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茸なき五月の気の病

 ゴールデンウィークも明けて一週間、二週間。四月に比べ、心なしかキャンパスの人口が減っていた。いわゆる五月病というやつだ。

 新生活にも慣れが出て、先日までのエネルギッシュな空気はどこへやら、学生たちは日々をゆるゆると過ごしていた。


 透陽も例外ではなかった。いまいち調子が上がらず、だらだらと毎日のカリキュラムをこなすだけ。

 最も、彼の場合は五月病とはいささか趣が異なるのだが。

 キノコ野郎の嘆きが、紀伊教授の部屋に響いた。


「キノコが……ないんです」


 少し意識すれば、誰かしら目に入っていた今まで。ところが、ゴールデンウィークが明けてから、菌類たちも五月病なのか、ぱったりと姿を見かけない。

 その心の隙の大きさたるや。この部屋で栽培されている榎ゆきにですら、完成を上げて抱き付きたくなるほどだ。


 透陽の悩みを聞いて、紀伊教授は苦笑した。


「まあ、時期が時期だからねえ。六月になれば一気に出て来るよ。うるさいくらいにね」

「じゃあ、五月の間は全然だめなんですね……」

「いや、あることにはあるよ。ただ、ピンポイントで発生地を狙っていかないとなかなか難しいというだけだよ。最近、ずっと晴れてるしねえ」


 教授は窓の外を見遣った。今日も今日とて快晴だ。一歩外に出れば汗ばむほどに。

 人間としては天気が良い方が嬉しいが、キノコにとっては厳しい局面でもある。水分はあらゆる生き物に必要だが、菌類は特に顕著だ。干からびてミイラになったキノコは、透陽自身、何度も見て来た。


 いっそ青空が憎い。そんな思いすら抱き始めた時、不意にゆきに肩を抱かれた。

 顔の横でにやつきながら、自称・助教授らしく、学生に一つ教唆する。


「水生の仲間はどうだね、奥羽クン。雨があろうがなかろうが、あまり関係ない子たちだ」

「えっ。キノコが水の中に生えるんですか?」

「うむ。静かな流れに浸った腐植を好む、そんな仲間がいるのだよ。すごいでしょ?」

「それ……どこで見られます? 川ですか、やっぱり」

「はっはっは……。紀伊教授、助けてー」


 ゆきのおどけた笑いに呼応して、教授が透陽に向き直った。


「まあ、湿地だっていえばイメージしやすいかな。川や沢なんかより、もっと水の流れが穏やかで、ほとんど流れないくらいの。それでもって、腐植が堆積してないといけないし」

「なんか……難しいですね」

「でも見事だよ。大群生するしね。えーと、そうだなあ……この図鑑の写真がいいや」


 そう言って、教授は書棚から、背表紙の擦り切れた本を一冊取り出した。言わずもがな、キノコの図鑑だ。

 しわの寄ったページをばらばらとめくり、ある面を開いて透陽に突き出す。

 その示された写真を見て、透陽は思わず感嘆の声を漏らした。

 ごく浅いせせらぎの水面から、つくしのような子実体が数多に顔を覗かせている風景。頭は黄色で、柄は透明感のある白色だ。きらめく水面と共に輝いているようにすら見える。

 隣に添えられた文章に目を移した。カンムリタケ、というらしい。初耳だった。


 目を輝かせる透陽の向かいで、教授はしみじみと思い出すように語る。


「ほんとうに見事だよ。カンムリタケの群生は。足場の悪さに耐えて接近するだけの価値がある。それに、パルドーサちゃんも美しいし。ああ、あの娘《こ》こそ、まさに人魚姫だ!」


 一体どんな絶世の美女なのか知らないが、教授は奇跡でも見たかのような、惚けた顔をしている。

 透陽はぐっと唇を噛みしめた。羨ましくない、羨ましくなんかないぞ。そう自分に言い聞かせる。でなくば、嫉妬で爆発しそうだった。透陽とて男だ、美人と聞いて惹かれぬことはない。


「い、いいもん……。俺にはヴィロサがいるし……。夏にならないと会えないけど……美人だし。時々ちょっと怖いけど……」

「おーい、奥羽クン。心の声がだだ漏れだぞー」


 妄想の世界に浸る男たちに、ゆきが不満そうな目を向ける。


「っていうか、あれだ。目の前にもこんなに美人がいるのに、なんだキミたちは」


 腕を組んで胸を張る。確かに、白肌のゆきも美しい。華奢な体は乱暴にすれば折れてしまいそうな儚さすらある。だが、小部屋の男たちは困ったように顔を見合わせた。


「ゆきさんはちょっとその……人間臭すぎるっていうか、俗っぽいって言うか……」

「そうそう。なんか、高嶺の花って感じじゃないんだよねぇ」

「なっ。ひ、ひどい! 最後に選ぶのは、テレビの中のすっごい美人のアイドルじゃなくて、隣の家の平凡な幼馴染なんだぞ! 普通は!」


 どこで仕入れた知識か知らないが、そういう発想になるあたり、人間じみている。透陽も教授も同じことを思ったが、あえて何も言わなかった。

 

 だが、そうなった理由がわからないでもない。人の手で栽培されるということは、人間と一緒に暮らすと言うことだ。人の社会で人の姿を見ている内に、考え方が似てきても不思議ではないだろう。

 特にこのゆきの場合は、紀伊教授と共に暮らして云十年。家族のようなものだから、影響は大きかったに違いない。


 ふと、透陽は思った。


「……紀伊先生は、キノコが好きなんですか? それとも、ゆきさんみたいな、キノコの女の子たちが好きなんですか?」

「愚問だぞ、奥羽クン。わたしがキノコなのだ。その両者に、違いはない!」

「俺、教授に聞いてるんですけど」


 妙にテンションの高いゆきの絡みをかわしながら、教授に眼差しを向ける。

 すると、紀伊教授は、困ったように微笑んでいた。


「奥羽君、ゆき姉ぇが言う通りだ。まるで、鶏が先か卵が先かと同じ質問だよ。……強いて言うなら『両方』だね」


 そして、君はどうなんだと、逆にたずねられた。


 透陽は己を振り返る。

 去りゆく秋深き日に奇跡が起こり、アマニタ・ヴィロサに出会わなければ、奥羽透陽と言う人間は、キノコになど関心を持つことなく一生を終えただろう。今の彼の根底にあるのは、キノコの娘たちとのふれあいだ。種族を越えて友情をはぐくみ、言葉を交わし、同じ経験をする。それが、己がキノコを探す原動力だ。


 ではキノコそのものはどうでもよいものなのか? いや、違う。キノコそのものを見ても、透陽は感動をおぼえる。ドクツルタケの美しさに虜になったし、キツネノワンやキツネノヤリタケのような小さな生命力に感心しもする。そう、さっきだって、図鑑でカンムリタケの写真を見て、あれほど会いに行きたいと思ったじゃないか。

 きっかけは人と違ったかもしれない。だが、今の透陽はすっかりキノコという存在自体を愛していた。


「……ほんとだ。愚問でしたね」

「そうよ。こっちだって、わたしのことは好きで、エノキタケ嫌いとか言われたら、どうすればいいのかわかんないし」

「まあ、愛の形は人それぞれだよ。だがその奥にある『キノコが好き』だということに違いはない」


 学問として究める者、食材として愛する者。被写体として撮影する者、観察に重きを置く者、出会いそのものに喜びを感じる者。そして、透陽や教授のように、その心に触れることを楽しむ者。フィールドにキノコの姿を求める人間たちには、あらゆる動機がある。だが、結局は好きだから行動するのだ。そこに貴賤はない。

 透陽はまた一つ、キノコ愛者の先人から、大切なことを学んだのであった。

 




「時に奥羽君。研究林には行ったのかな?」


 研究林。この大学が持っている一山のことだ。なお、その裾野にあるのが附属農場である。

 農場付近を覗き、天然の林床がそのまま残されている山だ。最高点の標高は九百メートルを超え、その付近にはブナやミズナラの森があるなど、植生は非常に豊かだ。よって数多の野生動物や、希少な植物を観察できる。そして、農林学部の研究の場としても重要だ。特に、紀伊教授の森林利用学は、あのような森が無ければ話が始まらない。


 そして、豊かな天然の森には、数多のキノコがあるのも自明だ。むしろ、それが目当てで透陽はこの大学に来たようなものである。

 ところが、まだ農場以外に足を踏み入れたことがなかった。先日のクワの木を求めて雑木林に入ったのが唯一である。

 どうせ今の時季に行っても何もないだろう。そう鷹をくくっていたのだ。だから、素直に言う。

 

「梅雨になったらいこうかなって思ってました」

「ばーか」


 ゆきが透陽の額を指でついた。小ばかにするように目を細め、身を乗り出す。


「奥羽クンねえ、森に行っても無いのに、なーんにも見つからないなんて言うんじゃないよ」

「でも雨も降ってないし、図鑑でも夏から秋の方が多いってなってるじゃないですか! どうせ行くなら、賑やかなときがいいし……」

「もう、図鑑の季節なんて目安よ? ちょっとでも気持ち良ければみんな出てきちゃうからね」


 狂い咲き、という言葉が花にはあるが、キノコでも似た様なことが起こる。少しでも環境が適したと見るやいなや、即座に己の陣地を広げようとするのが、生存競争に明け暮れる生き物の性《さが》らしい。


 むうとうなって、透陽は助けを求めるように教授を見た。

 ところが、頼みの先生も、苦笑いをしているばかり。


「……奥羽君。もし何でもいいから見たいと言うなら、まずは足繁くフィールドに通うことから始めよう。せっかく恵まれた場所が身近にあるのに、もったいない」

「そう、ですか」

「そうだよ。生き物を相手にするには根気も必要さ。一度行って何も無かった。だからおしまい。そんなのじゃあ、とても話にならないよ。一度で駄目なら二度三度。生き物って、常に変化するのだから。だから、焦らずに今を楽しむような感覚を大事にしなさい」

「……わかりました」


 なるほど、自分は焦っていたのか、と見つめなおす。確かに、彼女たちと交流することが楽しくて、それが全てになっていた節はある。未知との遭遇が楽しくて、どんどん刺激を求めていたともいえる。


 突如、ゆきが透陽の肩を背後からぐっと握った。痛いくらいの刺激で、透陽は跳ね上がる。

 恨めしそうに振り返ると、ゆきは優しい微笑みを浮かべていた。

 もっと肩の力を抜いていきなさい。そう言われている気がして、透陽はむず痒さを覚えた。

 


 よし、今度の休みに行ってみよう。それで何も無かったら、たまたま日が悪かった。それだけだ。

 何かあるかもしれないし、ないかもしれない。重すぎない期待感で、透陽の心は今日の空のように晴れ渡っていた。


キノコ目録

カンムリタケ/カムリヤ・パルドーサ

主に春に発生する子嚢菌の一種。湿地や水たまりなど、流れが極めて穏やかな水中に生息。

水没した腐朽材から、頭を水面の上に伸ばすように生える。

細く透明感のある白い柄の先に、黄金色の頭部がつく。その形が冠のように見えるのが、名前の由来。


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