赤星イブキの奇天烈菌生
自らをイブキちゃんと称する、赤星病の娘は、人目もはばからずナシの葉を荒らし続けている。人目、と言っても、見えているのは透陽だけなのだが。
青々と茂る葉をもぎりとっては、口に入れ。その度、まだ細い枝が恐れおののく様に揺れるのだった。
だが、突然、イブキは鼻につく溜息を吐きだした。
「あー、ナシ食べたい、ナシ」
「いま食べてるじゃないですか!」
「実の方に決まってるでしょ!? あんぽんたん!」
そう言って、彼女は逆立ちのまま、大きな蹴りを繰り出した。足が掠めた木の葉が、無残に舞い落ちる。
透陽は激しく後悔していた。自分がここに来てしまったせいで、ナシの被害が深刻化しているではないか。非常にまずい。
焼け石に水にしかならなくとも、なだめるような言葉をかけてみた。
「でも、あなたが葉っぱ食べちゃったら、ナシが実らないんですけど」
ぎろりとイブキがオレンジ色の目で睨みつける。
「知らんがな。イブキちゃんはお腹が空いてるの!」
ふんとそっぽを向いて、またナシの葉をむしり取る。その顔をアリが這っているが、全くお構いなしだ。
だめだ、会話にならない。これ以上何かしようとしても、状況が悪化するだけだ。
そう思った透陽が選んだのは、戦略的撤退。ところが。
「ちょっと待ちなよ。どこいくの。イブキちゃんが怖いからって逃げるの?」
「いや……ちょっと用事を……」
「いいの? いいの? イブキちゃん、全部食べちゃうよ?」
後ずさりした透陽に、ちらちらと視線を送るイブキ。愉悦にも取れる邪悪な笑みで、彼女の顔は歪む。
ああ、もう、どうしろというんだ! 透陽が頭を抱えた時、遠くから声が聞こえた。
「どうかしましたかー?」
男の声と足音に、大きく肩を震わせる。その出所は、坂の上。見ると、男女二人組が、大きなプラスチックのケースを抱えて、坂を下ってきているところだった。
慌てふためく透陽と、興味深げに来訪者に視線をやるイブキ。彼女は逆立ちのまま器用に木を下りて、透陽の隣に鎮座した。
「なにあれ。あんたの知り合い?」
そんな声を透陽は無視した。ここで返事をしたら、完全に狂人とみなされるだろう。そもそも、一人でナシの木とにらめっこしていただけでも不審だろうに。
道を下って来た二人は、透陽の前に立った。
「なんかありました?」
「その……講義で聞いて、赤星病を見に来たんですが……」
「あー、一年の子か! すごいでしょ、これ」
二人が苦笑する。聞くところによれば、果樹の研究室に所属する院生の男と、植物の病理の研究室に所属する女のコンビ、透陽にしてみれば先輩だ。そして、ちょうど赤星病の調査をしにきたところだという。
作業を見に行ってもいいと言われ、お言葉に甘えた。とりあえず、透陽は邪魔にならないよう、鉢の前から避け、反対側のフェンスによる。
人の手が入っては居心地が悪いのか、イブキもついてきた。フェンスの上によじ登り、足をかけてぶら下がる。どうしても逆さまになりたいらしい。
「ねえねえ、あいつら、イブキちゃんのナシに何する気!? 教えてよ!」
耳元でイブキが喚く。耳を塞ぎたい気分だが、透陽は仏になったつもりで、無関心を貫いた。
そして、研究調査をしている先輩方の背中を凝視していた。終始、イブキが息を吹きかけてきたり、肩や頭を小突いて来たりするが、全て知らんぷり。まるで一人我慢大会の様相だった。
無心を貫く透陽の耳に、先輩たちのぼやきが聞こえて来る。
「それにしても、今年はひどいなぁ」
「そうなんですかあ」
「発生が早いしね。例年は胞子飛ばすのゴールデンウィークより後なんだけどなあ。暑いからかなあ」
「あー。もう夏みたいな日ありますもんね」
「温かくなるのも早かったし。……あ、サンプルはその下のやつのほうがいいと思うよ」
「はーい」
そして、ちょきん、と金属の音が響いた。女学生の方が、切り取ったナシの葉を見てしかめっ面を見せる。そのまま戦利品はさっさとシャーレにしまったようだ。
先にざっくりとは教えてくれていた。発病した葉数を数えて、なおかつ、サンプルとして発病葉を採取していくのだと。ついでに農薬散布のおまけつきで。
女性が葉を切り、男性が薬を噴霧する。病害防除の研究の一環を、透陽は関心して見守っていた。
そして、何が起こっているのか。イブキもついに悟ったらしい。透陽の顔の隣で、イブキが髪を逆立て、体を震わせている。
「ひどい……イブキちゃんのごはんとおうちがっ……! 人間のクソ野郎!」
行き場をなくした怒りがぶつけられたのは、たまたま隣にあった透陽の頭であった。ガラスを割るほどの勢いで、思い切りはたかれた。痛い、と口に出かけたのを、喉の奥で止める。何の戦いだ、これは。彼は顔には出さずとも、げんなりしていた。
さて、依代になる菌糸体が次々除去されていく中、イブキが実体を保つにも影響が出て来たらしい。怒りの中に、焦りと苛立ちが混じりだす。
「あー、もう! 足りない、足りない! チクショウ、こうなったら全世界のナシをイブキちゃんのものにしてやるっ!」
高らかな声で宣言した。悲しいかな、透陽の耳にしか聞こえていないが。
そしてそのまま、彼女はフェンスをよじ登り、その上に立った。逆立ちではなく、両の足でだ。無視を決め込んでいた透陽も、これには驚いて目を見張る。
そして、イブキは指を突き出し叫んだ。
「人間ども! 今に見てろよ! イブキちゃんの前にひざまづかせてやるから!」
声を上げると共に、彼女は腕にかけていた緑色のコートをきっちり羽織った
そして、風が吹く。その途端、イブキは気流に乗って宙に舞った。
やたらぼさぼさした生地のコートを、グライダーのように拡げ、イブキは遠くへと飛んでいった。緑色の飛行物体からは、高笑いが降り注いでいたが、それも聞こえなくなった。
何でもありだな、全く。透陽は呆れつつ、しかし、嵐のような娘から解放された安堵感に浸っていた。
どっと疲れた心を癒すべく訪れたのは、紀伊教授のもとだった。
教授室で一人パソコンに向かっていた教授は、透陽のクレームにも近い、イブキとの邂逅の物語を聞くと、どっと笑った。
「あー。やられたんだ?」
「はい、もう。……なんですか、アレ」
「ナシ赤星病。非常に厄介な病気だよ。ほんとに厄介」
「ええ、もう、それはよくわかりました。……飛んでったってことは、またどこかで迷惑かけるんですね」
「んー、まあね。でも、直接ナシに行くわけじゃないからね」
ナシ赤星病。という名だが、実はナシだけで生活を完結させているのではない。ナシを冒して成熟した胞子は、風に乗り散布される。それは先ほど透陽が見た通りだ。
だが、飛散した胞子が付着するのは、ナシではなく別の植物なのだ。その新たな寄生先が、先日透陽が東門で眺めて歩いた、カイヅカイブキ。およびその仲間のビャクシンの類だ。
ナシでは不気味な病斑を作り、猛威を振るった赤星病の菌。それがビャクシンに宿ると一転、ビャクシンさび病菌と呼ばれるようになる。そして、枝葉の間に褐色の器官を形成するだけで、大した病害も引き起こさない、地味で大人しい菌に変貌するのだ。
そして、春の頭ごろ。ビャクシンさび病菌が胞子を飛ばすと、再びナシに寄生する。それが、赤星病の奇天烈な生活環だ。
「――って病理学で聞かなかった?」
「そう言えば聞いたような……」
確かに今日の講義で説明された気がする。が、言わずもがな、透陽の心はイブキの胞子のように遠いところを舞っていた。ノートはとれど、頭には残っていない。
「だめだよ、先生の話はちゃんと聞いてないと。気持ちはわからなくもないけどね」
状況を察して、紀伊教授が苦笑いした。
ついでだと、教授はさらに注釈を加えた。
このナシ赤星病、かなり深刻な病害であるのはお察しの通りだが、宿主を移すという特殊な生態のせいで、効果的な防除が難しいのだと言う。
ビャクシン類の樹木は植え込みや庭木として汎用されている。よって、ナシ農家が自分の管理下で菌を退治しても、周り――赤星病の胞子は半径一キロメートルはゆうに飛ぶ――に汚染されたビャクシンの木が一本でもある限り、根本的な感染を防ぐことができない。
そんな性質の悪い病原菌からナシを守るべく、条例でビャクシン類の植樹を禁止している地域もあるほどだ。その悪名高さは、他の追随を許さない。
「だから、奥羽君。イブキちゃんの胞子つけたまま遠出しないでね。頼むから」
「もちろんです。家帰って、さっさとシャワー浴びます」
「それがいい。あと、下手に病気ばらまくとゆき姉ぇキレるからね。見つからないようにしたほうがいいよ」
透陽は思い当る節があり、愛想笑いでごまかした。いや、キレたというほどではないが、確かに、クワの病原菌の話をした時には、ご機嫌ななめであった。
ゆきは「人間とキノコの共生」と言うが、しかしイブキにあれだけ攻撃的にこられては、決して相容れないものもあるんじゃないかと透陽は思う。そして、自身も甘く考えていた所もあったと反省した。
自分はキノコ、いや、菌類とコミュニケーションが取れるから大丈夫。だが、それに甘んじて相手の事を理解しようとしなければ、手痛いしっぺ返しをくらうのだ。
今度イブキに出会った時は、もう少しまともに話せるようになりたい。そのためには、もう少し勉強しなきゃな。そう、透陽は心新たにした。
明後日からゴールデンウィークだ。手始めに、図鑑を読み込むところから始めようか。
菌類目録
ビャクシンさび病菌/赤星イブキ
春から夏にかけてナシに寄生する植物病原菌。
春の初めにビャクシンさび病に感染したビャクシン類から飛んだ胞子がナシに感染。
葉の表面に黄色や橙、赤の病斑を形成する。また、授精が成立すると、病斑の裏に毛状の特徴的な器官を形成し、胞子を飛ばす。この胞子がビャクシンに感染する。
多発すると葉を落とし、木を弱らせるため重大な病害ではあるが、その生活史の都合上、感染源対策が困難。




