もう一人の見える男?
雨上がりはキノコを探しに行こう。……と行きたいところなのだが、そういう訳にいかないのが学生ないし社会人の悲しい性。残念ながら透陽はこの日、朝から晩まできっちり講義を取っていた。
となれば見えるのはせいぜい通学路とキャンパス内。一応目を光らせながら歩いたが、わずかな時間では、逆に欲求不満になるだけであった。
おまけに通りかかった時に見た芝生のホコリタケ。心無い学生に蹴散らされて、無残な姿をさらしていた。それが透陽のストレスをさらに高める。茶狐さんに謝れ、と、どこにいるかもわからない犯人に向かって息巻いていた。
そんなこんなの三時限目。昼食の後と言うこともあって、すっかり気は抜けている。油断すれば睡魔の手に落ちそうだ。
透陽は中ほどの席に陣取ってダラダラと時間が過ぎるのを待っていた。
これが面白い講義なら背筋も伸びるものだが、そうでもないから困っている。講義の名前は『農林学概論』。ぼんやりとしたタイトルだが、実際やる事はと言えば、毎週農林学部所属の教授陣が交代で自分の専攻分野の紹介をするという、いわば各部紹介のようなものだった。
「退屈だよねえ、これ」
後ろの席から聞こえて来た女性の本音に、透陽は黙って同意した。自分以外に同じことを考えている人がいるというのは、なかなかどうして嬉しい。
するとその誰かの相方が、フォローの言葉を発した。
「でも先週の先生は面白かったじゃん。旅の動画が、だけど」
「農学と関係なかったけどね、ただのグルメレポートみたいで。で、今日は誰だっけ……」
ばさばさと紙の資料がめくられる音がした。その後、「あ、知ってる」という呟きも。
その人は軽い笑いを含んだ声で噂を広める。
「サークルの先輩に聞いたんだけど、変な先生なんだって。なんか、誰も居ない研究室で独りごと言って笑ってたり、自分の部屋でキノコ育ててたり」
ぴくり、と透陽のこめかみが震えた。キノコを育てている? いや、それよりも。
(まるでキノコ育ててちゃ変みたいな言い方! ひどい!)
ここは農を学ぶ場所。キノコだって、立派な農産品なのに。偏見は良くない。キノコばんざい。
声高々に叫びたい気持ちを、透陽はぐっとこらえた。ここで突然後ろを向いてキノコの素晴らしさを語ったところで、それこそ変人だ。
ごほん、と透陽は咳払いをして収めた。それを気に留める者も誰もいない。
ところでキノコを育てているからには、今日は菌学関連の教授だったっけ。透陽は思い立って、クリアファイルに持ち歩いていた資料を引っ張り出した。
第三回農学概論、内容は「森林利用学」だ。少し首を傾けつつも、確かにキノコは森に生えているものだし、と一応納得する。
そして担当教官の名前は、「紀伊嘉志和」と記されている。その文字を見つめたまま、透陽はフリーズした。
(紀伊、キイ……。って、昨日茶狐さんが!)
キイ殿。確かに昨日あった挨原茶狐はそう口走った。そして、その後、自分以外の「見える人」の話題になった。ということはもしや……。
どくんどくんと自分の心臓が音を立てているのがよくわかった。すっかり目が冴え、頭に熱い血が上る。
その時、さっと教室が静かになった。がたがたと椅子や姿勢を直す音が、そこかしこから起こりたつ。何かはわからぬまま、透陽もつられて姿勢を正した。
すると、穏やかかつ大げさな中年男性の笑い声が響いた。
「いやー、みんな真面目だねえ。まだ時間前だし、そんなに畏まらなくていいよー」
大股で教室に入って来た男は、朗らかな顔つきをしていた。見るからに人はよさそうだ。この人が紀伊教授、そしてこの人が「見える」かもしれない人。
左前方で備え付けのコンピュータをいじり、スクリーンを用意している人物。その顔を見ている内に透陽は気づいた。この人、初めて講義を受ける相手ではない。
入学時のガイダンスの際、附属の農場と研究林に付いての説明をしてくれた教授だ。思い出した。何やら色々な研究のことを熱く語っていたっけ。話が長いし、キノコの話は無かったし、ということで完全に記憶から抜け落ちていた。
(でも本当にこの人が?)
どこからどう見ても普通の人ではないか。疑いの目を向けながら、講義の始まりを待つ。何はともあれ、話を聞いてからだ。
ひそやかな喋り声が響く教室で、時計の針が静かに動いた。「第三回 農学概論」と大きく映し出されたスクリーンの隣で、紀伊教授が、ぽんぽんと手拍子を打つ。
「じゃあ『農学概論』、始めましょうか。えー、まず、僕は森林利用学研究室の紀伊嘉志和と申します。と言っても、あれだね、ガイダンスの時にみんな知ってるよね。あの時は途中で打ち切られちゃったからなあ、はっはっは」
教授の楽しそうな笑い声に混ざって、学生の皮肉めいた笑いが上がった。致し方ない、ガイダンスの場にいた誰もが「早く終われ」というオーラを放つ程度には冗長な話だったのだ。
スクリーンの映像が切り替わった。「森林とは」と、左上に無機質な文字が表示されていた。
「今日は森林利用学の紹介ということなのですが、まず『森林』とは何かという話から行きましょう。森林、木がたくさんあるだけの場所でしょ、とか思っているかもしれませんが、少々その認識は改めて下さい。森林には植物以外にもたくさん生き物が居ますね」
白紙だったスライドに、写真がいくつも浮き出て来る。木立の大きな画像の上に、丸く縁どられた他の生き物の写真。シカ、フクロウ、ヘビ、カミキリムシ、そして、キノコ。紅い傘に白い柄の、十人が十人「毒だろう」と思いそうな、派手派手しい外見。
ベニテングタケとは違うなあ、と透陽は思った。あれは白い模様が入っているはずだから。そう心で呟きながら、昨年秋に出会ったアマニタ・ムスカリア嬢の愛用している傘を思い出していた。赤い地に白い水玉模様の日傘、フリルのドレスを纏った彼女が持つと、メルヘンな香りが立ち上る。
「動物に、鳥類、爬虫類や昆虫。そして忘れてはいけないのが菌類、いわゆるキノコのこと。こうした森に住まう生き物たちや土壌のことも全てまとめて『森林』という環境を作り上げているのです」
紀伊教授の丁寧な口調、穏やかな物腰、そしてまだ始まったばかりだが至極真っ当な講義内容。普通だ。普通過ぎる森林学の教授だ。透陽はそう感じた。どうやら、期待は空振りらしい。
そう思ったのだが。
「ところで、皆さんキノコはお好きですかね? 結構面白い生き物なんですよねえ。僕は好きです。例えばこの赤いキノコ、『ドクベニタケ』って言うんですけど、ほとんど同じ見た目の『ドクベニダマシ』ってキノコもあるんですよね。肉眼的にはほぼ見分けが付かない。じゃあ顕微鏡も持っていないフィールドでどう識別しようか。決め手は味なんです」
突如始まったキノコトークに透陽は目を見開いた。耳が三倍ほど大きくなったような気がする程に聴覚もさえわたる。
「『ドクベニタケ』の方は辛いんですよねえ。もう、滅茶苦茶辛い。しかもカラシとかワサビとかじゃなくて、こう、化学的ないやーな辛さ。『ダマシ』は無味。見た目は一緒なのに、そんな違いがあるんですよ。あ、ちなみにこの写真のは正真正銘ドクベニタケです。僕が撮った写真ですからね。もちろん、確認しましたから! ああ、でも、安易に毒キノコかじったりしないでくださいね。危ないので」
やらねえよ。そんな学生の心の声が聞こえてきそうだった。透陽とて同じ思いだ。毒キノコに中るなんて、二度とゴメンだ。
なおかつ思う。毒キノコだとわかっていて口に入れるだなんて、キノコ好きでも相当のつわものだろう、と。専門家は格が違う。透陽は尊敬のまなざしを向けていた。
紀伊教授の独壇場はのんびりと進んでいった。基本は森林とその資源の利用に関することなのだが、はしばしに隙あらばキノコのことをねじ込んでくる。
生態系における分解者としてのキノコ、林業が廃れて里山が荒れた末のキノコ、資源としてのキノコ、脈絡なくキノコ。
最初は皆熱心に聞いていたが、次第に脱線したキノコトークのみは無視してペンを置く学生が半数ほどになった。透陽はむしろ、そちらの方を食い入るように聞き、メモしていたが。
そんな退屈な顔して充実していた講座は、「森林利用学研究室での研究テーマ」というスライドで幕を降ろした。ここで一つ驚いたのは、別にキノコが研究の中心ではないということ。唯一、菌類が関わって来そうなのが森林土壌に関わるテーマだった。
あれだけ熱く語っていたのに、専門ではない? だが、そうとうなキノコ好きであることには違いない。では、この人が見える人、なのか?
「では、用紙を配布しますので、いつも通りミニレポートを書いてください」
できた人から提出して解散だ、と教授は笑い、最前列の学生たちに用紙の束を配っている。
――ここで確かめるしかあるまい。透陽は前から流れて来た罫線の引かれた紙を見て、つばを飲んだ。ペンを握る手に、自然と力が籠った。
(うん……まあ、なんとか?)
書き上げたミニレポートを見渡す。レポートと言っても、書くことは講義の感想文だ。そちらはあたりさわりなく、キノコの話が面白かった、と書いた程度だ。
だが透陽の最終兵器は、余白の部分に合った。己と同類なら、これ見て察してくれるはず。「見える人」でなければわかりえない事実だ。
レポートの下部、白紙の部分に描いたのは、キヌガサタケ。実物を見たことは無いので、図鑑の姿――アミガサタケがレースを纏ったような形を書いてみた。その隣に、クイーン・シルキーの似顔絵を。
問題があるとすれば、透陽に絵心が無いと言うところか。我ながら下手くそだ、と彼は目を細めた。知らない人が見れば「この人何で頭にウンコ乗せてるの?」とでも言いそうな、子どもの落書きみたいになってしまった。
だが、苦手なものはどうしようもない。予防線として顔の横に「シルキー」と小さく記入し、透陽は荷物を持って席を立つ。
「お願いします」
にこにこと微笑んでいる紀伊教授に、レポート用紙を手渡した。奥羽透陽、一世一代の大博打だ。
もしもアタリなら、あのイラストを目にして、何かしらのリアクションがあるに違いない。もしハズレなら、落書きを指摘され書き直しになるだろうが。
さあ、どう出る。透陽はレポート面を流し読みしている教授の顔を食い入るように見つめた。
「はい、じゃあ、帰っていいよ」
「は、はい」
教授は終始、笑顔だった。透陽の後ろにいた他の学生に対しても、同じ接し方である。
拍子抜けしながら、彼は教室をとぼとぼと去って行った。せっかく、出会えたと思ったのだが、とんだ勘違いだったらしい。
はあ、と溜息が漏れる。
「ま、いいか。怒られなかったし、キノコの話は聞けたし」
無理やり自分を納得させ、透陽は次の講義の教室へと歩んでいった。
透陽が教養科目で睡魔と闘っている頃。
「いやはや……椿ちゃんと木蓮ちゃんからも聞いてはいたけど……ほんとに出会えるとはねえ」
興奮冷めやらぬ面持で、紀伊教授は先ほど受け取ったある一枚のレポートを見ていた。至って普通の感想文。その下の余白に落書きがしてあるのは、通常なら減点アンド指導ものだ。
が、そのへったくそな絵に含まれた、彼の学生の意図は痛いほどに伝わった。空調は少し涼しいくらいに調節してあるのに、変な汗がにじんでくる。
教授は、レポートに書かれていた学籍番号と氏名をメモして、シャツの胸ポケットにしまう。
次いで、問題のレポートを手にしてきょろきょろと自室を見渡した。
「んーと、ここに置いとけばさすがに気付いてくれるよね。こりゃ驚くだろうなあ。それにしてもシルキーさん、もうずっと会えてないなあ――」
ぶつくさと嬉しそうに呟きながら、紀伊教授は施錠して出ていく。
人っ子一人居ない彼の個人部屋の中、黒い布が張られた硝子ケースの上には、見せつけるように置かれた、「奥羽透陽」のレポート。
キノコ目録
ドクベニタケ/キノコの娘未発見
ベニタケ科のキノコ。赤い傘に白いひだと柄、典型的なキノコ型、と、まるで絵本に出てくるような毒キノコの外見。比較的よく見られる種。
実際に有毒。海外では死亡例あり。
味を見ると激辛。試す場合は絶対に飲みこまず、すぐに吐き出すこと。また、よく口をすすぐこと。
ドクベニダマシ/キノコの娘未発見
ドクベニタケのそっくりさん。見た目ではほぼ区別がつかない。
が、味を見るとこちらは辛くないので識別できる。
毒は無いらしいが、別に美味しくも無く、食べるほどのものでもない。
二種以外にも傘が赤く柄が白いベニタケは多数あるため、識別はやや難しい。




