追手 ――強化兵との戦い
目を覚ますと、冷たい床の上だった。
体を起こそうとして、違和感に気づいた。腕に、いつもの倍近い重みがある。見下ろすと、以前より一回り太くなった筋肉が、皮膚を突き上げるように盛り上がっていた。触れると、石のように硬い。指先に力を込めるだけで、床の石畳に爪の跡がついた。左肩には、まだ引きつるような熱の残る、小さな焼き印のような痕があった。
自分の体が、自分のものではなくなっている。
周りを見回すと、鉄格子に囲まれた狭い部屋だった。藁の敷かれた床、隅に置かれた欠けた水瓶。窓はなく、天井近くの小さな穴から、わずかな光が差し込むだけだった。
格子の外から、声が聞こえた。
「また一体、仕上がったな」
「今回のは、当たりかハズレか」
「まあ大方、いつも通りだろ。九割方は、まともにモノを考えられなくなる」
「残りの一割弱は、一見普通に見えるんだよな。あれはあれで、始末に負えねえ」
足音が遠ざかっていく。その言葉に、心臓が凍りついた。
——強化兵。
自分がその名で呼ばれる存在になったことを、遅れて理解した。あの槽で受けた処置。焼けるような痛み。あれが、この体を作り替えたのだ。
自分の頭は、本当にまだ正気なのか。指を折って数を数えてみる。今日の日付、自分の名前、この村までの道のり。一つ一つ、記憶は明瞭だった。それでも、その記憶自体が壊れた頭の見せる錯覚でないと、誰が保証してくれるわけでもなかった。
膝を抱え、しばらくその場から動けなかった。それでも、いつまでもこうしてはいられない。震える息を吐き出し、手を握りしめる。
格子の外を、ハンドラーと呼ばれる男たちが行き来していた。正気を保ったまま暴れる強化兵は扱いにくいと厄介がられ、逆に頭のおかしくなった者は大人しく従う。そのぶん監視も緩くなるらしいと、漏れ聞こえる会話から読み取れた。
——ならば、狂ったふりをすればいい。
考えついた瞬間、腹の底が冷えるのを感じた。褒められた考えではない。だが正気だと知られれば、より厳重に監視される。逃げる隙すら与えられないまま、一生この檻の中で終わるだろう。
その日から、演技を始めた。意味のない言葉を呟き続け、壁に頭を打ちつける真似をした。誰かが近づくたびに怯えたように後ずさり、時折り甲高い笑い声を上げた。
「こいつもハズレだな」
見回りの男が、格子越しにそう吐き捨てるのを聞いた。狙い通りだった。数日が過ぎ、監視の目は日を追うごとに緩んでいった。最初は毎回二人で来ていた見回りが、いつしか一人になった。その一人も、格子越しに一瞥をくれるだけで、閂を確かめようともしなくなっていた。
その隙を、逃さなかった。
夜、見回りが途切れた一瞬を狙い、格子の隙間から腕を伸ばす。強化された体の力を使えば、閂を外すことは難しくなかった。息を殺し、闇に紛れて通路を進む。裏口らしい戸を、体当たりで押し破った。
外に出た瞬間、乾いた夜風が頬を撫でた。振り返る余裕はなかった。ただ、闇の中を駆け出した。
「逃げたぞ! 新造品が一体、逃げた! 殺すな、生かして捕らえろ!」
背後で、ハンドラーの怒鳴り声が響いた。荒野を、ひたすら走った。方角も分からないまま、足だけを動かし続ける。息が上がり、喉が焼けるように痛んだ。
不意に、獣のものとは違う重い唸りが、後方から追いついてきた。振り返った瞬間、二つの光が、まっすぐこちらを射抜く。
音は、みるみる近づいてきた。
荷台に、鉄格子を組んだ檻を積んだ車だった。牛小屋を丸ごと荷台に載せたほどの大きさがある。檻の中で、大きな影がゆっくりと身じろぎした。運転台の屋根からは、天に向かって細長い鉄の棒が突き出していた。その先端に、男が一人しがみついている。風に吹かれながら、周囲をぐるぐると睨めまわしていた。旧文明の遺物なのだろう、腹に響くような唸り声を上げながら、荒れ地を土埃ごと蹴立てて迫ってくる。
走って逃げ切れる速さではなかった。
車が横合いから回り込み、行く手を塞ぐように急停止した。土埃が、もうもうと舞い上がる。鉄の棒から飛び降りた男と、荷台から降りてきたもう一人が、左右から得物を構えて近づいてきた。
「よぉ坊主、随分と手間かけさせてくれるじゃねえか」
「そんなに息切らして、みっともねえなぁ、おい」
にやにやと笑いながら、じりじりと間合いを詰めてくる。運転台から降りてきたハンドラーが、鎖を片手に、面倒くさそうな声を上げた。
「大人しく帰ってきゃ、可愛がってやったのによぉ。しゃあねえ、少し痛い目みな」
言い終わるより早く、二人が同時に踏み込んできた。振り下ろされた鉤を片手で受け流し、懐に入り込む。腹に叩き込んだ拳に、男が「ぐぼぁっ」と潰れた声を上げて崩れ落ちた。もう一人が投げてきた網を横に跳んで躱し、間合いを詰める。振り上げた腕を掴んで捻ると、「んぎゃあっ」と情けない悲鳴を上げ、その場に膝をついた。
「……っ、化け物が」
倒れた男の一人が、呻くように吐き捨てた。
「舐めた真似を。おい、行け」
ハンドラーが、檻の閂を乱暴に外した。鎖を引かれ、影がのそりと荷台から降りてくる。
肩の高さが、俺の頭よりなお高い。人の形をしているはずなのに、肩幅は戸口をまともに通れそうにないほど張り出していた。革の作業着は左右で色が違い、片方だけ袖が千切れて、瘤のように盛り上がった二の腕が剥き出しになっている。左肩には、俺のものより一回り大きな焼き印の痕があった。目の上には、ずり落ちかけた布が巻かれている。片方の隙間から覗く目だけが、白く濁って車の灯りを弾いていた。踏み出す足の下で、乾いた土が石ごと軋んで沈んだ。
「噛み殺せ」
短い一言に、鎖が完全に外される。
大男が、両腕を振り回しながら突っ込んできた。とっさに受け止めた拳の衝撃に、体ごと吹き飛ばされる。地面を転がりながら、息が詰まった。子供が癇癪を起こして殴りかかってくるような、ただただ力任せの一撃だった。それでいて、込められた力だけは桁違いだった。
立ち上がる間もなく、二撃目が振り下ろされる。とっさに転がって躱すと、拳が地面を割った。土くれが顔に降りかかる。三撃目は蹴りだった。狙いも重心も定まらない、大振りな一蹴り。かろうじて腕で受けたが、骨まで痺れるような衝撃に、体が半回転して転がった。
息が上がり、視界が霞んだ。まともに喰らい続ければ、いずれ潰される。頭のどこかで、はっきりとそう理解していた。
それでも、何もせずにいれば、ただ潰されるだけだった。
拳が引き際に見せる、ほんのわずかな溜め。ゴウジ爺さんに叩き込まれた間合いの読みで、それだけは辛うじて拾えた。踏み込みながら、拳の内側に体を滑り込ませる。人間相手なら、この一瞬で懐に入り、勢いごと投げ飛ばせるはずだった。
体が浮いた。
だが、次の瞬間には弾き飛ばされていた。込めた力を返す前に、大男の腕の重みだけで押し切られたのだ。受け流すどころか、触れた腕ごと持っていかれる。背中から地面に叩きつけられ、肺の空気が一息に抜けた。
——技が、乗らない。
焦りが、初めて胸の奥に差した。人相手なら十分すぎる技も、この体格と力の前では、ただの接触でしかなかった。
もがくように立ち上がり、隙を見て肘への一撃を叩き込む。狙いは正確だった。骨を軋ませる手応えのはずが、返ってきたのは分厚い肉の弾力だけだった。関節ごと極めるつもりだった一撃は、脂肪と筋肉の層に沈んで消えた。
「……嘘だろ」
掠れた声が、口から漏れた。一番の得手が、通じない。
大男の拳が、また唸りを上げる。避けきれず、肩口を掠めた一撃に視界が白く弾けた。地面に転がりながら、口の中に鉄の味が広がる。立ち上がろうとした膝が、笑うように震えた。
——ここで、終わるのか。
薄れる意識の底で、聞き覚えのある声が微かに響いた。稽古場でいつも聞いた、ゴウジ爺さんの声だった。
——力に、力で応えるな。
その先の言葉は、思い出せなかった。
振り上げられた拳が、月明かりを遮る。歯を食いしばり、霞む視界の中でそれを見上げた。
まだ、終われない。
AIなんじゃよ




