榎ゆきと紀伊教授
紀伊教授と榎ゆき。キノコの娘と見える男。その親しさからは、長年ともに生きて来た相棒のような空気すら感じられた。さすがに夫婦と言うことはないだろうが。色々な意味で。
「あの。お二人はどういう関係なんですか」
「うーん、そうだねえ、家族みたいなものかな。小さい時から、ゆき姉が僕の隣にいたから」
教授は遠い目をする。在りし日の事を思い出して、しみじみと語る。
紀伊嘉志和の生家にはそこそこの庭があった。小さな池があり、鉢植えも並び、そしてその庭には二本の柿の木があった。一本は立ち枯れて苔むしたようなものだったが。
さて紀伊少年、物心ついたころには四六時中庭で遊ぶようになっていた。花をむしり、アリの巣に悪戯し、鳥を見る。庭の隅のじめじめとした一画にはキノコが生えて、それを冷蔵庫に入れて母親に起こられるのも日常茶飯事であった。
自然が好きな少年。すると寂しいのは冬だ。植生が一気に乏しくなる。虫も花も居ない庭。
だが、寒い冬でも活き活きとしているものは居た。キノコだ。枯れた柿の木にたくさん生える茶色いキノコ。いつしか冬の間はそのキノコを観察するのが日課になっていた。
そして三年目だっただろうか。雪が積もった日だった。紀伊少年は耳を真っ赤にし、白い息を吐きながら、朽ちかけの柿の木へ向かう。そこには冷たい結晶を被りながらも凛々しくたつキノコが生えそろっていた。
すごいなあ。幼心にそう思ったのは確かだ。そして思わず口走った。
「キノコさん、寒くないのかな?」
もちろん返事は無い。あるわけがない。はっきりとは覚えていないが、この時、キノコさんと喋れたらいいのに、みたいなことが頭によぎった気もする。
寒い。家に入ろう。少年が柿の木に背を向けた時であった。
「寒くないよ」
その声は、家族のだれのものでもなく、知っている誰のものでもない。聞き覚えのない優しいお姉さんの声に、純朴な紀伊少年は振り返った。
朽ちゆく柿の木、その上に並んだキノコ。そして、その上に腰掛ける一人の女の人。その人は自分を見て、にこにこと微笑んでいた。
「……キノコさん?」
「そうよ」
それが紀伊少年と榎ゆきとの初めての出会いであった。
「懐かしいなあ。ぼへーとして、こんな小っちゃかったのに、きーちゃん。今じゃすっかりおっさんだけど」
ゆきは二本の指をぐっと近づけて透陽に見せる。それじゃ虫みたいじゃないか。と人間たちが苦笑した。
最初は姉弟のように。だが人間は時と共に育っていく、気づいたら同級生のカップルのようになって、今では父娘のような見た目だ。紀伊少年が紀伊教授になるまでを、ゆきはずっと近くで見ていたという。共に笑い、共に泣き、時には喧嘩もし。人類と菌類という垣根を越えた絆が、ここにはあった。
「……さてと、僕の菌類的なきっかけはそんなものだ。それより僕は君の話を聞きたい。君はどうして、彼女たちが見えるんだい? 僕みたいに語り掛けて見ちゃったのかな」
姿勢をただし透陽の顔を真正面から覗きこむ。ところが、彼の探求に相応しい答えを、あいにく透陽は持ち合わせていなかった。
「どうしてか、むしろ俺が知りたいくらいですよ」
「じゃあ気づいたら見えてたの? でも、きーちゃんもそうだけど、好きでないと見ないよ? わたしたちのことなんて」
「好きだったというか、好かれてたと言うか……とりあえず、俺は命を救われたんです」
「あらら、山で遭難? 滑落? それとも熊にでも襲われた?」
「いや、その……」
透陽の記憶が明滅する。自分の人生の転機点にあったこと。隠すべきか――否、あの事件があっての、今の自分だ。
少し長くなるのですが、と前置きして透陽は語りだした。
「俺、自殺を考えたことがあるんです」
「おや」
「まあ」
「それでロープ持って森へ行って、いよいよだってとこで、止められました。あるキノコに」
死に臨んだ彼の目の前に降臨したのは、美しい純白のキノコ。翼を携え悠然と森林に闊歩する、彼女の名前はアマニタ・ヴィロサ。まごうことなき天使であった。
それからヴィロサに導かれるように、透陽は暗く深い森を彷徨った。数多のキノコの娘に出会い、話し、遊び、別れ。そうすることでいかに自分の視野が狭窄だったのかも知った。そう、紀伊教授とは逆だ。彼女たちが見えたから、自分はキノコが好きになった。
そして再会したヴィロサは語った。透陽のことを幼いころから見守って来たと。なおかつ、彼が闇の底から脱出し、自力で希望の未来を掴んだことを、心から喜んでくれた。
そうだ。透陽の菌類に満ち溢れた人生、すべての始まりは死の天使から注がれた無償の愛だった。
「うんうん、素敵よ。愛、よねえ」
透陽の物語を聞いていたゆきは、恋に恋する乙女のような表情をみせていた。
また、紀伊教授も、しみじみと語る。
「ああ、いいねえ、アマニタ・ヴィロサ、ドクツルタケ。彼女は本当に美しく、可愛らしい」
「かわいらし……い? どっちかっていうと、気高くて近寄りづらいタイプじゃないですか」
「そりゃ君と僕で多少は感じかたは違うよ。少なくとも、僕が出会った彼女はいつも可愛らしかった。物腰穏やかで、優しくて、可憐で、はあ、あの子に殺されるなら本望だ……ってのはさすがに冗談が厳しいかな。死天使の毒は凶悪だからねえ」
凶悪、それには透陽も同意しざるを得ない。ドクツルタケの中毒症状は、少し調べればすぐにわかる程に有名だ。ヴィロサ本人の言い方を借りるなら「血と臓物を吐き散らしながらのたうち回る生き地獄」。それが言葉通りなのだから、恐ろしい話だ。
ではなくて。どうにも紀伊教授の語るヴィロサの像と、自分の知る彼女の像が微妙にずれている気がする。
いや、可愛いは可愛し、優しいし、穏やかと言えば穏やかだが、それ以上に、ねちっこい毒舌が印象に強い。それと、胸を張って佇む様子は、可憐というより畏敬の念すら抱いてしまう。
そう首を捻っている透陽の肩を、ゆきが叩いた。
「そうだ、奥羽クン。気づいているかもしれないけど、きーちゃ……紀伊教授は少々、我々のことを愛しすぎておかしくなっている節もある。どうかドン引きしないでくれたまえ」
薄々は思っていたが。今も目の前で、誰も聞いていないと言うのに、ドクツルタケを筆頭にした猛毒御三家について講釈している。今聞こえて来た断片によると、教授はまだタマゴテングタケは見たことないのだとか。割とどうでもいい情報だ。
とはいえ透陽も似た様なものだ。キノコのこととなると、頭がヘンになる。だからドン引きはしない。
むしろ気になっているのは、ゆきに関することだ。
「ゆきさんのその口調の方が気になるんですが」
「ほう、このわたしの話がおかしいと? 無理していると? キャラを作っていると?」
いや、俺はそこまで言ってない。透陽は心で叫んだ。
目をぎらぎらとさせるゆきに気圧され、何でもないと作り笑いを浮かべた。
それに気づいた教授が、苦笑いする。
「ごめんね。何かスイッチ入っちゃったみたいで」
要するに、ゆきの言う「助教授」は嘘で、自分たちの事が見える学生が来たことに舞い上がってしまった彼女が始めたなりきりごっこみたいなものだとか。
ああ、よかった。キノコが助教授になれる変な学校じゃなかったんだ。透陽は安堵の息を漏らした。
が、それはそれ、これはこれ。事実がどうであれ、ゆきの心は変わらない。
何かに気づいたように透陽を振り見ると、びしと指を突き立てて宣言した。
「奥羽クン。次のコマは空いて居るかね? 確か一年次のカリキュラムでは今日の三と四コマ目に該当する講義は無かったと思うが?」
「……ええ、まあ、その通りですが」
「よろしい。では、このわたしの特別講義を受けたまえ!」
「は!?」
「キミは有望な学生だ。キノコの未来を担う、我々としても手をかけて育てたいのだよ」
「おーい、ゆき姉ぇー。僕はそんなこと言ってないからねー」
教授はわれ関せずとばかりに両手を上げて見せる。このひとを止めてくれ、との透陽の願いも見事にスルーされた。椅子をデスクに動かしながら、にこやかに笑っている。
「座学より実学だ。キミにはわたしと一緒にキャンパス内を回ってもらう。我々の仲間は各所にいるからね。さあ、準備をしよう!」
ゆきが透陽の腕を強く引っ張った。準備とは何だ。着替えでもするのか。
訳が分からず硝子ケースの前に引っ張られていく透陽。ふと、デスクに向かう紀伊教授と目が合った。
「頑張ってねー」
ああ、やっぱり助けてはくれないんだな。
間の抜けた応援を浴びながら、透陽はハイテンションなゆきに渋々向き直った。
どうやら春はじめに続き、キノコの娘に振り回される運命からは逃れられないらしい。




