亡霊 ――名簿に浮かぶ、前世の影
逃げ延びてから、幾日が過ぎていたか、正確には覚えていない。荒れ地を彷徨ううち、頭の奥で低い声が響いた。
——生体反応を検知。距離を保ったまま追跡しています。
振り返っても、何も見えなかった。それでも、視線だけは確かに感じる。恩寵会の追っ手か。とっさに息を殺し、崩れた塀の陰に身を潜めた。だが、いつまで待っても、詰め寄ってくる気配はなかった。
その日から、気配は絶えず付いてきた。物陰に隠れても、夜通し歩いても、一定の距離を保ったまま離れない。二日、三日と経つうち、違和感が募っていった。恩寵会の追っ手なら、とっくに仕掛けてきているはずだ。そう思い直しても、正体の知れない気配を無視できるはずもなかった。
三日目の夜、崩れた壁の陰に身を寄せ、火も焚かずに休んでいたときだった。
——複数の生体反応、接近中。武器を保持しています。
体を起こし、闇の奥へ目を凝らす。足音が、はっきりと近づいてきていた。逃げるより先に、口が動いていた。
「何の用だ」
誰何する声に、足音が止まった。しばらくの沈黙の後、低い声が返ってくる。
「……気づいてたか。俺はジンだ。灰原のレジスタンスを率いてる」
——敵性ではないと判断します。
今更かよ。内心で毒づいたが、口には出さなかった。名乗りに、わずかに拍子抜けした。
「二日も三日も後をつけられてりゃ、嫌でもな。何の用だ」
「妙な強化兵が、恩寵会に追われてるって報告を受けてな。あの化け物との戦い、遠くから見させてもらった。ただ暴れてる強化兵とは、動きが違ったな」
「お前、強化兵なのか」
「たぶんな」
即答はできなかった。それでも、誤魔化す理由もない。
「自分でも、よく分かってねえ。ただ、左肩に烙印を押されてる。だから、そうなんだろうよ」
答えに、闇の向こうで幾つかの声が短く交わされた。声を潜めていたが、切れ切れに聞き取れた。
「……意識ははっきりしてるみてえだ」
やがて、ジンの声が向き直った。
「ついてくるか」
「行くあてもねえからな」
短く答えると、闇の中の気配が動いた。
「言っとくが、妙な動きを見せた瞬間、迷わず撃つ。それだけは覚えとけ」
「好きにしろ」
答えると、両腕を背後に回された。縄が、手首に食い込む。念のためだと分かっていたので、抗う気にもならなかった。
灰原の外れ、崩れた鉄橋の下に、その入り口はあった。拘束されたまま、排水路の奥へと引き立てられていく。奥まった一角は、旧文明の設備を流用した居住区になっていた。粗末な明かりの下、十数人の人影が身を寄せ合っている。誰もが痩せていて、疲れた目をしていた。
焚き火の明かりの下、ようやく声の主の顔が見えた。刈り込んだ白髪交じりの短髪、頬から顎にかけて走る古い刀傷。左手の薬指が、根元から欠けていた。ジンは焚き火の傍らにどっかりと腰を下ろし、木の椀を手に取ると、また視線をこちらに戻した。
「名前は」
「レン」
「どこの村だ」
答えかけた口を、ジンの一言が先に塞いだ。
「……待て。レン、だと? カガリ村の生まれか」
思わず息を呑んだ。
「……なんでそれを」
「よくある話でな。カガリ村の神主が、フジツの手の者に殺されたそうだ。村の連中を庇って、自ら名乗り出た挙句にな」
胸の奥が、冷たく締めつけられた。
「その後、村はどうなった」
「大人しく供出を続けてるらしい。表向きは、な。だが、神主を殺された恨みは、そう簡単に消えるもんじゃねえ」
知らなかった。あの日、村を出て以来、カガリ村がどうなったのかを確かめる術はどこにもなかった。シゲルの死のその先を、この男の口から聞かされるとは思ってもみなかった。
「レン、って名前も、カガリ村から連行された何人かのうちの一人、強化兵にするために連れて行かれた男の噂とも符合する。そうか……お前が」
「その神主とは、家族みたいなもんだった」
短く答える。それ以上は、うまく言葉にならなかった。
しばらくの沈黙の後、ジンは低く息を吐いた。
「疑って悪かったとは言わねえ。強化兵ってのは、本当に厄介な代物だ。ほとんどが、まともに口も利けなくなる。だが、今の顔を見りゃ、噂と繋がりのある人間だってことくらいは分かる」
「なら、信じなくていい。ただ、恩寵会を潰したいのは俺も同じだ」
「フジツを、か」
「ああ」
ジンの口元が、初めてわずかに歪んだ。
「フジツを恨んでる奴は、この世の中にごまんといる。だが、領主を相手取るには数が要る。俺たちだけじゃ、正面からぶつかっても勝ち目がねえ。まだ組織の中に残って、飼い犬のふりを続けてる奴らもいる。中の情報を、少しずつこっちに流してくれる連中だ」
「内通者、か」
「そうだ」
拘束が解かれる。腕をさすりながら、周囲を見回した。疑いの目を向けてくる者もいれば、無関心にこちらを見ている者もいる。焚き火のそばに腰を下ろすと、隣にいた若い男が、遠慮がちに水の入った椀を差し出してきた。
「……ありがとよ」
短く礼を言い、受け取る。
「な、本当に、正気なのか。強化兵で」
「見ての通りだ。信じるかどうかは、お前次第だな」
軽く肩をすくめると、男はそれ以上何も聞かず、目を伏せた。
「――信じるかどうかは、俺次第、ね」
冷めた声が割り込んできた。焚き火の反対側、痩せた体つきの男が、こちらを睨むように見ていた。
「ジン、正気か。強化兵をここに置くなんて」
「レンは違う」
「違う根拠は? そいつが飼い犬じゃねえと、どう分かる」
「二日も三日も追っても仕掛けてこなかった。それに、あの化け物との戦い方も見たろう」
「多少うまく立ち回れるから何だってんだ。仕込まれた芸かもしれねえ」
痩せた男の声には、剥き出しの敵意があった。誰かに向けているようで、その実、別の何かを見ているような目だった。
「……俺は、恩寵会に家族をやられた奴を何人も見てきた。あんたも、そうなんだろ」
低く問うと、男の肩が微かに強張った。答えは返ってこなかった。
「疑いたきゃ疑えばいい。だが、決めるのは俺だ」
ジンが割って入る。低いが、有無を言わせない声だった。男はそれ以上言い返さず、視線だけをこちらに残したまま焚き火の向こうへ引っ込んだ。
その夜、灰原領。フジツ。そこに至るための、初めての足がかりが、今できたところだった。それでも、拭いきれない疑いの目が一つ、確かに残ったままだった。
翌日の昼、隠れ家に一人の男が滑り込んできた。薄汚れた外套の下、恩寵会の使い走りらしい腕章が覗いている。
「ジン、頼まれてた品だ」
懐から取り出した紙包みを、無言で差し出す。ジンが受け取り、中身を検める。名簿らしい書類の束と、屋敷の見取り図らしい紙が、一緒くたに包まれていた。
「儀式の間、檻、詰所の配置。だいたいの構造が分かる。名簿も、頭目からハンドラー班長まで一通り揃ってる」
「中の伝手から回してもらった品だ。これで全部か」
「ああ。今日はもう戻る。長居はできねえ」
短くそれだけ言うと、男は来たときと同じように、足早に隠れ家を出ていった。
「手分けして読むぞ。使えそうな情報があれば声を出せ」
ジンの号令で、何人かが書類の束を分け合う。カガリ村の名だけは、確かめておきたかった。束の中から供出記録を探し出し、目を通し始める。月々の出荷量と、戻ってくるはずの支給物資。数字を目で追ううち、指が止まった。出した量に対し、戻ってきている分が明らかに少ない。誰かが、途中で抜いている。
「……くすねてやがる」
思わず漏れた声に、ジンが覗き込んできた。
「カガリ村の供出と支給、数が合わねえ。誰かが上前をはねてる」
「驚くほどのことでもねえ。あそこの連中は、平気でそういうことをやる」
短く吐き捨て、ジンは興味なさそうに視線を逸らした。腹の底が、じわりと熱を持つ。神主を失っただけでなく、その上、掠め取られてもいた。村の連中は、それを知っていたのだろうか。
「これ、領の役職者一覧みてえだな」
隣に座った男が呟いた。覗き込むと、名前と役職がずらりと並んだ紙だった。一番上の欄に、目が留まった。
——領主 フジツ・ヒトシ
姓名の両方が記された、唯一の欄だった。
「領主、名前まで残ってんのか」
「幹部は姓をもらった時点で、大抵はそっちだけで呼ばれるようになる。名前まで書き残してあるのは珍しいけどな」
ジンが横から覗き込みながら答えた。
「ヒトシ、ね」
呟いた瞬間、頭の奥に何かが引っかかった。
——ヒトシ。
その響きに、覚えがあった。理由は分からない。ただ、耳にした瞬間、腹の底が微かにざわついた。うんざりした顔が、脳裏をよぎった。輪郭も、目鼻立ちも、はっきりとは思い出せない。苛立たしいほど耳障りな笑い声と、『仁』という呼び名の記憶だけが、頭の隅にこびりついていた。あの、槽の中で見た光景の中心にいた誰かと、同じ名前だった気がする。
紙を持つ指先が、微かに震えていた。ただの偶然だと、頭では分かっていた。それでも、指先の震えだけは、すぐには収まらなかった。
「……なんだよ、これ」
思わず声が漏れた。
「知り合いか」
ジンが怪訝そうに聞いてくる。
「いや。ただ、聞いたことのある名前だと思っただけだ」
「珍しくもねえだろ、そんな名前」
「だな」
軽く流して、書類を脇に置いた。名前が同じだったというだけで、さっきの妙な胸騒ぎと結びつけるのは、都合が良すぎる考え方だった。
「屋敷は、儀式の間・詰所・檻・小さな物資庫くらいしかない。兵の大半は、境界の防衛拠点に張りついてる。表の見張りは八人。裏手は輪をかけて手薄だ。だが、屋敷が騒ぎになりゃ、近くの兵站倉庫からも応援が回ってくる」
ジンの声に、初めて笑みが混じった。
「そっちを先に叩く。派手にな。今夜、動く。人数は俺を入れて20人。屋敷には俺とレンを含めて14人、兵站倉庫には6人」
「20人で、あの人数に勝てんのか」
思わず口にすると、ジンが図面から顔を上げた。
「正面からぶつかりゃ、まず負ける。だが、あそこは領制だ。防衛拠点の兵を動かすには、頭目の許可がいる。夜中に本部の許可なんざ、まず間に合わねえ。屋敷の守りさえ崩せりゃ、勝ち目はある」
「レン、お前と俺、それにもう一人。物資庫から最短ルートでフジツの部屋まで行く。残り11人は詰所の陽動だ」
「分かった」
短く頷く。役割の重さより、ようやく動けることへの高揚のほうが勝っていた。
隣に座っていた、痩せた体つきの男が図面を覗き込みながら呟いた。夜、焚き火越しに睨みつけてきた、あの男だった。
「俺の弟、ケンタがまだ檻の中にいるかもしれねえ」
誰に言うともなしの声だった。かける言葉が見つからず、ただ黙って頷いた。
「……お前、あの化け物との戦いで見せた動き。あれは本物か」
「本物だ。武術の心得がある。それだけだ」
「そうかよ」
短い返事だったが、昨夜のような刺々しさは、幾分か薄れていた。
「準備、手伝うぞ」
声をかけると、武器の手入れをしていた男が顔を上げた。刃の欠けた山刀を無言で差し出してくる。受け取り、砥石で刃を研ぎ始めた。
「なあ、俺のこと、まだ疑ってんのか」
砥石を動かす手を止めないまま、隣で槍の穂先を確かめているジンに声をかけた。
「疑ってるさ。だが、それとこれとは別だ。信用は、口約束じゃなくて行動で示せって言ったろ。お前は今のところ、それを裏切ってねえ」
短い言葉だったが、それで十分だった。にやりと笑い、また刃に意識を戻す。
日が沈み、隠れ家に夜の色が満ちる頃、ジンが立ち上がった。
「時間だ」
その一言で、誰もが無言で得物を手に取った。荷を背負い、顔に煤を塗る。
「行くぞ」
一団は隠れ家を後にした。フジツの住む屋敷まで、廃道を伝う夜の道が続いている。途中、兵站倉庫へ向かう6人が、無言のまま別の道へと分かれていった。
隊列の先頭を歩くジンの背中を見ながら、砥いだばかりの山刀を腰に差し直す。二十人で、あの人数と守りに勝てるのか。ジンの言葉を信じてはいても、拭いきれない不安が胸の奥に居座ったままだった。領主フジツ・ヒトシ。まだ顔も知らない相手に、俺は歩き出しながら改めて意識を向けた。同じ名前という、ただの偶然かもしれないもの。それでも、今夜その正体に、一歩近づくことになる。
えーあい




