一線 ――一夜にして、殺人者となる
夜になっても、村の空気は重いままだった。
シゲルの亡骸は、社に安置された。誰も多くを語らず、家々の灯りもいつもより早く落ちていく。夕飯の匂いもしない。誰もが、食べる気になれずにいた。俺は落ち着かず、何度も家の外に出ては、また戻ることを繰り返していた。
シゲルが死んだあの瞬間から、何も手につかなかった。握った拳の感触が、まだ手のひらに残っている。あの時動けなかった自分を、何度も頭の中で殴りつけていた。
「スズ、見なかったか」
ゴウジ爺さんにそう聞いても、首を振られるだけだった。社にも、桶を置いていた井戸端にもいない。近くの家々を回っても、誰も見ていないと言う。胸の奥がざわついた。今日という日に、彼女を一人にしておくべきじゃなかった。
思い当たる場所は一つだけだった。社の裏手を抜けた先、柵の外れに続く小道。シゲルとスズが、よく二人だけの話をしていたと聞いたことがある場所だ。その父を失った今夜、スズが向かうとしたらあそこ以外にないはずだった。
走った。息が上がるのも構わず、暗い小道を駆け抜けた。
小道を抜けると、柵の外れに出た。旧文明の頃の瓦礫が積み重なった一角で、崩れた壁の残骸が月明かりに白く浮かんでいる。積もった瓦礫の高さは、俺の背丈の倍はあった。折れた鉄骨が何本も地面から突き出し、錆びた先端が風に鳴っている。足元には割れたコンクリートの塊が転がり、踏むたびに小さな音を立てた。昼間の面影はどこにもない、静かで、どこか薄気味悪い場所だった。
その瓦礫の陰から、くぐもった声が聞こえた。
「離して……!」
スズの声だ。血の気が引いた。
スズはきっと、一人になりたかっただけなのだろう。父と交わした最後の言葉を思い出せる場所で、誰にも見られずに泣きたかっただけだ。それだけのことが、こんな形で踏みにじられようとしている。
駆け寄ると、月明かりの下に人影が二つあった。片方はスズ。もう片方は、あの大きな体つき——ダンだった。片腕でスズの体を抱え込み、口を塞ぐようにもう片方の手を回している。連れの姿はない。一人だけだった。
「静かにしろよ。フジツ様への、いい土産になる」
低い声で、ダンがそう言うのが聞こえた。スズはもがいたが、体格の差はどうしようもなかった。
「離せ!」
気づけば叫んでいた。
ダンがこちらを見た。左目の濁りが、月明かりでいっそう白く光る。
「お前、朝の……」
数人連れの仲間はいない。荷車も見当たらなかった。あの後、一人だけ引き返してきたのだと、頭のどこかで理解した。
「ちょうどいい。お前もついでに連れてってやるよ」
ダンはにやりと笑うと、スズを抱えたまま近づいてきた。余裕のある足取りだった。俺一人など、どうとでもなると思っているのが分かった。
「昼間の爺、なかなかいい根性してたなあ。娘もそうやって育ったんだろ」
スズの体が、びくりと強張った。
「くだらねえ意地なんか張るから、ああなるんだよ」
その言葉が、胸の奥で何かに火をつけた。頭の中が、白く焼けるように熱くなる。
言い終わる前に、俺は駆け出していた。何も考えていなかった。考える余裕などなかった。
ダンはスズを突き放し、腰の短剣を抜いた。刃が月光を弾く。
「邪魔すんじゃねえ」
振り下ろされる刃を、とっさに腕で受けた。焼けるような痛みが走り、熱い血が肘を伝って滴り落ちる。それでも構わず、相手の腕に組みついた。ダンの体は分厚く、力も強い。押し返そうとしても、びくともしなかった。まともにやり合えば、勝ち目などない。分かっていた。それでも、体が止まらなかった。
「くそガキが……!」
ダンが吠えるように叫び、拳を振るう。頬に鈍い衝撃が走り、視界が一瞬揺れた。それでも組みついた腕を離さなかった。
もつれ合ったまま、瓦礫の上に倒れ込む。鋭い破片が背中に食い込んだ。息が詰まる。ダンの重みがのしかかり、その手が、俺の首にかかった。指が食い込み、視界が赤く滲んだ。
「死ね……!」
首を絞める手に、力がこもる。息ができない。頭の芯が痺れていく。耳の奥で、自分の鼓動だけがやけに大きく響いていた。
視界の端で、スズが何かを叫んでいるのが見えた。声は届かない。ただ、その口の動きだけが分かった。
——レン。
もがきながら、右手を闇雲に振り回す。爪が瓦礫を掻き、指先が、何か固いものに触れた。倒れた拍子に落ちた、ダン自身の短剣だった。考えるより先に、手が動いていた。柄を握り、力の限り突き上げる。
肉を裂く重い手応えがあった。
ダンの体が、大きく震えた。首にかかっていた指の力が緩む。荒い息を吐きながら、目を見開いたまま俺を見下ろしていた。その目から、光が消えていく。
崩れ落ちるダンの体の下から、俺は這うようにして抜け出した。
しばらく、誰も動けなかった。
自分の手を見た。震えていた。短剣を握ったままの手には、生温かい感触が残っている。
——殺した。
その事実が、遅れて頭に落ちてきた。昼間、シゲルが殺されるのを、ただ見ていることしかできなかった。あの時の悔しさが、まだ体のどこかに残っている。今度は、動かずにはいられなかった。それだけだった。
「レン……」
スズの声がした。震える声で、こちらへにじり寄ってくる。着物の袖が破れ、頬に泥がついていた。それでも、目だけはまっすぐ俺を見ていた。
「大丈夫か?」
かすれた声しか出なかった。スズは答えず、代わりに首を横に振った。大丈夫なわけがない。それは俺も同じだった。
しばらくの間、二人とも動けなかった。夜風が、汗の引いた肌に冷たかった。腕の傷から流れる血が、地面に小さな染みを作っていく。
月明かりの下に、動かなくなったダンの体が横たわっている。開いたままの右目が、何も映さずに月を見上げていた。その姿を見下ろしながら、腹の底から込み上げてくるものがあった。恐怖でも、後悔でもない。もっと熱く、もっと重い何かだった。
人を殺した。取り返しのつかないことをした。それでも、目の前にスズがいる。それだけで、今は十分だと思えた。矛盾しているのは分かっている。それでも、その気持ちに嘘はなかった。
「これから、どうすれば……」
スズが呟くように言った。答えは、俺にも分からなかった。この死体を村に持ち帰るわけにはいかない。だが、放っておいて済む話でもない。恩寵会は、必ずこの男を捜しに来る。
「誰にも言うな。俺がやったことも、ここで起きたことも」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「でも……」
「今、村にこれ以上背負わせるものを増やすな。お前の父さんのことだけで、みんな限界だ」
スズは唇を噛み、それでも小さく頷いた。
崩れた壁の隙間に、ダンの体を引きずり込む。瓦礫を被せ、月明かりの下からその姿を隠した。手も、腕も、血の匂いがこびりついたまま離れなかった。
村へ戻る道すがら、スズは一度も口を開かなかった。俺もまた、何も言えなかった。ただ、隣を歩くその足取りが、行きよりもわずかに近いことだけが分かった。
柵の内側に戻ると、社の灯りだけが変わらずに揺れていた。村の恩人が死に、それでも夜は同じように更けていく。その理不尽さを噛みしめながら、俺は自分の手のひらを、もう一度だけ見た。
風が瓦礫の間を抜けて、低く鳴った。
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