活路 ――膂力の壁に、一矢を報いる
拳が、鼻先すれすれを掠めていった。
とっさに転がるようにして避けた拍子に、頭の芯にあった靄が、少しだけ晴れた。土埃にまみれた頬が、じくじくと痛む。それでも、意識だけはまだ繋がっていた。
——力に、力で応えるな。拍子を外せ。
ゴウジ爺さんの声が、記憶の底からようやく繋がった。木刀を構えるたび、耳にたこができるほど聞かされた言葉だった。
まだ子供だった頃、体格で倍近い大人相手に稽古をつけられ、力任せに弾き飛ばされてばかりの夜があった。悔しさに木刀を握り直す自分の頭を、爺さんはがしがしと撫でた。
「力比べで敵わねえ相手に、力で挑むんじゃねえ。相手の力を、相手自身に返してやれ」
あの時は、ただの負け惜しみのような教えにしか聞こえなかった。
だが、これまで対峙してきたのは、人だった。拍子を外すも何も、そもそも拍子と呼べるものが、この化け物にあるのだろうか。
疑いながらも、立ち上がる。両膝に力を込め、震える体を叱咤した。指の先まで、鈍い痺れが残っている。それでも、動く。まだ動く。
大男が、二撃目を振りかぶる。避けるのではなく、今度はぎりぎりまで引きつけた。拳が頬を掠める寸前、半身をひねって躱す。風圧だけで、頬の皮膚が痺れた。
「がるるる……!」
苛立ったような唸り声が、喉の奥から漏れた。三撃目は、さらに大振りになった。狙いも、精度も、目に見えて崩れていく。振り抜いた拳の余韻で、大男自身の体が、僅かによろける。
——これだ。
外れるたびに、苛立ちが力に変わる。力が増すほど、踏み込みは大きくなる。大振りになるほど、隙も広がっていく。単純な理屈だった。単純すぎて、これまで気づけずにいただけだった。
好機だと、勇んで踏み込んだ。だが、まだ早かった。振り抜いた拳の戻りに、逆の拳が続けざまに飛んでくる。二段目の存在を計算に入れていなかった。かろうじて腕でいなしたが、骨まで軋む衝撃に体が半回転した。
——焦るな。数を、稼げ。
自分に言い聞かせ、間合いを立て直す。紙一重で躱すことを、繰り返した。躱すたび、大男の息が荒くなる。振りかぶりが、さらに大きくなる。踏み込む足も、次第に流れるようになっていった。ずり落ちかけた目元の布が、大きく揺れる。覗く白濁した目が、苛立ちに血走っていくのが分かった。四撃目、拳が空を切った反動で体勢が崩れる。大男の巨体が、半歩分無防備に泳いだ。
その膝の裏へ、躱しざまに蹴りを叩き込む。骨に響く硬い感触が、足の裏から伝わった。だが、それだけでは崩れない。もう一度、また一度。表皮を裂くほどの威力はなくとも、繰り返せば効いた。踏ん張りが、目に見えて鈍っていく。
代償はあった。躱しきれなかった一撃が、二の腕を掠める。骨まで痺れる衝撃に、視界が白く滲んだ。それでも、足だけは止めなかった。
「うおおおおっ……!」
苛立ちを吠えに変え、大男が渾身の一撃を振りかぶった。これまでで一番の大振りだった。振り遅れた腰が、勢いのまま流れる。喉の奥から漏れる唸りが、獣そのものの咆哮に変わっていた。
好機だった。
半歩、踏み込む。拳の内側に体を滑り込ませ、狙いを違えず膝の裏へ蹴りを突き入れた。何度も削られていた場所だった。大男の巨体が、ぐらりと傾ぐ。崩れた体勢へ、ゴウジ爺さんに叩き込まれた投げの型で肩から地面に叩きつけた。
それでも、なお立ち上がろうとする。這うようにもたげた頭が、こちらを睨んだ。ここで仕留めきれなければ、また振り出しに戻る。息も絶え絶えのまま、渾身の力で喉元へ拳を突き入れた。
くぐもった音と共に、大男の巨体が、大きく傾いだ。
「あ、ちょ……待って! こっちはダメだって!」
すぐそばで、ハンドラーが上ずった声を上げた。倒れ込んでくる巨体から逃げ遅れ、そのまま下敷きになる。「ぶべらっ」という声にならない悲鳴が、一瞬だけ響いて途切れた。
荒い息を吐きながら、その場に膝をつく。指先一つ動かすだけで、鈍い痛みが走った。全身、殴られなかった場所を探す方が難しいほどだった。汗と土埃にまみれた喉の奥から、乾いた咳が漏れる。
——化け物だ。
とっさにそう思った。それでいて、自分もまた似たようなものに変えられたのだという事実が、遅れて胸を刺した。技で崩したとはいえ、まともに喰らった一撃はいくつもある。人だった頃なら、その一撃だけで骨まで砕かれて、死んでいただろう。
勝ったという実感より先に、指先の震えが治まらなかった。力で押し切ったわけではない。ただ、辛うじて拍子を外し続けただけだ。次にもう一体現れたら、同じ手が通じる保証はどこにもない。
ふと、離れた瓦礫の陰で、何かが動いた気がした。目を凝らしたが、影のようなものが揺れただけで、すぐに見えなくなった。確かめている余裕はなかった。
車の運転台から、くぐもった音が漏れている。無線か何かだろう。誰かが応答を呼びかけているようだった。長居はできない。
立ち止まっている暇はなかった。震える足を叱咤し、荒野を歩き出す。
どれだけ歩いたのか、東の空が白み始めていた。夜が明ければ、この体はどこにいても目立つ。荒野の先、崩れた建物の輪郭が朝靄の中に浮かんでいるのが見えた。
あそこなら、日が暮れるまで身を隠せるかもしれない。
足を引きずりながら、その影を目指した。
AIしか勝たん




