雨に響くは菌類の足音
その土曜日、透陽は宣言通り研究林に居た。リュックサックに山靴を履いて、長袖長ズボンで装備はばっちりだ。
とは言え初めて入る山。今日は下見がてら、最も歩きやすく整えられた林道沿いを進み、あまり上までは登らない。登頂しようと思えば、もっとしっかりした下準備が必要である。
木立が日差しを遮り快適だ。そよぐ風、鳥の声、虫の羽音。今、自分は大自然の一部になっている。そんな心地に支配され、脚に活気が宿る。
「あ、なんか硬いの」
右手の斜面の下、立ち枯れた木に、半円形のキノコが重なり合うように出ていた。表面に環状の模様があり、うっすら緑がかっている。
いや、違う。よく目を凝らせば、緑色の原因は苔や藻の類だと見て取れた。すると、地色は白だろう。硬いタイプのキノコもいくつか見て来たが、これは初めてだと確認した。
ゆるやかな斜面に足を踏み出す。不安定な足場でも歩きやすいのは、山靴さまさまだ。
木につかまりながら、対象を近くでまじまじと見る。藻がはびこっているあたりから察しはついていたが、古い個体らしい。元々硬そうだが、それ以上に乾いている印象もうける。こうなっていては、生きているのか死んでいるのかもよくわからない。
そして裏側を覗いた時、透陽はおっと声を上げた。傘の裏はヒダだった。普通のキノコなら普通のことだが、固いキノコでは逆に珍しい。大抵、細かい穴が空いているのだから。
「何だこれ……あー、わかんない」
特徴的は特徴的だが、それ以上に自分の知識が足りていない。図鑑を頼もうにも、こうした硬質の類のキノコは、今持ち歩いている図鑑にはほとんど載っていない。
家に帰ってから調べよう。ポケット図鑑も別のが欲しいな。そう思いながら斜面を登りかけた時だった。背後から幼い娘の笑い声が響く。
「やーい、物知らずぅ!」
「うるさいなあ!」
「きゃー、怒ったわ!」
いつの間にかそこに居た幼子は、しかし笑いながら消えてしまった。そして、彼女が立っていた跡地には、濃い茶色の地味なキノコがぱらぱらと生えていた。
透陽は頭を掻いた。ああいうのは、特徴が無さ過ぎて調べようも無い。お手上げだ。
そうなのだ。確かに教授の言っていた通り、何かしらのキノコはちらほらと居る。問題は、特徴に乏しかったり、何だかよくわからなかったり、いまいち「これだ!」と喜べるようなものに出会えない事だろうか。
そして、会う娘たちにも、
「お兄さんお兄さん、踏まないでね」
と、裾を引っ張られて懇願されたり、
「……何。用がないならあっちいって」
と、そっけなくあしらわれたり。
意外と賑やかは賑やかだ。ただ、皆、現れてはすぐに消えてしまう。無意識ながら関心が持てないでいることを察されているのだろうか。
透陽は溜息をついた。いまいちテンションが上がらない。
だが、それだけではない。辺りが薄暗くなってきたのだ。思わず天を仰ぐ。
「曇って来た……」
青空はいつの間にか隠れてしまい、代わりに厚く暗い雲が頭上に拡がる。
今日の天気は晴れのち曇りであったはず。しかし、降水確率までは確認してこなかった。折り畳みの傘はリュックに頬り込んできたが、傘を差しながら雨に濡れた山道を歩く辛さは想像に難くない。
「帰ろう。振り始めたらヤバい」
山歩きの初心者とは言え、それくらいの事は分かる。
足を止めて回れ右。そして、来た道を戻ろうと足を出した時だった。
「まだ降らないよ」
低いトーンの声がどこからともなく響いた。こんな時にキノコ娘のご登場らしい。きょろきょろとあたりを見渡す。
すると、左手方向の崖面が露出した地層のたもとに、一人の娘が体育座りをしていた。
見るやいなや、透陽の脳内に浮かんだのはタマネギであった。言うなれば、巨大なタマネギが地面に鎮座しているように見える。下半身は褐色の巨大な球で、そこに縦の割れ目があるし、その向こうからは同色の頭が覗いている。
ところが辛うじて頭とわかるだけで、不釣合いに大きな球に隠れて顔の下半分は見えない。また、前髪も目を覆うほどに長いのだから、全く表情がうかがえない。
不気味だ、妙な奴だ。透陽が凝視していると、その娘が肩を揺らして、もそもそと喋った。
「久しぶりだね、お兄さん」
相変わらず低空飛行なのは変わらないが、少し嬉しそうだ。
ただ問題は、透陽の側に身に覚えがないことだ。
「……どこかでお会いしましたっけ」
こんなタマネギじみたキノコ、さすがに記憶から抜け落ちることはない。強いて言うなら、ホコリタケの挨原茶孤に一番近いものを感じる。膨らんだスカートだけの話だが。
ところが、目の前の彼女は、おかしいなと小首をかしげている。どうやら、彼女は透陽のことをはっきりと認知しているらしい。
「私のこと覚えてない? 雨だよ」
「ウルル……? ごめん、やっぱり聞き覚えがないような」
「ほら、お兄さん、雨の中で道路に倒れてたことあったでしょ」
「雨の中倒れて……!? ああっ!」
記憶回路に電撃が走った。あれは忘れようがない事件だ。
去る秋の日のこと。キノコ娘たちとの楽しい逃避行の末、警戒心を忘れた愚かな青年は、毒キノコに騙されるという災難に見舞われた。
毒にあたってのたうち回る中、雨まで降り出し、もうだめだと死を覚悟したものだ。己の無知と軽薄さが原因の一つとはいえ、思い出しても身震いする。
そして意識を朦朧とさせる中、己に語り掛けて来たキノコが確かにいた。助けてくれようとした娘が一人だけいた。それははっきりと覚えている。そしてあのことを知っているキノコは、当然彼女だけのはずだ。だから間違いないはずなのだが。
記憶をもとに像が結ばれる。空のような青い目と硝子の不思議な飾りのペンダント。明るい声で、心優しい女の子。外側に拡がる跳ねた髪、もこもこで球形のスカート。
「え、でも、なんか随分雰囲気違うんじゃない!?」
「晴れてるとテンション上がらないの」
「へ、へえ……」
キノコに雨は欠かせないのは承知しているが、そこまでとは。見かけも雰囲気も、まるで別人だ。
「雨が降るのが分かるのかい?」
「うん。じめじめしてくるから。テンションも上がって来るよ」
そして、雨は首から下げている、あの硝子のペンダントをかかげて見せてくれた。雫型の球の株から、細い管が伸びている。どこか、ティーポットを彷彿とされる形状だ。中には水色の液体が入っていて、それが管の途中まで上がっていた。
どこかで見たことがある気がする。ティーポットではなくて……そうだ、学校の理科室だ。
透陽のその勘は正解だったらしい。雨は、これは晴雨計だと嬉しそうに教えてくれた。なんでも、管に上がる水の様子で、雨の予測ができるのだとか。
さらに、彼女の両手首には、それぞれ金と銀の計測機器が、紐でくくられていた。目盛りと針、それで何を計っているのか詳細は知らないが、これも気象観測のツールだろうと予測はついた。
「凝ってるね」
「だって、私には雨って大事だもの。ううん、私だけじゃなくて、みんなだね」
雨は微笑んだ。雨が無ければ、湿り気が無ければ、キノコは生育できない。そして、このツチグリの少女には殊更に雨は重要なのだ。
詳しい人間ならべらべらと高説を垂れるだろう。ツチグリは雨によって外皮を開閉し、その圧で胞子をまき散らすのだと。
透陽にはまだそれを成すほどの知識は無い。だが、彼には誰とも違う武器がある。心でキノコと共感し、理解すると言う、誰にも真似できない親しみ方が。
「もうしばらくすると、雨がたくさんふる季節になるよ」
雨が心底嬉しそうに言う。
そして透陽も、彼女に負けじと目を輝かせて叫んだ。
「そうだよ! 楽しみで仕方ないんだ」
「私も、みんなもだよ。楽しみだね!」
奥羽透陽は駆け足で山を下る。雨と話していたら、ますます雲行きが怪しくなっていた。雨からも、そろそろ降り始めた方がいいかもしれないと、忠告があった。その信頼度は篤い。
もう少しで出口だ。ちょうどその時、額や頬を打つ雫が降ってきた。
ほどなくして、静かな森はノイズのような雨音に包まれた。透陽は慌てて傘を取り出す。大地が湿る分には喜ばしいが、自分が濡れ鼠になるのは勘弁願いたい。
透陽は林道の奥を顧みた。通ってきた道は、雨のカーテンに包まれている。
「雨だよ! 雨! やったあ、雨が降って来たよ!」
霞む背景の奥から、そんなご機嫌な声と足音が聞こえる気がした。一人だけではなく、たくさんのキノコたちの。
叶うのならばそこに混じりたい。だが、あいにく自分は人間だ。人の身に雨の山は危険が多すぎる。後ろ髪をひかれながら、透陽は帰路を辿った。
もうすぐ雨の季節がくる。太陽が恋しくなる時期は、もう目の前に迫っている。ああ、待ちきれない。梅雨をこんなに待ち遠しく思ったのは初めてだ。
まだ見ぬキノコに思いを馳せる。一体どれだけの出会いが待っているだろうか。一体どんな出会いが待っているだろうか。
最後に透陽は、もう一度深い森をふり仰ぐ。紀伊教授や榎ゆきに導かれるように訪れた研究林。この場所は、きっと、キノコの楽園だ。その予感に、透陽は身震いした。
キノコ目録
カイガラタケ/キノコの娘未発見
木材を分解する腐朽菌。ヒダナシタケ類の一種……なのだが本種にはひだがある。
見た目は半円~扇形で柄は無い。白色の傘に褐色のはっきりとした環紋が現れる。
革質で肉は薄め。
ツチグリ/土栗 雨
ホコリタケと同じ腹菌類とくくられることもある。
幼菌は褐色で球形。地下にあることもあり、とにかく目立たない。
成熟すると、湿度に応じて外皮を開閉するというユニークな性質を持つようになる。
開くと殻が星形に裂け、裏面には美しい模様が現れる。
また、中央には胞子の詰まった丸い袋が鎮座する。乾燥して閉じた外皮は、この球を圧迫する。頭頂部には穴が空いているため、そこから胞子を飛ばす。
※今回で第二章終了です




