汝は真に死天使なりや?
足元の悪い中、前方に浮かぶ白い影に食らいつく様に透陽は進む。
先導するヴェルナが、はたと立ちどまった。五メートルほどの高さがある、急勾配の斜面状を見据えて透陽を促している。
「どこ?」
「この上。……あとは自分の目で確かめて」
「上、ねえ……」
斜度がきつい。立って歩くのは難しそうだ。地面を這うようになら何とか登れるだろうか。
迂回路があるのではとあたりを見渡すが、近場には無い。
そして、早く行けと言わんばかりのヴェルナの視線が突き刺さり、痛い。
ええい、ままよ。透陽は斜面に手をかけた。両の腕も使って体を支えながら、じわじわと斜面を登っていく。
これが最後の壁だ。この先には、天使が待っている。それが透陽の原動力であり、全てだ。
時折足を滑らせながらも、無事に頂上が見えた。
平らになる地平の先に、透陽の頭がひょこりと顔を出す。上から見れば、さながら崖っぷちにキノコが生えてきたような光景だろう。
だがあいにく人はいない。人間は居ないが、その存在は透陽のことを待っているかのように佇んでいた。
「うおおおおお!」
高い水準で推移していたテンションが、ついに計測限界を振り切った。
すでに山中を歩き回った疲労も一気に吹き飛び、軽くなった体は大きく跳ね上がる。斜面上に躍り出ると、透陽は目にも留まらぬ速さでそのもののところに駆け寄った。
ドクツルタケ、透陽の原点にして頂点のキノコ。その姿は一目見ただけで理解できる。傘、柄、つば、全てが白い。傘は中央が高く、縁は平ら。膜質のつばと、ささくれる柄。枯れ葉にうずもれて見えないが、根元には袋のようなつぼがあるはずだ。
薄暗い山の中で、白きその姿は一際目を吸い寄せる。かすかな光を反射して輝く様に存在しているから。
透陽は雄叫びを上げた。梅雨山行脚の全てはこの時のため、彼女との再会の時のため。
ああ、ヴィロサ。麗しき死の天使よ。透陽はその名を呼んだ。己の想いを吐き出すように。
その瞬間、大気中の光の粒子が凝集する。白い光源は透陽の眼の前で人の形を描いていった。
彼女はワンピースを纏う細身の天使。背中で小さな翼が控えめに存在を主張している。つばの大きな帽子を被り、ルビーのような両目で透陽をみつめていた。ああ、天使だ。
彼女は後ろ手に組んだまま、少し小首を傾げる。切りそろえられた紙が可愛らしく揺れた。
そして、彼女は口を開いた。
「お呼びですかー? お兄さん」
その瞬間、透陽は凍り付いた。
眼の前で、アマニタ・ヴィロサはニコニコと笑っている。まさか、俺のことを忘れてしまったのか。血の気が引いて、本物の天使に天国へと昇天させられてしまうような気すらした。
いや、違う。根本的に何かがおかしい。そう「違う」のだ。
テンションが落ち、平静さを取り戻した透陽は、目の前のヴィロサとドクツルタケをつぶさに観察する。
突然の凝視にヴィロサは驚きと怯えの色を見せたが、透陽はお構いなしだ。
違う。これは透陽が知っているドクツルタケではない。キノコのつば――ヴィロサの髪はよくよく見ればわずかに黄色がかっている。極淡いクリーム色と言った風だ。目が覚めるような純白でなければいけないはずなのに。
それに、あの特徴的なささくれが弱いし、そもそも全体的に小ぢんまりとしている。透陽の心に焼き付いたヴィロサに若干幼さをプラスしたら、目の前に立つヴィロサになる気がする。
そして、何よりオーラが違う。あのヴィロサには、人を畏れさせる神々しさにも等しい気配があった。が、目の前の彼女にはほとんどない。毒気の薄い、可愛らしい少女だ。話し言葉も含めて、全く違う。
偽物。その言葉が一番似合う。だが腑に落ちない。
「……ヴィロサ?」
「うん、そうですよ? どうかしましたか?」
ヴィロサは小首を傾げた。屈託のない笑みには、嘘は混じっていない。正真正銘、己がヴィロサであるという様子だ。赤い目は澄んでいて美しい。
「いや、でも、あれ……だって……」
「んー?」
全く持ってわからない。キノコ界にも同姓同名があるのだろうか。それならそれで良しとしても、姿までが似ている理由がわからない。
煮え詰まる脳の中、ようやく彼は悟っていた。 紀伊教授も、ヴェルナも、ヴィロサの話をした途端に言いよどんだのは、こういうことだったのだと。
「ちょっとタイム!」
「はい?」
びしりと手のひらを向けたまま、青年は二、三歩後ずさりする。そして、一気に振り返ると、半ば滑り落ちるように斜面を下り始めた。
わからなかったら人に聞けばいい。特にヴェルナは、絶対に事情を知っているのだから。
勾配の下、先ほどと同じようにヴェルナは佇んでいた。血相を変えて下ってきた透陽を見る彼女の目からは、一体何を考えているのか読み取りづらい。
だが、帽子に開いた大きな口がニヤニヤといやらしい笑みを浮かべているのを見るに、案の定、この展開を予想していたらしい。
ずい、とそのヴェルナに迫る。透陽はいつになく緊迫した面持ちであった。
「あれは、誰だ」
「ヴィロサ姉さん」
「嘘だっ! ヴィロサじゃないし、だいたい、ヴィロサが俺のことを忘れるはずないだろう!」
「……間違っちゃいねぇが、ひっでぇ自惚れヤローだな、おまえも」
呆れたような溜息が森に響いた。
結論としては、とヴェルナが言葉を連ねた。
「おまえら人間のものさしでいうなら、あれもヴィロサに違いないね」
「でも違う。絶対違う。そりゃ、最初はどうみてもドクツルタケだって思ったけど……」
「ほれみろ。それと同じだ。今まで多くの人間が、あれをドクツルタケって言って来た」
「わけがわからん! ……でもヴィロサじゃない。ドクツルタケじゃない。あれは、何なんだ?」
「……未確定な存在」
「は?」
「感覚的な話だけど――」
いうなれば、アマニタ・ヴィロサにほど近い「何か」。「ヴィロサ」という存在から別れ出た、近くて異なる存在だ。
なおかつ、それを別種と取るか同一ととるかは、見た者の認識によるところが多いと言う。
キノコは現実に生きる生物だが、その精神たるキノコの娘たちは、別の次元にたゆたっている。その娘たちを現実世界に実体として引き上げるの原動力は、それを見る人間だ。見られ、知られ、認められることで、彼女たちは一個人を形成するとヴェルナは語る。
「要は、新種になるってこと?」
「人間的な物言いをすれば」
そして件のヴィロサは。ヴェルナに言わせれば、自己が認識される一歩手前で、自意識の形成途中のあいまいな存在なのだという。
アマニタ・ヴィロサ、ドクツルタケの本種とは明らかに別のものだ。だが、人間世界で長らく同じドクツルタケだと認識されてきた結果、彼女の心はヴィロサにほど近くなった。そして、その象徴たる姿も本物のヴィロサに似た出で立ちをするようになった。
「ああ……だからヴィロサとヴェルナはキノコだと似てるのに、全然違う格好してるんだ」
「そういうことだ。ヴェルナはもうずっとヴェルナだからな。ヴィロサとは違うんだ」
「何か、ちょっとあの子が可哀想になってきたよ。『自分』が無いなんて」
「……もう少し」
「だいぶあれでもマシになってきたぜ。まあ、あれだ。こっちの世界での認識が変わったら、あいつも自分の名前を名乗るようになるんじゃねーの? ある日突然別人になったりしてな」
「びっくりするじゃん、それ」
「……よくあること」
ヴェルナはおどけるように肩をすくめた。長年一種だとされてきたキノコが複数の種類に分かれたり、名前が変わったりするなんて、わりとよくあることだ。透陽は理解しがたいと言う顔をしているが。
なお、後日紀伊教授に話を聞き、動揺に「そんなことよくあるよくある」と返されることで、一応の納得を見せることになるのだが。
ひとまず今は。
「ヴィロサ、って呼ぶしかないのか。あいつのこと」
「だってヴィロサ姉さんだもの。まだ」
「そっかあ……」
まるでお預けを喰らったイヌだ。すっかり透陽は意気消沈していた。どうやら、彼の天使との再会はまだ先らしい。
肩を落としながらも、目線は上に向く。まあ、よい。複雑なキノコ事情も垣間見れたし、一応ヴィロサらしきものには会えたし、無駄足ではなかった。
「……見てるじゃん」
「あ、ほんとだ」
ヴィロサの頭が斜面の上から覗いていた。少し機嫌が悪そうな面持ちだ。真紅の目が静かに光を湛えている。
そして視認された瞬間に、鈴のような声が降って来た。
「お兄さん。わたしまだタイムしてなきゃダメ? つまらないんだけど」
「あ、ああ! ううん、もういいよ」
「じゃあ、そっち行くわ!」
そしてそのまま帽子を片手で抑え、スカートをたくし上げ、小走りに急勾配を駆け下りて来る。さすが自然の子だ、その足取りに透陽は感心していた。
同じ地面の上に立ったヴィロサは、ひとまずヴェルナに愛嬌のある笑顔を向けた。
「ハロー、ヴェルナ。相変わらず変な帽子よね」
「……姉さん。相変わらずひどい言い方だね」
「だって本当じゃない。気持ち悪いし、うるさいし、何だか煙っぽいし」
「煙っぽいって……キノコだからしょうがねーだろうが。そりゃ胞子も撒くぜ」
「わたしだって撒くよ。でも、そんな風に下品じゃない」
ヴェルナの両の口が黙った。彼女も大概口が悪いが、無自覚にひどいことをまくしたてている姉には敵わないらしい。
「えー、なんで二人とも黙るんですか。わたし、何かしましたか?」
「……いや」
「別に」
「ああ、よかった」
笑顔がまぶしい。穢れない光だ。
「それで、お兄さんは何をしているの?」
「俺は……ちょっとキノコを探しに」
「わあ! 素敵! それでヴェルナが一緒なんだ!」
ヴェルナが透陽の脇腹を小突く。ちらりと横目で見れば、彼女の目が何か言いたげに光って、己を睨んでいた。
さしずめ「なんでヴィロサに会いに来たと言わないんだ」というところだろう。
言えるか、と透陽も目で訴えかける。会いたかったのは彼女ではないのだ。それなのに不用意な発言をすれば「おまえはヴィロサじゃない」と宣言することにもなりかねない。
認識によって確立する精神が、その存在を否定されたとき、果たしてどうなってしまうのか。人たる身には理解しえなくとも、何か悲劇的なことが起こる気がする。
ヴェルナと透陽が無言の攻防を繰り広げる間、ヴィロサは口元に手を当てて考えていた。
そして、考えがまとまったのか、ぽんと手を打った。
「決めた! わたしも一緒に行く!」
そよ風とともに高らかに宣言した。
木の葉のざわめきを背後に、ヴィロサは透陽の腕をつかんだ。
キノコ目録
ドクツルタケ(広義・近縁種)/アマニタ・ヴィロサ(?)
いわゆるドクツルタケには複数の種が混同されているとされている。
薬品で変色するとかしないとか、においがあるとか、色づいているとか、ささくれが弱いとか――
本物のドクツルタケとはいえ猛毒種であることはほぼ間違いない。命が惜しけりゃ食べるべからず。観賞のみにとどめよう




