教授室に住まうもの
空は青く澄んでいて、透き通った空気が満ちている。あれだけ世界を彩っていた桜は全て散り、青々とした葉を伸ばしていた。春も終わりが近い。
透陽はキャンパスに辿り着くと、学生向けの掲示板には目もくれず、一限目の講義室へと向かった。大事な情報が張り出されるから毎朝チェックしろと言われたが、休講情報は二週も三週も前に出されるのが常だし、そうそう緊急連絡もない。少しくらい手を抜いたって、問題ないだろう。と、思っていた。
「あっ! おい、キノコ野郎!」
不意に呼ばれて後ろを振り返った。そんな呼び方をするのは一人しかいない。花野郎だ。何やら掲示板の方向を指し示しながら、こっちに来いと手で合図している。あまり楽しそうな顔ではない。
いったい何事だろう。透陽は回れ右した。
「おい、おい、お前何したんだよ。昨日の感想文で変なこと書いたのか?」
顔を付き合わせるなり勢いよく背中を叩かれ、掲示の前に押し出された。
張り出されていたプリント類の中に、昨日は見かけていない小さな紙がある。透陽はそこに書かれている文字を読むなり、血の気を失った。
学生呼び出し。そう表題された下に、透陽の学籍番号と名前が堂々と書かれている。いい晒し者だ。ふと周りの注目を浴びている気がして、いたたまれなくなった。あの一年、呼び出し喰らってるぞ。そんな嘲笑すら聞こえて来る気がする。奥羽透陽という男は、実はかなり小心なのだ。
がくがくと膝を震わせ、文章の続きを確認する。「確認したいことがあるので、森林利用学研究室まで来ること。紀伊」。
――紀伊、教授? 透陽の顔に色が戻った。昨日の講座がフラッシュバックする。自分が何をしたのかも。
もしかして、確認したいことと言うのは。彼の心は色めきだった。
そんな感情の変化などいざ知らず、花野郎は気の毒そうに肩を抱いた。
「あーあー、呼び出し喰らっちゃって。まあ、頑張れよ。でもあの先生、お前と似た様な趣味なんじゃないの? 意外と気が合うんじゃねえか?」
「うん、俺もそう思うよ」
それにしても呼び出しが今日で都合が良かった。今日の時間割は午前のみ。午後からはフリーで動けるからだ。
一限目と二限目を上の空で聞き流し、終わるなり、透陽は猛ダッシュで教室を出た。変人を見る注目を浴びたが、お構いなしだ。
混み始めた購買で適当なパンとお茶を買うと、三分も経たない内に全部お腹に納めた。そして、また足を急がせた。
農林学部の研究棟の三階。透陽は森林利用学研究室の前に立っていた。幾つか扉が並んでいて、解放されている方は院生らしき人が出入りしている。そして、今目の前にあるのは教授室の入り口。
心臓が跳ねている。呼吸を整え、透陽はドアをノックした。
すると、ややしてから返事があった。だがそれは思っていたものと違う。
「お客さん?」
女性の声だった。明るいが、どこか気が抜けた雰囲気だ。研究室の先輩だろうか。
だがそれきり音沙汰はない。勝手にドアを開けてもいいものだろうか。悩みながらノブに手をかけてひねる。が、回らない。
おかしいな、人は居るのに。そう思うやいなや、また、中から声がする。
「きーちゃんなら今いないよー。っても聞こえるわけ――」
「きーちゃん!?」
あまりに馴れ馴れしい呼び方に衝撃を受け、思わず復唱してしまった。彼の声は、中まで届いたらしい。何やら唱えていた女の声が、はたと止まる。
一瞬の静寂。その後、内側から奇声が上がった。何か言葉を言っているが、興奮気味で何が何だか。
凍り付いたようになっている透陽の目の前で、がちゃりと鍵が回るような音がする。そして、ぐわんと勢いよくドアが内側に開いた。
そして一人の女性が姿を見せた。上から下まで真っ白の装いだ。髪も、アウターも、デニムも。
「キミだな! キミだ!」
白い女は透陽を指さしながら嬉しそうに叫ぶ。赤茶色の目がらんらんと輝いている。まるで子どもみたいだ。
それから彼女は珍獣でも見るかのように、透陽の顔、体、手の先から足の先までを見回した。真っ白の長手袋をつけた細い腕が伸びてきて、存在を確かめるかのように体にも触る。だらりと降ろされていた透陽の腕が、彼女にとられて、愛おしげに撫でまわされた。
「本物だよお……シアワセ」
「あ、あのう……」
美人さんが自分の手に頬ずりしているのは悪い気はしない。が、さすがに訳が分からない。
透陽の困惑気味のオーラを感じ取ったのか、白色の女性は慌てて手を離して、一歩後ろに下がった。
「ははは、すまない、つい。きーちゃ、じゃなくて、紀伊教授。うん、教授だ。紀伊教授、は、あいにく不在なのだよ」
先ほどまでのでれでれとした雰囲気はどこへやら、女の人は急にきりりとした顔をつくる。気のせいか、声のトーンも一段下がっている気がした。
「えーと、あなたは……」
「私は『助教授』の榎ゆき。さて、待っていたよ奥羽クン! ようこそ森林利用学研究室へ!」
「助教授って……人間じゃないですよね、あなた」
察しはついていた。まず彼女の格好がどう見ても学生のそれではない。ここまで髪色を抜いている人間は、少なくとも農林学部の界隈では見かけたことが無かった。
それに第一、鍵がかかっている教授室の中に人がいるわけがない。透陽は昨日耳にした会話を思い出していた。紀伊教授は自分の部屋でキノコを育てていると。
となれば、目の前の彼女、ゆきがそのキノコだという結論を導くのは容易だ。なんとなく、その正体にも心当たりがある。
だがキノコが助教授になれる大学とは、初耳だ。いや、嘘だろう。
透陽の怪訝な視線を、ゆきは笑って一蹴した。
「種族の違いなど、些細なことよ! 我々は同じ地球の住人ではないか。さあさ、いらっしゃいな。共にキノコの未来を語りましょうよ!」
口笛と共にゆきは廊下に躍り出る。あたふたとしている透陽の背中に回り、室内に押し込めようとした。
その時。ようやく本命が登場した。
どこぞから戻って来た紀伊教授は、自分の部屋の前にいるゆきの姿を認めて硬直した。立っているだけならまだしも、誰か客人にちょっかいをかけているではないか。
「ゆ、ゆき姉、何やってんの!?」
「きーちゃん……じゃなくて、教授! 例の学生君ですぞ!」
ゆきが透陽の肩に手を当てて、捻るように向きを変える。
痛い、と顔をしかめた学生の顔は、紀伊教授の記憶にもはっきりあった。というか、自分が呼び出したのだ。
「あ、ああっ、ああーっ! そう、君だ! 奥羽透陽君! そう、君とはどうしても一対一で喋りたくて……と言っても、目的の半分は達成されちゃったんだけどね」
苦笑しながら透陽とゆきの顔を交互に見た。彼らが入口ですったもんだしているということが、何よりの証拠。ゆきの姿は普通の人には見られないのだから。
「とりあえず、中においでよ。あまり人には見られたくないよね。一年のうちから変人扱いされるのも可哀想だし」
「はい、ありがとうございます」
自分を追い越して行った紀伊教授に付き従い、透陽は室内へと入った。涼しい部屋だ。彼の背後で、ゆきが静かに扉を閉めた。
紀伊教授は来客用の椅子を引き出し、そこに透陽を座らせた。
失礼かなと思いつつ、透陽は部屋をきょろきょろと見渡す。書棚には論文や学術誌などがある。多くは森林そのものに関することだが、隅っこにキノコの図鑑が何種類も突っ込まれていた。
右手を見ると、壁際の台にゆきが腰かけていた。足をぶらぶらとさせていて、素足にはいたサンダルがリズミカルに揺れている。
ふと目が合うと、ゆきはにんまりと微笑んだ。
彼女の脇には黒い布がかけられた何かがあった。その布をゆきがつまむ。
「見て見て、ジャーン!」
さっとゆきが布を取っ払った。現れたのは硝子のケース。と、その中身。ケースがガムテープで広く補修されているのは気になるが、透陽の予想していたものがそこにあった。いつも見るものよりいささか傘が開き気味ではあるが――。
「エノキだ、やっぱり」
「こらっ、物の名前は正しく! わたしはエノキタケよ」
ゆきが指を立てて説教する。いわく、エノキと言ったら榎の木の事になってしまう。俗に言うキノコのエノキを呼びたいなら、エノキタケと正しく呼びなさい、と。学生ならもっと学術的思考を持ちなさい、と。
まるで厳しく面倒くさい先生だ。辟易した面持ちを透陽は見せる。
そんな二人の様子を見て、紀伊教授は微笑ましさを感じていた。
「悪いねえ、奥羽君。ゆき姉、僕以外の人間に構ってもらえたから嬉しくなっちゃったみたいで。これ見せた時もすごい興奮の仕方だったからなあ」
紀伊教授がひらひらと振ってみせたのは、昨日透陽が書いたレポートだ。余白に書いたキヌガサタケのシルキーが、仏頂面のまま揺れている。こうして見せつけられると気恥ずかしい。
ちなみに、これを見た時のゆきの反応は相当なもので、溢れあまる歓喜のエネルギーを、レポートが乗っていた自分の栽培ケースにぶつけてて、天井の硝子を粉砕するほどだったらしい。
なるほど、ケースが補修されてるのはそのせいか。透陽は神妙な面持ちでゆきを見た。かなり細身に見えるが、なかなか逞しいらしい。
ゆきは自分の失態を暴露され顔を赤らめる。そして、すぐに言い返した。
「もう、きーちゃんだって同じじゃない。大事な論文の上にコーヒーぶちまけちゃってたじゃん。芝生で茶狐と喋ってる子が居るって言った時には、全然信じてくれなかったくせにい」
「えっ、見てたんですか!?」
「そーだよ、そこの窓からね。覗いてみなよ、ちょうど芝生が見えるでしょ?」
言われるがまま立ち上がり、透陽は窓辺に寄った。たしかに、ゆきの言う通りだった。緑色の芝が茂る四角い広場が下方にあった。なるほど、あのとき茶狐が見上げていたのもこの部屋だ。
と言うことは、茶狐が怖がるように「姐さん」と呼んでいたのは――。
「ん? 何、どうしたの?」
「いえ、何でもないです」
透陽は肩を縮めながら椅子に戻った。ゆきは目を丸くして小首を傾げているばかりだった。
人は見かけによらないという。下手なことをすれば恐ろしい目に遭うのかもしれない。用心しよう。透陽はきょとんとしているゆきをちらちら見ながら、心に決めたのだった。
キノコ目録
エノキタケ(栽培品)/榎ゆき
スーパーなどでもお馴染みの白く細長いキノコ。実はもやしのように栽培されることで白色なのであり、野性下では全く異なる見た目をしている。
ごく一般的な食用キノコ。甘味が合って美味。しゃきしゃき感満点。ぬめりもある。汁物や炒め物に。
……と身近なキノコなのだが、実は生食すると中毒する。加熱は十分に行いましょう。




