榎ゆきの出張講座
「……載ってない」
百科事典並に分厚いキノコ図鑑とにらめっこしていた透陽は、深々と溜息を吐いた。机の上には、買い物をしてきた袋が置かれたままだ。牛乳だの豆腐だの、傷みやすいものも入っているのに。
もちろん、探していたのは紀伊教授に聞いた、「キツネ」で「ワン」のキノコだ。
だが、該当しそうなものは無い。キツネ、と名の付くキノコは多々あったが、どれを見ても「ワン」とは程遠かった。そのものずばり「キツネタケ」という可能性も捨てきれないが、何となく違う気がする。気になるのは、彼女が持っていたお椀だ。
お椀といえば、チャワンタケという仲間がある。文字通り茶碗型のキノコで、もしかしたらと透陽は思った。が、図鑑でチャワンタケ類をつぶさに見ても、あまりその違いがわからない。おまけに、今度はキツネ要素がどこかにいってしまった。
もはやお手上げだ。透陽は分厚い図鑑を閉じた。重厚感あふれる音が響く。
「ご飯にしよ……」
透陽は放置してあったスーパーのビニール袋を、ようやく片づけ始めたのだった。
小さなキッチンの小さなスペース。そこで透陽は包丁を握りしめて立っていた。
自炊は……あまりしていない。だが、教授に言われたことが呪いのように耳について、スーパーで食材を買ってきてしまったのだ。
まな板に鎮座するのはエノキタケ。真っ白でひょろ長く、子どもの腕の太さくらいの幅にしまっている。
寝転がるそのキノコを前に、透陽は悩んでいたのだ。
「これ、どっから食べれるんだろう」
上から下まで真っ白。だが、一番底はおがくずのようなものが付着していて食べられないだろう。
真ん中あたりの傘が無くなる部分までだろうか。それとももう少し下、なにやらへこんで線が付いているところまでか?
悩み悩んで、五分程。ようやく透陽は一息に包丁を入れた。くびれてラインができているところを目安にだ。それより下は束になって硬い。おいしくなさそうだし。
そして透陽はエノキタケをざるに上げた。
蛇口をひねって水を出す。勢いよく流れだす水流に、何の気なしにざるを突っ込もうとした。
その時だった。他に人が居ないはずの部屋で、怒号が響いたのは。
「ちょっと待ったあ!」
「ひっ!?」
声が裏返る。ショックでエノキタケが少しシンクに飛び散った。
ざるを持ったまま呆然と振り向けば、お怒り顔の榎ゆきが腕を組んで仁王立ちしていた。
「洗う気? まさか洗う気!? 汚れても無いのに!?」
「ええ、っていうか、どっからわいてきたんですか!」
「わいたとはひどい言い草じゃん! キミが招いてくれたのに!」
招いた覚えはないぞ、と一瞬思ったが、すぐに気付いた。
透陽は思わず手元のざるをみる。エノキタケ。そうだ、栽培品でも依代にできると言っていた。
『僕のおすすめはエノキタケ』
紀伊教授のお茶目な笑顔と軽い口調が脳内で自動再生される。なるほど、そういうことか。つまりこうなるように仕向けられたんだな。
「やられた……」
否応ではなく、罠に掛けられたような敗北感に襲われうなだれた。
そんな透陽にはお構いなく、ゆきはまな板の上に放置されていたエノキタケの残骸を掴み取る。
「あとさ、もったいないからもっとちゃんと使ってよー。このギリッギリまで食べれるんだから」
ゆきが指し示したのは、底部のおがくずが付着している部分の際。
「……そうなんですか?」
「当り前じゃない。菌糸で出来てるのは同じだもん」
ただし、ほぐれにくいため塊になりやすい。だから食感も硬い気がする。塊で使っても気にならない料理、例えば細かく刻んで肉団子に混ぜ込むだとか、いっそ束のまま薄切りにしてステーキのように焼いて食べるのがいいと、ゆきは聞いても居ないのに教えてくれた。
まるで母親ではないか。妙に詳しい料理のノウハウを語るゆきを目の前に、透陽は思った。
「ていうか、何しに来たんですか。料理教室ですか」
するとゆきは「違うよ」と否定する。
「いやー? キミがせっかくきーちゃ……紀伊教授の所に――」
「もうその『助教授』キャラ作らなくても、とっくに素が出た後ですよ」
「何を言うのかね、奥羽クン。キャラも何も、わたしは『助教授』榎ゆきだ!」
このひと、めんどくさいなあ。思ったことをどうにか飲みこむ。
透陽は、再度、「助教授」に来訪の理由を尋ねた。
すると彼女は腰に手を当て胸を張った。
「要するに、お忙しい紀伊教授の代わりに、このわたしがご質問に答えようと思ったのだよ。流行の出前講座だ!」
決まった! とばかりにゆきはいい笑顔を見せていた。ドン、と胸を叩けば、ベルトに付けたエノキタケのアクセサリーが楽しそうに揺れている。
ああ、そうですか。ありがとうございます。そんな透陽の返事は、ずいぶんと投げやりであった。
とりあえず、晩御飯はまだおあずけだ。このエノキタケを料理してしまえば、ゆきが消えてしまうだろうから。すっからかんの腹が悲しげに鳴いた。
意外だったのは、ゆきが詳しい話を全く知らなかったことだ。どうやら、透陽が研究室を訪ねて来たのは知っていたが、その後、教授に確認せず、エノキタケが透陽の部屋にあったから飛び出して来たらしい。てっきり二人で画策したのだと思ったが、違った。
最も、透陽にエノキタケを買って帰るよう仕向けた辺り、こうなることを教授も願っていた節はあるが。
そしていきさつを聞いたゆきは、ぱっと一つのキノコの名前を挙げた。
「ふむふむ。それはキツネノワン、だね」
「キツネノワン? でも、キツネから始まるの全部見ましたけど、図鑑にも載ってなかったですよ」
そう言って、例の、週刊少年漫画雑誌ほどの厚みがある図鑑を胸の前に掲げて見せた。
が、ゆきはわざとらしく溜息をついて、手を両サイドに開いて見せた。
「こらこら。載ってなくて当たり前だよ。一体我々の仲間がどれくらいいると思っているのかね。載っているのなんて、全体がこれくらいだとしたら――」
ゆきが目一杯両腕を斜め方向に伸ばして見せる。まるでYの字。なおかつ、白い手袋に覆われた指の先まで真っ直ぐだ。
「ほんの、これぽっちだ!」
そう言って、今度は胸の前に手を持ってきて組み合わせる。両方を膨らませて、ちょうど野球ボールほどの球型空間をつくってみせた。どうにもゆきのリアクションは大げさな気がする。
「えっと……そのキツネノワンってのは、クワの木に生えるんですか?」
確か紀伊教授がマシンガントークの中でそんなようなことを言っていたような。
が、ゆきは首を横に振った。
「いや、違う。地面……正確には、土の中に埋まった実に、だ」
「実」
「そう。木にクワの実がなるだろう? あれらはその果実に胞子を飛ばすのだよ。そして、菌糸を伸ばして落果させる。その落ちた実の中で一年息をひそめ、また次の同じ時期にキノコとなって地上に現れるのだ」
ゆきの講義は意外とまともであった。透陽は感心して聞いていた。クワの実と言う物がどういうものかピンと来ないが、さほど大きくない木の実だろう。だったらそれから出るキノコも小さい。なるほど、あの時見つけられなかったのもうなずける。
だが、話を聞く限り、キツネノワンは桑の実を落としてしまう悪い奴に聞こえる。それをゆきに確かめると、彼女は少し不機嫌になって言った。
「人間の物差しならそうなるな。が、彼女らはただ生きているだけだ。キミたち人間が食事を摂るのと一緒で、キノコも糧が無いと生きられないからね」
「なるほど。じゃあ、それがたまたまクワの実だった?」
「その通り。他にも色々居るよ。ツバキだモクレンだの花を食べる奴とか……どした?」
目を見張ったままフリーズする透陽。ゆきが訝しむ。だがそんな彼女の顔の代わりに、透陽の脳裏にはある二人の健気な微笑みが映っていた。
春堀椿と春堀木蓮。早春に出会った少女たち。ゆきが言っているのも彼女たちの事に間違いない。
透陽の中に蓄積されてきた情報が繋がった。彼女たちもツバキやモクレンの花に好んで寄生する。それがクワの実に変わっただけで、キツネノワンも同じなんだ。
そして春堀椿の名はツバキキンカクチャワンタケ。チャワン――椀だ。確かに、二人とも平べったい椀型のキノコを形成していた。ならば、キツネノワンも似た様なものに違いない。
知識が、記憶が、新たなる出会い、新たなる知識への道を導く快感。これだ。学ぶことの楽しさはここにある。透陽はえもいわれぬ興奮に浸っていた。
が、有頂天にも昇る心地の透陽を崖から突き落とすような一言が、ゆきの口から放たれた。
「しかしその子たちも大変だよ。クワの木は数が減っているからね」
「えっ!?」
「農学の士として知っているだろうが、我が国では養蚕はとっくに下火になっている。廃業や開発の波に乗り、桑畑もどんどん姿を消しているのだ」
「じゃ、じゃあ……あの子は……」
ゆきは目を細めて、虚空を眺めた。
「人間の文明の発達と言うのは、何かの犠牲の上にあるのだよ」
口を真一文字に結び、人間に近しいキノコの娘は何を思うや。こげ茶色の瞳は繊細な麗しさを保ち、そこからは何も読み取れない。
もしこのまま桑畑が無くなったら、それに依存するキノコはどうなるのか。昔のえらい人間は、パンが無ければお菓子を食べればいいじゃないと言ったとか言わないとか。だが、そんな簡単な話ではない。キツネノワンの場合は、生存のすべてをクワの木に頼っているのだ。人で言うなら、衣食住、それを得るための仕事も、と言ったところだろうか。
キツネノワンの未来はいかに。不安げにゆきに尋ねると、彼女は一転、からりとした顔で答えた。
「人に教えを受けるのも良いが、自分で調べるのも学びのコツだよ。そして座学より実学。本茸に話を聞きに行けばよいではないか。居る場所はわかっているのだし」
「まあ、そうなんですけど……。でも、休みの日に農場うろついてたら迷惑じゃないですか?」
「何を言っているんだ、学生は学ぶものだ。そのためなら農場の教授陣も拒みはしないよ。まあ、何かあったら『紀伊教授に見てこいって言われました』とでも言っておけばいいさ。きっと憐れみの目で見てくれるよ」
果たして学内での紀伊教授の評価はどうなっているのだ。透陽は他人事ながら不安にかられた。おそらく、悪い先生ではないはず。ちゃんと学生にも指導しているし。ただ少し、キノコが好きすぎるだけだ。
ゆきは一通り話し終えたのか、気持ちよさそうに伸びをした。
「じゃ、わたしはこれで。お腹が空いたからね、帰るよ」
ばいばい、と手を振りながら、ゆきは消えた。全身真っ白な彼女が透けていく様は、さながら幽霊のようだ。あんがい巷で幽霊と思われているのは、偶然見えてしまったキノコの娘かもしれない。
そしてお腹が空いたのは透陽も同じだ。思い出すと途端に胃が限界を主張してくる。
透陽は台所に立ち、ガスコンロにフライパンを乗せた。ゆきに言われた通り、エノキタケは洗わない。
「そういや、教授、『キツネノヤリタケ』ってのが来週って言ってたような」
不慣れな料理をしながらも、彼の心はすでにフィールドへと飛んでいたのだった。




