夏の入り口、楽園の月
七月も半ば、夏本番は目の前だ。長い夏季休暇をいかにエンジョイしようかと心を馳せる学生は少なくない。
が、浮かれてばかりも居られない理由がある。むしろ、多くは焦っていた。
そう、夏休みという楽園の前には、期末試験という名の深い谷が、大口を開けて待ち構えているのだ。それを無事に乗り越えられなければ、夏は来ない。何としてでもパスするべく、必死に夢うつつで聞いていた講義の内容を振り返るのだ。
そうにわかににぎわう学生ホールの丸テーブルに、奥羽透陽もノートや印刷物やらを拡げていた。
彼に対面するのは朝霧公景、通称花野郎だ。うなされる様な声と共に、黙々と自分の世界に励んでいた透陽を呼ぶ。
「おい、キノコ野郎。ノート写させてくれよ。統計と作物」
「ほい」
「センキュ」
透陽が渡した二冊が、あっけらかんと開かれる。花野郎自身の、白紙にミミズがのたうったようなノートに比べると、紙面が元々黒だったのではと錯覚させるほどにびっしりと書き込まれている。花野郎は唖然とした気持ちを隠そうともしない。
透陽の学習は詰め込み型。とにかく全部書いて覚える方なので、何が重要で何か不要なのかがわからないとの弊害もあったのだ。
ただし本人は気づいていない。少々困り顔の花野郎を、不思議そうに見た。
そんな二人のもとに、今度は別テーブルに居た同期生の女が声をかけて来た。
「ゴメン奥羽君。現代環境論のレポートって書けた? 課題二のあれ、何書けばいいのか全然わかんなくて……」
「あー、ごめん。あれもう提出してきちゃって。確か、四回目でちょろっと出てた発電の話から膨らませたと思う」
「あっ、それいいかも。ありがとう!」
「待て待て待て、お前もう書けたの!? 最終日締めだぞ、まだ一週間以上あるじゃねーか」
「一番に終わらせたよ、面倒だったから」
実際正解だったと透陽は思った。残しておいては、書く時間が無かったに違いない。
花野郎が口を尖らせて、椅子にふんぞり返った。
「なんだよ、お前余裕じゃん! ちくしょう、頭良いヤツはこれだから」
あーあ、と花野郎はわざとらしいため息を上げる。
そして、今度は身を乗り出した。
「こうなったら土日返上で猛勉強するっきゃねえな。もう何人か頭良さそうなヤツ声かけてよ。結城とかイッチーなら付き合ってくれるだろ、家近いし」
「あ、俺無理。キノコ見に行かなきゃ」
「は!? 何言ってんのお前。試験は!?」
「でも、紀伊先生に誘われてるんだ。ツキヨタケの夜光撮影」
「クソッ……こんのキノコ馬鹿めえ……」
試験そっちのけできらきらと目を輝かせている透陽に、花野郎は恨めしそうなオーラを突き刺したのだった。
ツキヨタケ、というキノコがある。色々な意味で有名だが、一番の特徴は暗所で蛍光を発することだろう。
そのツキヨタケ、もちろんと言うべきか、キノコの楽園こと大学の研究用林に生えているという。それも、ちょうど今頃が盛りなのだとか。
「試験期間中にこんなこと言うのもなんだけど、あれは一度くらい見ておくべきだとおもうよ。ちょうど今度の土曜日は新月だし、写真撮りに行くんだあ。まあ、試験期間中に誘うのも悪いなあとは思うけど、一緒に行かないかい?」
そんな風に誘われては、断るという選択肢がはなから存在しなかった。それに、教授の側も悪い悪いと言いながら、声には全く悪びれる様子がないのも付け加えよう。あれはまるで夏休みを目の前にした小学生のようであった。
そうして迎えた土曜日。夕方より教授と山に入る。暗くなる中での登山と聞いて最初は正気を疑ったが、教授権限で研究用車道を利用したものだから、いとも簡単にツキヨタケの発生地までたどり着けたものである。職権乱用だよね、と紀伊教授は苦笑していたが、しかし三脚とカメラを担ぎ、初心者連れで歩くには、骨が折れるどころの騒ぎではないから仕方あるまい。
山の中に車を停め、機材を降ろし林内に分け入る。楽園は今日も賑やかだ。あちらこちらから、紀伊教授の名を呼ぶ声がする。あいにく、透陽の見知った顔は居なかった。
そうして少し歩くと、一メートルほどの崖にせり出すように倒れた古木が見えた。教授がそれを指さす。
「あそこだ、あそこ。よしよし、ちょうどいい位置に生えているな」
「しかも大量ですね!」
「ツキヨタケは群生するからねえ。見ごたえあるよねえ」
暗い褐色で艶やかな傘が、苔のはびこる倒木から飛び出しているさまは、落ち始めた陽の中でも存在感があるものであった。
ただ、一点気になるのは。
「月夜ちゃんがいないな……絶対に待ち構えてると思ったんだけど」
きっとツキヨタケの精のことであろうと推測するのはたやすかった。
どんな娘なんですか。そう透陽が口を開けかけた矢先、教授は大きく息を吸い込んだ。
「おーい、月夜ちゃーん!」
まるで自分の子どもを探すかのような響きが、静かな山の中に染み渡る。
するとどうだ。ツキヨタケの倒木の上に、光線が像を結ぶようにして、黒い服の少女が現れたのだった。
片膝を立てて倒木に腰を下ろし、あらゆる物理法則に逆らうように広がった茶色い髪を気だるそうに手ですきながら、髪に隠れていない緑の右目で教授を射止めた。
「なんだ、こっちだったのね、先生。今年はあっちのブナだと思って待ってたのに」
「向こうは魅力的なんだけどねえ、車道から遠いし、前もゆき姉ぇにだいぶどやされたし。だいたい今日は一人じゃないもの、ほら!」
そう嬉しそうに言いながら、透陽の肩に両手を置いた。
すると、月夜の蛍色の瞳が、きらりと宝石のように光った。
「やっぱりその子が例の子なんだ」
「そう、奥羽透陽君だ」
「ふうん」
ふっと静かに微笑みながら、月夜は透陽の目を真っ直ぐに見つめる。薄暗くなってくる空間の中、髪に隠れた彼女の左目が、妖しく光を放っている気がした。
「噂はかねがね聞いていたわ。私が静峰月夜」
「はじめまして。奥羽透陽です」
「みんなあなたの話をするもの、会ってみたくてたまらなかったわ」
「俺もです。ツキヨタケって、有名ですから」
至って紳士的に応対しているものの、透陽のテンションは爆発寸前であった。人間界で言う国民的アイドルやオリンピック選手みたいな、キノコ界の超有名菌に出会ったのだ。図鑑で見て憧れて、その実物を見た時に興奮しない人間がいたら、それは人間ではないだろう。
一方の月夜も、有名だと言われてまんざらではなさそうだ。少しだけ高揚した口調で、首を傾けながら透陽に尋ねる。
「あらあら。有名って、どんな風に?」
「もちろん、光ること! それに――あー……」
「有名な毒キノコってところかしら。別にいいのよ、気にしてないし、食べる方が悪いんだから」
悪戯っぽい笑顔を浮かべながら、月夜は両膝を抱くように座りなおした。下に履いたカボチャパンツがスカートからちらりと見えているが、彼女はまったく気にしないようである。
そして、両目に静かな光を湛えたまま、月夜は続けた。
「でもまさか、他のキノコと似ていて有名とか、言わないわよねえ?」
「いえ、その。ツキヨタケは誤食事故件数が多いって、すごく有名な話です」
図鑑やインターネット、ツキヨタケのことを探れば、大体どこにでもそんな記載があるものだ。透陽はしみじみと思った。
だが、彼のその言葉に、空気に緊張が走った。紀伊教授はしまったと言わんばかりに口を開けているし、月夜は月夜で、笑みに冷たさが入り混じるような。
くつくつと笑いながら、月夜は透陽を見据える。気配が変わったことは悟って、初々しい青年はごくりとつばを飲み込んだ。背後で先達が頭を抱えているのには、全く気付いていない。
「ふうん、そうなんだ。へえ。……それって、私、誰に似てるって言われてるの?」
言葉に重圧が走る。試されているんだと、透陽は感じた。
深呼吸を置いて息を整えると、持ち前の記憶力を発揮して、図鑑という名の教科書で読んだ通りに答える。
「そりゃやっぱり、シイタケとか」
「は? あいつは全然黒くない、むしろ白いじゃない」
「え……白? どこが? 茶色いですよね?」
「ほれ」
そう言って月夜はスカートをめくる。真っ黒のパンツが露わになって、透陽は思わず目を逸らした。
シイタケ嬢のパンツが白いとか、知るわけないだろう。そう言いたいのを我慢しながら、月夜に煽られ次の名を挙げる。
「じゃあ、ヒラタケ」
「活動時期がだいぶ違う。次!」
「え、えと。ムキタケ? ですっけ、それ」
「あんなのとなぜ間違えるって!? 寝言は寝てから言うことね!」
ばっさりと切り伏せられて、透陽はすっかり委縮していた。しかも、手札はもう無い。一体彼女が望む回答は何だったのか、全くわからなかった。
小さくなって沈黙を貫く青年に、溜息一つ投げかけると、月夜は仏頂面で目を伏せている紀伊教授に矛先を向けた。
「ちょっと先生。どういうことなの?」
「まあ……彼はまだ駆け出しですし、香ちゃんにも、和歌恵さんにも、剥ちゃんにも会ったことないので、許してやってください」
「じゃあ、先生がちゃんと教育しておいてよね」
「あい、わかりました」
少女とも言える娘相手に、小さくなってかしこまっている人間の男が二人。その様子を見て、月夜は満足気に口角を上げたのだった。




