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せわしなさは脱兎のごとし

 この日は農場実習の曜日であった。さんさんと日光が降り注ぐ中での作業は、確実に体に負荷をかける。

 学籍番号で区切られた班ごとで異なる作業が割り当てられるのだが、透陽の担当は畑での畝づくりとマルチングだった。不慣れな学生たちは、汗と泥にまみれて一日を終えたのであった。


 

 黒々としたマルチが光る畑を、学生一行は清々した顔で眺めていた。実際に体を動かし学ぶことは、座学とは全然異なる。彼らはそれを身に染み込ませていた。作業着の汚れは勲章だ。

 研究林の山裾に広がる附属農場は大学のキャンパスからは遠い。だから、毎度キャンパスからバスが出る。もちろん、帰りもそれに乗って帰るのだ。

 乗り遅れたら自力で帰る羽目になる。誰ともなく学生たちは足を動かし始めた。


 透陽も踵を返して、帰路につく集団に混ざろうとした時だった。

 圃場の奥に広がる雑木林。その手前に、人が居る。背丈からしてまだ子どもだ。遠目だが、黒い着物を着ていることと、腰に何か大きなものをつけていることは分かった。その子はふらつく足取りで林の中に入って行った。

 思わず透陽は足を止めていた。今のは――


「奥羽君どうしたの?」

「いや、今子どもが……あの森の中、入ってった」

「ええ? 子どもなんか入ってくるわけないよ。さすがに先生たちが止めるだろうし」

「キノコ野郎、昼飯にアブナイキノコでも食ったか?」

「食べない!」


 花野郎のからかいをど真ん中から打ち返しつつも、透陽はしまったと冷や汗をかいていた。あれは自分にしか見えないものだ。理解されるはずがないのに。


 賑やかな集団と共に、透陽は帰路を歩んだ。だが、気になるのは雑木林の方だ。

 榎ゆきとの邂逅はあったものの、それ以外にロクにキノコに会えていない。探していないわけではないが、空振りばかりなのだ。

 それが今、あそこに行けばキノコに会える確証がある。行きたい。是非行きたい。これが、講義でなかったら。



 更衣室に辿りついても、まだ頭の中にはキノコのことがあった。むしろ、それで一杯だ。

 ちらりと時計を見る。出発時刻まではまだ十五分。着替えを諦めてダッシュすれば、十分間に合うはずだ。

 ロッカーから鞄と普段着を出すと、誰にと言うわけでもなく声を上げた。


「やばい、忘れ物! 取りに行って来なくちゃー!」


 それはそれはド下手くそな演技であった。が、それを気にするような人間も周りにはいない。

 男臭い更衣室から猛ダッシュで出ていった透陽。彼を追いかける者は誰も居なかった。




 透陽たちが張ったマルチは風で波打っていた。情緒はあるが、ゆっくり眺めている時間も無い。

 彼は圃場を突っ切り、奥の雑木林へと踏み込んだ。地面がいきなり険しくなり、何度もたたらを踏んだ。

 木に手をかけて、奥の方に目を凝らす。ちょうど新芽が一斉に芽吹くとき。地面にも草が生えているが、それ以上に、藪の勢いが激しく、視界が不良だ。


 だが、声が聞こえた。節が付いている。春の頭にも似た様なことが合ったが、あの時とは違う、透陽でも知っているリズムの音楽だ。子どもの舌足らずな感じはするが、そこまでひどい歌でもない。

 透陽は耳を澄ませた。右手奥の方角、ちょうど低木の向こうだ。


 木の葉を踏み鳴らし、彼は藪の向こうを覗いた。


「もーいーくつねーるーとー、しゅーうかーくーきー」


 狐だ。第一印象はそれであった。黒い着物を着た女の子の腰から生えているのは、ふさふさでボリューミーな尻尾。狐色の毛並が心地よさげになびいている。

 頭にまいた手ぬぐいの下にはみ出した髪に混ざって、獣の耳が折れるように飛び出していた。


 そんな歌声の主は、突然現れた人間にちらりと視線をやる。彼女の細いつり目と、透陽の好奇の目が視線を交わした。それは間違いない。

 ところが、狐の少女は、まるでそこに誰も居ないかのように、肩を揺らして歌を続ける。


「くわのみできたらジャムつくろー」


 少女が大事に抱えているお椀が、歌に合わせて右へ左へリズムを刻む。一人で実に楽しそうだ。


 透陽は気まずさを覚えた。もしかして、向こうには自分が見えていないのだろうか。今までそんなことは無かったが、人間にキノコの娘が見えないなら、逆があってもおかしくない。

 タイムリミットは刻一刻と迫る。それはわかっているのだが、透陽は未練がましく立ち尽くしていた。



 不意に歌が止んだ。狐の娘は、じっと透陽を見つめている。いや、ずっとそうしていたのだが。

 彼女は引きつった笑顔を浮かべて、首を傾けた。


「え、もしかして見えてるの!?」

「見えてるよ。ずっと見てたよ」


 むしろ、見えていなかったのか。透陽がそう尋ねる前に、狐の少女は全身の毛を逆立てて叫んだ。


「ひーっ! クワバラクワバラ……!」


 まるで雷に怯える子どものように、頭を抱えてうずくまった。そして、そのまま胞子の塵と化して、姿を消したのだった。

 戻るは静寂。遠くで烏の声が聞こえた。


「何だかなあ……」


 まさか逃げられるとは予想しただろうか。今まで出会った大方のキノコの娘は友好的であったし、たまに例外的に攻撃的であることがあったくらいだ。あのように脱兎のごとく逃げられるのは初めてだ。

 また、彼女の居た辺りを中心に、キノコの一本でも生えていないかと幅広く眺めた。が、やはり空振りだ。少し場所がずれているか、単に見つけられないだけか。どちらかは分からない。


 ギブアップだ。名前もわからないし、時間も足りない。

 透陽は意気消沈して、バスへと駆け出したのだった。 





 キャンパスに帰還した透陽が向かったのは、研究棟であった。

 わからないことは詳しそうな人に聞けばいい。人間でもいいし、キノコでもいいし。真っ先に浮かんだのは、紀伊教授と榎ゆきの存在であった。


 静かな廊下を歩き、階段を登る。右手に曲がって三階の突き当りに森林利用学研究室が見えた。

 ところが、教授室は真っ暗だ。透陽は肩を落とした。今日はことごとくタイミングがかみ合わない。

 残念だ、帰ろう。そう思って立ち止った時、研究室の向かいの部屋から出て来る白衣の男性の姿が見えた。


「あっ、居るや」


 見まごうことなき教授の姿。そうか、大部屋の方にいたのか。考えてみれば、当り前だ。

 透陽は気を取り直して廊下を進んだ。先ほど教授が出て来た部屋は、いくつかの研究室の共同設備が置かれている部屋だ。よくわからないが、すごそうな装置が並んでいるし、それらとにらめっこしている学生の姿も見えた。



 研究室の扉の前に立つと、中で話している声が聞こえて来た。二、三人だろうか。内容まではわからないが、なかなかヒートアップしている印象を受ける。

 しまった、邪魔してしまうかもしれない。透陽はノックしかけた手を止めて、逡巡した。

 その時、背後から声がかかった。


「もしかして紀伊先生に用事?」


 がばりと振り返ると、ノートを持った女性が居た。研究室所属の先輩、というところだろう。

 その人は透陽の横から腕を伸ばしドアを開ける。彼女にどうぞどうぞと促され、おずおずと室内に踏み込んだ。



 透陽は感心めいた息を吐きながら、室内を見渡した。大きなコンピュータが置かれたデスク、論文が並んだ棚、黒塗りの実験台、学生用の机――。新鮮な世界だ。

 先ほどの女性は更に奥に歩いて行った。見ると、何か小さな器具の前で、紀伊教授が二人の学生相手に指導をしている。少々声が荒げている、叱っているのだろうか。

 不思議と安心した。ただのキノコが好きな優しいおじさんではなく、教授らしい仕事もするのだと。


 そして、女生徒が教授に声をかける。すると、はっと教授は振り返り、小走りで透陽の方にかけて来た。


「ああ、奥羽君、いらっしゃい。一年生なのに勉強熱心だねえ、感心感心」


 朗らかな笑顔を紀伊教授は見せる。その遠景に先程まで指導を受けていた学生たちの顔が見えた。睨んでいるわけではないが、じっとこちらを見て、教授を待っているようだ。

 やはり、タイミングが悪かった。透陽の胸は申し訳ない気持ちで一杯である。

 だが、教授は肩を叩きながら、自分の小部屋の方を指さす。


「向こうでゆっくり話そうか?」

「あ、いや。お忙しいみたいなので、また改めます。急ぎじゃないですし」

「そう? ……キノコの話?」


 教授は少し声を潜めた。目をきらきらと輝かせ、透陽が話したがる以上に、聞きたがっているらしい。

 仕方ない、単刀直入に切り込んで、さっさと切り上げよう。


「まあ。その、農場の花卉圃場の奥に生えるのって、何ですかね」

「奥っていうと、林に入って? 基質は土? 材? ハラタケ型? まあ、今ならサケツバタケにナヨタケの類とか、ウラベニガサ、スエヒロタケ――」

「何かキツネっぽいのです」

「キツネ? キツネノチャブクロ、は君も知ってるか。だと他に今の時季は……ああ、ワンだ! ワンが出てるかも!」


 ワン、ワン。まるで犬になったかのように、嬉しそうに繰り返す紀伊教授だった。

 一方、透陽は目を細めて首を捻る。有名どころや今まで見たキノコは記憶しているが、残念ながらその中にワンというものはない。むしろそれが正しい名前だとは思えなかった。


 もう少し詳しく、まずは名前を。透陽はそう尋ねようとしたが、紀伊教授はスイッチが切り替わったように、一人でべらべらしゃべり続けていた。


「そうだよ、アミガサも終わってそんな時期だよ。ヤリタケは来週くらいだろうし、ワンの方だ、違いない。あの辺りクワがちょっと残ってるからねえ。奥羽君、あの二種は面白い子たちだよ。同じ生態なのにちょっと発生時期が違って――」

「あ、あの! 今日はとりあえずこのくらいで大丈夫です! お忙しそうですし……ありがとうございました!」


 透陽は引きつった笑みを浮かべながら、逃げるように研究室から退散した。そろそろ、研究生たちの何か言いたげな視線に耐え切れなくなってきたのだ。

 しかも、ああなった人間は絶対に話が長くなる。特に、キノコ熱に浮かされる紀伊教授の話っぷりは、講義にて承知済みだ。

 だが得るものはあった。キツネでワン。やはり頼るべきは先人の知恵だ。手がかりがあれば、自分でも調べられる。



 早速、家に帰って調べるぞ。心も新たに階段を降りかけた時、大声で自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。

 静かな廊下には音が良く反響する。そして、耳を打つこの声は紀伊教授のものだ。透陽は慌てて後ずさり、研究室の方を向いた。


 すると、研究室の入り口から上半身だけを突き出すようにして、教授がこちらを向いていた。


「奥羽君って、一人暮らしだよね! 自炊してる? キノコ料理、いいよ! 今日の晩御飯にどうだい? 僕のオススメは、エノキタケだ! ……じゃ、また!」


 それだけ言って、教授の顔は引っ込んだ。その素早さ、もぐらたたきの如し。



 透陽は脱力して立ち尽くしていた。何か大事なことを教えてくれるのかと思ったら、そんなどうでもいいことを。むしろプライベートを喧伝された心地がして、なんだかむずがゆい。

 しかも静かな廊下で、他の研究室もあるというのに。むしろ、自分の研究室にも響くだろうに。


 各所から笑い声が聞こえる気がする。いたたまれなくなって、透陽はリノリウムの階段を駆け下りていった。



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