身代わり ――村を守るため、罪を被る
家に戻ってからも、寝床に横になる気にはなれなかった。壁にもたれて座り込み、暗闇をただ見つめる。布を巻いた傷口が、脈を打つたびに熱を持った。
今日一日で、何もかもが変わってしまった。朝はいつも通りだったのに、夜にはシゲルがいない。人を殺した手で、こうして一人、暗闇に座っている。
——逃げるべきかもしれない。
一瞬よぎった考えを、すぐに打ち消した。スズを置いて村を出るなど、考えられなかった。
戸の外で、足音がした。
「レン、起きてるか」
ゴウジ爺さんの声だった。戸を細く開けて、心配そうにこちらを覗き込んでくる。
「起きてるよ」
「眠れねえなら、無理しなくていい。今日は、いろいろあったからな」
短く答えようとした矢先、爺さんの視線が、腕に巻いた布の上で止まった。
「……その傷、井戸端で洗った時のもんじゃねえな。血の滲み方が違う」
心臓が、跳ねた。
「……木の枝に引っかけただけだ」
「そうか」
爺さんは、それ以上は聞かなかった。だが、納得しきったふうでもない、探るような間があった。
「あんまり根を詰めるなよ」
短くそれだけ言うと、戸を閉めて離れていった。足音が遠ざかるのを聞きながら、詰めていた息を吐く。今の間の悪さだけが、胸の奥に小さな棘のように残った。
スズは今頃、どうしているだろうか。あの後、家まで送り届けたが、それきり顔を見ていない。父親を亡くし、その手で人を殺す現場にも立ち会わせてしまった。あんな夜を、一人で耐えられるはずがない。それでも、今すぐ様子を見に行くわけにもいかなかった。今夜だけは、そっとしておくべきだと思った。
横になり、目を閉じてみる。だが、瞼の裏に浮かぶのは崩れ落ちるシゲルの姿だった。月明かりの下で動かなくなったダンの顔も、重なるように浮かんでくる。何度目を閉じても、同じ光景が繰り返された。
しばらくすると、外の気配が変わった。
夜風の匂いが、少しだけ違って感じられる。遠くで、何かの唸り声のようなものが、微かに聞こえた気がした。気のせいだと思いたかった。だが、耳を澄ませるほどに、その音は次第に近づいてくる。一つではない。いくつも重なった、低い唸り声だった。
眠ることなど、端からできそうになかった。
膝を抱え、闇の中でじっと耳を澄ませる。心臓が、嫌な速さで脈打ち始めていた。束の間だったはずの静けさは、朝を待たずに終わろうとしていた。
夜明け前、唸り声はついに柵のすぐ外まで迫っていた。
戸を薄く開けて外を覗くと、白み始めた空の下に、いくつもの人影が見えた。荷車ではない。もっと大きく、もっと数の多い車列だった。錆びついた装甲板を継ぎ接ぎした車両が三台、それぞれに武装した男たちが鈴なりに乗っている。ダンを連れてきた時の比ではない人数だった。
柵の門が、外から乱暴にこじ開けられる。金属の軋む音が、朝の静寂を切り裂いた。逃げ場を探す間もなく、村中の家という家から人が引きずり出されていく。抵抗する者は殴られ、蹴られた。それでも広場まで引っ立てられていく。
広場に集められた村人の前に立ったのは、鎧のような装備に身を包んだ男だった。声だけが、やけに冷静に響いた。
「昨夜、この村に立ち寄った会の者が一人、消息を絶った」
村人たちがざわめく。誰も答えない。
「知らぬ存ぜぬで済むと思うな。この村の誰かが関わっている。差し出さなければ、村ごと灰にする」
抑揚のない声だからこそ、その言葉には重みがあった。この一言に、広場が凍りついた。子どもの泣き声、母親の押し殺した悲鳴。誰かが崩れ落ちるように地面に膝をついた。
昨日、シゲルが死んだばかりだ。あの光景が、村ごと繰り返されようとしていた。
——このままでは、村が終わる。
頭のどこかで、勝算を数えようとした。だが、答えはとうに出ていた。この人数を相手に、隠し通せるはずがない。誰か一人が口を割れば、それで終わりだ。ゴウジ爺さんも、スズも、名も知らない子どもたちも。ならば、選ぶ道は一つしかなかった。
考えるより先に、足が前に出ていた。
「俺だ」
自分の声とは思えないほど、静かな声が出た。
「俺が、殺した」
広場の空気が変わる。誰かが息を呑む音がした。
「レン……!」
スズの声がした。駆け寄ろうとするのを、近くにいた村人が慌てて抱き止める。その顔が、みるみる青ざめていくのが見えた。
鎧の男が、こちらへ向き直った。値踏みするような目で、しばらく見つめてくる。
「一人でか。あの図体を相手に?」
「隙をついただけだ。運が良かった」
「運、ね」
男はしばらく黙り込んだ後、部下に短く合図を送った。
「間違いないな」
「間違いない。俺一人でやった」
嘘だった。だが、それで村が助かるなら、安い嘘だ。
数人の男が駆け寄り、あっという間に取り囲まれた。まともにやり合えば、瞬く間に切り刻まれて終わるのは目に見えていた。今度ばかりは、勝てる勝てないの話ですらなかった。
腕を後ろに捻り上げられ、粗い縄で縛られる。乱暴に地面へ引き倒され、膝と肘を擦りむいた。それでも、声は上げなかった。
「連れて行け」
鎧の男が短く命じる。左右から腕を掴まれ、引きずられるように歩かされた。
すれ違いざま、スズと目が合った。何か言いたそうに口を開きかけて、それでも声にならなかった。庇うようなことを言えば、次はスズが狙われる。それだけは、絶対に避けなければならなかった。
ゴウジ爺さんの姿も見えた。皺の刻まれた顔が、これ以上ないほど強張っている。何も言わず、ただこちらをじっと見つめていた。その視線を受け止めながら、俺は小さく頷いてみせた。
村の外に、装甲車両が並んでいる。荷台に押し込まれる瞬間、振り返って村を見た。柵の内側で、村人たちが押し黙ったまま立ち尽くしている。朝日が昇り始め、柵の輪郭を淡く縁取っていた。
——すまない。
心の中でだけ、そう呟いた。
荷台の扉が閉まる。重い音が響いて、外の光が完全に遮断された。
縛られたまま、荷台の壁に体を預ける。周りには、同じように捕らわれた様子の男が数人いる。誰も口を利かなかった。俺の他にも、ネクタル要員として名指しで連れて行かれる者がいるのだと、遅れて気づいた。
村を出るというのは、こんな形で叶うものではなかった。柄にもなく浮かんだあの願いが、こんなにも歪んだ形で果たされようとしていることに、乾いた笑いが込み上げそうになる。それを飲み込んで、俺は目を閉じた。
薄闇の中、車両の振動だけが体に伝わってくる。分かっているのは、もう後戻りはできないということだけだった。エンジンの唸りが一段と大きくなり、車両が動き出す。
窓のない荷台の中で、俺はただ、暗闇を見つめ続けていた。カガリ村が、これでどれだけの時間、平穏でいられるのか。それすらも、今の俺には分からなかった。
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