだ。
感無量で勢いに任せるまま、透陽はカエンタケに抱き付いた。
「わー! ちょ、待った! 気安く抱き付くなって!」
「ちょっとくらい大丈夫さ! 俺は全然怖くないし!」
「だめだって! あたしのせいで透陽に何かあったら、あたしどんな顔すりゃいいのよっ! はーなーれーてー!」
カエンは火事場の馬鹿力で、透陽を強引に引きはがした。
ぜいぜいと息を切らせながら、カエンは力なく笑った。
「もー……びっくりした。透陽ってそんなキャラだったっけ」
「よく言われるよ」
透陽はとぼけたように肩をすくめた。
親友との思わぬ再会を喜び、しばし雑談に興じる。二人肩をそろえて沢沿いを歩きながら。
「時々ニュースでもカエンのこと見るよ。結構有名茸じゃん」
「まーねー、ありがたいことさ。でも、ちょーっとみんな騒ぎ過ぎじゃないの? たまにイラッとしちゃう」
「何で?」
「ほらそりゃ、あたしってアレじゃん? 猛毒じゃん? だからあちこちで順調に駆除されちゃってさ、大変なんだよねえ。のんびりできるのは、やっぱり人里離れたところだなあ。いっそ人前出てくのやめようかなー」
猛毒キノコの名前を挙げれば、筆頭格に名前があがるのがこのカエンタケである。ドクツルタケにドクササコ、えぐい毒を持つキノコは多々あれど、彼女が他と一線を画すのは「触っただけでも怪我をする」と言う特徴があるせいだろうか。ニュース等で取り上げられる際も、間違いなくそれが大きく示され、過剰なまでに警戒を促すのだ。
ゆえに人の生活圏近くで子実体が発見されると、大方取り除かれる運命をたどる。他の毒キノコに対しては大衆は無関心を貫いても、カエンタケに限っては鬼が出たかのように騒ぎ立てるのだ、不思議なことに。
「たいへんだなあ、カエン」
「ま、ね。でも、引っこ抜いたくらいであたしに勝ったと思ったら、大間違いなんだけどねっ!」
口角をつり上げながら、カエンは拳を握ってみせた。きらりとサングラスが赤く光る。全く持って元気そうだ。
そりゃそうか、と透陽は笑った。何と言っても、キノコの本体は地中の菌糸。そちらが残っていれば、まだ生きていると言えるから。
何気ないおしゃべりを繰り広げる内に、いつの間にか沢から離れていることに、透陽は気づいていない。カエンの隣を維持していたら、そうなっていたのだが。
「ファルは最近は?」
「あいつはレアキャラだもん。どうしても今すぐ会いたいってなら、海の向こうだね」
「そっかー……やっぱりなー……」
もう一人の親友、ファル。半年前にはカエンと睦まじい様子であったのだが、その光景を見られたことは、一生の運を使い果たしたかのようなものかもしれない。なんせ、日本では稀なキノコであるから。
少しキノコのことを深く知った今だからわかる、何気なくすませたあの出会いが、いかほどに貴重なものだったのか。
それでも、いつかまた。彼女の八重歯を出した人懐っこい笑顔が、心に浮かんだ。
カエンと話している間、透陽はよく笑い、戸惑い、拗ね、笑った。それを見て、カエンはいった。
「透陽さ、いい顔になったね。うーん、今なら惚れちゃいそう」
「ほんとに?」
「ホントホント! でも、それはなしだよねぇ……。待ってるんでしょ、彼女」
「ああ、そうだよ。俺は会いに行くんだ、ヴィロサに」
「一途ねえ」
ばんとカエンに背中を叩かれる透陽、思わず前につんのめった。
そして彼女は透陽を置き去りに、自分はとある木の下まで足早に駆けて行った。
待ってくれよ。そう言いかけたところで、沢から離れていたことにようやく気付いた。いや、それ以上のことにも。思わず足が止まる。
辺りにはナラ枯れを食い止めるため、ラップ巻きにされた木が点在し、あるいはペットボトルのようなもので薬が注入されているものもある。印象的な風景だ、間違いない、ここはカエンと初遭遇した場所だ。
霧が晴れるように、記憶が鮮明になっていく。カエンが寝ている隣で、知らずにカエンタケをいじくって、ひどく怒られたっけ。それで、手を洗いにさっきの沢へと行ったのだ。
目を見開いたままの透陽を見て意味深に笑うと、カエンはぐっと両腕を気持ちよさそうに伸ばし、大きなあくびを一つした。
「ちょっと疲れちゃったから寝るね。じゃあ、親友。また会いましょ。オヤスミー!」
それだけ言い残すと、カエンは地面にぱたんと寝そべって、すやすやと眠り始めた。過去と現在が、ピタリと一致した。
偶然だろうか。いや、とてもそうは思えない。きっとカエンは仕組んでいたのだ、そしてここに導いた。それどころか、さっきの白い娘との邂逅も、全て仕組まれていたのだろう。全ては、透陽を導くために。いつだって、透陽は菌糸と胞子の導きを受けて来たではないか。
ヴィロサが呼んでいる、ヴィロサが待っている、あの場所で。透陽は確信した。
ここまで来ればもう迷わない。半年前の記憶の物語を逆行する。
火群カエンとの遭遇地点から、向こうの方角に歩いていけば、巨大キノコアマニタ・グランディの生息地がある。
そして、それをさらに越えれば、ゴール地点であるスタート地点が待っているのだ。
一つだけ深呼吸して、透陽は邁進を始めた。
キノコ目録
シロテングタケ/アマニタ・シラフィー
白色のテングタケ属菌。全体的に粉状で、破れたつばは傘の縁から垂れ下がり、粉が雪のように地面に落ちることも多い。
傘の上には黄色い膜質のつぼの破片がはりつく。
毒成分が含まれているが、地方によっては毒抜きをして食用にすることもある。
カエンタケ/火群カエン
本来は比較的珍しい部類のキノコであったはずだが、近年は人間の生活圏でも発見が相次いでいる。ナラ枯れの影響とされている。
棒状で枝分かれし、赤色。ただし内部は白い。
摂取すると多彩で致命的な中毒症状を示す他、皮膚刺激性も強いため、汁に触れただけで炎症を起こすこともある。




