想起 ――いじめられて死んだ記憶が蘇る
どれくらい車両に揺られていたのか、もう分からなかった。
荷台の扉が開くと、外の光が刺すように目を突いた。引きずり出された先は、旧文明の遺構を組み替えたらしい灰色の建物だった。腕を縛られたまま、薄暗い通路を歩かされる。ひんやりとした空気に、鼻を刺すような薬品の匂いが混じっていた。壁際には、鎖につながれた人影がいくつも蹲っている。誰も顔を上げなかった。目が合うことすら、恐れているようだった。
一緒に連れてこられた村の男たちも、一人また一人と別の通路へ引かれていく。何が待っているのかは分からないが、少なくとも自分と同じではないらしい。誰かが小さく嗚咽を漏らすのが聞こえた。声をかけたかったが、両脇を固める男たちがそれを許さなかった。
たどり着いたのは、天井の高い広間だった。
壁は打ちっぱなしの灰色で、いくつもの配管が這うように走っている。所々に、旧文明の頃のものらしい文字が消えかけたまま残っていた。天井近くの明かり取りから差し込む光が、埃っぽい空気に筋を作っていた。中央には、大人が三、四人並んで入れそうな大きさの円形の槽があった。縁は黒ずんだ金属で、中を満たす液体はどろりと粘度を帯び、鈍い緑色に発光している。近づくにつれ、噎せ返るような甘い匂いが鼻を突いた。ネクタルだ。表面が緩やかに波打つたび、光の筋が液の中を尾を引いて泳いだ。まるで、それ自体が生きて呼吸しているようだった。
槽の周りには、革の防具を着けた男たちが数人、無言で立っている。腰には、鞭のような得物を提げていた。目つきに知性の光は薄く、ただ命じられた仕事をこなすだけの機械的な立ち姿だった。これから先、あの男たちが自分を檻に閉じ込め、飼い慣らす側に回るのだろう。そんな考えが、恐怖の合間にふと浮かんだ。
槽を囲むように、松明のような明かりが並んでいた。その炎の向こうに、何人かの人影があった。
一人は、体格のいい女とその周りに立つ幾人かの子ども。着飾った様子から察するに、それなりの地位にある者の家族なのだろう。もう一人は、恰幅のいい男で、腕を組んだままそわそわと落ち着きなく足を動かしている。顔色が優れないのが、遠目にも分かった。誰も名乗らない。声もかけられない。ただ、遠巻きにこちらを見ている、それだけだった。
槽の前に、フードを目深に被った人影が立っていた。丈の長いローブに身を包み、顔はおろか、手先すら覆い隠している。金の刺繍が施された裾が、動くたびに重たげに揺れた。
「フジツ様……」
近くに控えていた男の一人が、そう呟くのが聞こえた。それ以上の名は、誰の口からも出なかった。
フードの人物——フジツ様と呼ばれるその何者かが、両手を広げる。低く、聞き取れない言葉を紡ぎ始めた。祈りとも呪詛ともつかない声だった。周りに控える者たちが、一様に頭を垂れる。奇妙な静寂が、広間を満たしていく。
その声は、意味の分からない単語を連ねながら、時折り高く裏返った。まるで台詞を練習した役者のような、芝居がかった抑揚だった。それでも、この場にいる誰もが疑うことなく頭を垂れている。その様子が、かえって不気味だった。
「よせ……!」
暴れようとしたが、後ろから押さえつける手の力は緩まなかった。両脇を屈強な男に固められ、槽の縁まで引きずられていく。爪先が石床を擦り、悲鳴のような音を立てた。
「離せ! 離せよ……!」
叫んだところで、誰も止めなかった。
槽の中に体を沈められる。生温かい液体が、服の上から染み込んでくる。次の瞬間、皮膚が焼けるような感覚が全身を貫いた。
「あああああ……!」
声にならない悲鳴が漏れた。液体が、毛穴の一つ一つから体の中に染み入ってくるようだった。骨が軋み、筋が引き攣れる。まるで内側から作り替えられていくような、耐え難い感覚だった。目の奥で光が明滅し、耳鳴りが頭蓋の中で反響する。
腕の筋が、内側から膨らんでいくのが分かった。皮膚の下で何かが蠢き、形を変えていく。爪の先まで熱が届き、そこから焼け焦げるような痛みが這い上がってくる。悲鳴を上げ続けたせいで、喉の奥が裂けたように痛んだ。それでも、声を止めることができなかった。
視界がぐにゃりと歪む。自分の手が、自分のものではないように感じられた。指の関節が軋み、骨格そのものが組み替えられていくような、鈍く重い衝撃が体の芯を貫いていく。液体の中で、体が勝手に痙攣した。もう、自分の意思では何も制御できなかった。
もがきながら、フードの人物を見た。
その口元だけが、フードの下からわずかに覗いている。震えるような笑みが浮かんでいた。愉悦に満ちた、恍惚とした吐息が漏れる。
「ああ……いい、実にいい……」
うわ言のような呟きが、槽の縁越しに届いた。何の感情かは分からない。ただ、目の前で苦しむ誰かを、心の底から楽しんでいるということだけは分かった。何かに酔いしれるように、両手を小さく震わせている。
「もっと、もっと啼け……お前のような目障りな奴は、こうして苦しむのがお似合いだ」
フードの奥から漏れる声には、隠しきれない嗜虐の色があった。誰に向けた言葉なのか、朦朧とする頭では判断がつかなかった。ただ、その響きだけが、耳の奥にこびりついて離れなかった。
視界の端で、あの恰幅のいい男が、口元を手で覆って目を逸らすのが見えた。子どもたちを抱えた女は、興味なさそうに視線を逸らしている。誰一人として、槽の中の人間を人として見ていなかった。
痛みが限界を超えた。意識が、白く塗り潰されていく。
——ふざけるな。
最後にそう思った。指先が槽の縁を掻いたが、力は入らなかった。視界が暗転する。
暗闇の中、何かが弾けた。
見知らぬ光景が、次々と押し寄せてくる。
蛍光灯の白い光。上履きの並んだ靴箱。誰かの笑い声。机の上に置かれた、見覚えのない教科書。ページの間に挟まれた、汚い言葉の書かれた紙切れ。
——何だ、これは。
自分の記憶とは思えなかった。見たこともない場所、着たこともない服。それなのに、まるで自分がそこにいたかのような、生々しい感触だけがある。熱に浮かされて見る夢か、それとも昔、誰かから聞いた話が形を変えて出てきただけなのか。判断のしようがなかった。
狭い教室。机を囲む幾つもの顔。誰かが、助けを求めずにいる。担任らしき教師は、見て見ぬふりをしていた。殴られ、笑われ、金を奪われる。それでも、耐え続ける日々が続いた。
耐えれば、いつか終わる。そう思っているらしい誰かの気配が、光景の奥から伝わってくる。誰かが気づいてくれると、心のどこかで信じているようだった。
だが、終わらなかった。日を追うごとに、それはひどくなる一方だった。教室の隅や廊下の陰、誰も見ていない場所を選んで、笑いながら繰り返される。助けを求める声は、いつしか聞こえなくなっていた。
ひときわ鮮明な光景が、続けて浮かんだ。放課後の教室。誰もいないと思っていた場所に、いつもの連中が待ち構えている。机を蹴られ、床に転がされ、頭上から笑い声が降ってくる。財布の中身を全部出せと言われ、震える手で従う様子が見えた。抵抗すれば、もっとひどい目に遭う。そのことを、体で覚えているらしかった。
帰り道、教師に呼び止められる場面もあった。何かあったのか、と聞かれている。何でもないです、と答える声が返る。噓だと分かっていたはずなのに、それ以上は何も聞かれなかった。大人は、誰も本気で助けようとはしなかった。
最後に浮かんだのは、非常階段だった。冷たい手すりの感触。背中に、誰かの手のひらの重みがあった。突き飛ばされたと分かるより早く、体はもう宙にあった。見下ろした地面は、遠く小さく見えた。誰にも気づかれず、誰にも惜しまれず。それが、その光景の結末だった。
落ちていく間に浮かんだのは、恨みでも後悔でもないようだった。ただ、疲れた。それだけの感情が、伝わってくる。何もかもに疲れ果てて、抗う気力さえ残っていなかったのだろう。
——これは、自殺なんかじゃない。
薄れゆく意識の中で、そう思った。理由は分からない。それでも、殺されたのだという確信だけが、妙にはっきりと胸の中に残った。
誰かの顔が、光景の奥に浮かびかけた。輪郭も、目鼻立ちも、ひどく曖昧なまま。中心にいた、一番大きな笑い声。掴もうとした瞬間、それはまた闇の中に溶けて消えた。
これが何だったのか、今は考える余裕もなかった。ただの悪い夢だと、そう思い込むことにした。
意識が、再び深い暗闇に沈んでいく。
痛みも、怒りも、何もかもが遠のいていった。ただ、あの光景の中にあった理不尽さの感触だけが、消えずに胸の奥にこびりついていた。
どれだけの時間が経ったのかも分からない。槽の中で、体はまだ小さく痙攣を続けていたはずだった。それでも、意識だけは深い水底に沈んだまま、二度と浮かび上がらないかのように静まり返っていた。
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