見せしめ ――すべての始まりとなる喪失
朝の空気はいつも土の匂いがした。
俺——レンは、藁の寝床から起き上がると同時に大きく伸びをした。関節が鳴る。今日も体は軽い。
小屋を出ると、カガリ村の朝が広がっていた。木組みの柵に囲まれた、継ぎ接ぎだらけの掘っ立て小屋の群れ。井戸端では女たちが水を汲み、痩せた犬が足元をうろついている。日はまだ低いのに、村はもう動き出していた。
「レン、また寝坊か」
声をかけてきたのは幼馴染のスズだ。桶を両手に提げて、呆れた顔をしている。右手首には、巫女の証である組紐が巻かれていた。
「悪い悪い。でも今日は早い方だろ」
「日が出てから起きて、どこが早いのよ」
軽口を叩きながら、柵の補修に駆り出された男たちの元へ向かう。先週の砂嵐で倒れた柵を組み直す作業だった。
「レン、いい体になったなあ」
隣家のゴウジ爺さんが、縄を巻きながら感心したように言う。物心つく前に母を亡くした俺を、この爺さんは幼い頃から気にかけてくれた。殴り方も躱し方も、この人から教わった。
「ガキの頃はもっと細っこかったのにな。これなら組織の連中が来ても、逃げ足だけは負けねえだろう」
軽い調子の言葉に、笑って返した。それでも心の底では、笑い事ではないと分かっている。
作業を終え、小屋に戻って鍋を火にかける。朝食は、雑穀に少しの干し肉を混ぜただけの粥だった。先月、恩寵会への供出を多めに納めたぶん、村に残る食料が減っている。それ以上は、何も考えなかった。考えたところで、どうにもならないことは分かりきっている。
食べ終えて外に出ると、スズが村の中央へ向かって歩いていくのが見えた。後を追う。村の中央には小さな社があり、神主のシゲル——スズの父だ——が供物の帳面を片手に何かを数えていた。傍らには、恩寵会の紋様が焼き印された荷札のついた麻袋や木箱が積まれている。
「今月もそろそろ、会の連中が来るな」
隣に並んだスズが、ぽつりと言った。
「今度は何を持っていかれるんだろう」
うまく返す言葉が見つからなかった。人か、食料か。決めるのはいつも向こうで、こちらに選ぶ余地はない。
柵の外に広がる荒野に、ふと目をやった。いつかこの村を出て、違う景色を見てみたい。そんな考えが胸をよぎる。柄にもない思いつきだと、すぐに頭を振って追い払った。
昼を過ぎた頃、村の広場に人が集まり始めた。
「来たぞ」
誰かがそう言うと、広場のざわめきが一気に静かになった。柵の門が開き、埃を巻き上げながら一台の荷車が入ってくる。降りてきた男を見て、思わず息を止めた。
側頭部に恩寵会の紋様を刻んだ大男。右目は落ち着きなく動き、左目は白く濁って光を映さない。腰には短剣、手には黒く艶のある警棒。
「今月の割り当てだ」
男——ダンと名乗ったその男は、広場の中央で足を止めるなり、間延びした声で言った。
「3人、出せ。ネクタル要員としてだ」
広場が凍りついた。名指しで人を連れて行かれるのは、この村では初めてのことだった。子どもを抱いた女たちが後ずさり、誰も声を上げようとしない。拳を握ったまま、何も言えない自分がいた。
前に進み出たのは、シゲルだった。
「先月、供出はきちんと納めた。今月も同じだけは用意している。だが、人を出せというのは初めての話だ」
「フジツ様がお決めになったことになんか不満でもあるのか?」
ダンが警棒の柄を指先で叩きながら、シゲルを睨みつけた。
「せめて、人数を減らすか、時をずらすことはできんか。穀物ならあと2割、燃料になる油も出せるだけ出す」
ダンは荷を一瞥すると、鼻で笑った。
「そういうんじゃねえんだよぉ。人が欲しいっつってんだよ」
「俺の一存では決められない。村の会議にかけさせてくれ。答えは、次にお前さんが来るまでに出す」
ダンはしばらくシゲルを見下ろしていたが、やがて低く舌打ちした。
「……面倒なことをしてくれる。今日のところは持ち帰る。だが、これで終わったと思うなよ」
そう言い残し、荷車は土埃を上げながら遠ざかっていった。
門が閉まると、シゲルが杖をつきながら近づいてきた。
「さっき、拳を握っていたな」
「……見てたのかよ」
「動かなかったのは、正しい判断だ。ここで暴れれば、村ごと潰される。だが……その拳を、忘れずにいてくれ」
「どういう意味だよ」
「さあな。ただの独り言だ」
シゲルはそう言って、いつも通りの穏やかな笑みに戻すと、社の方へ歩いていった。うまく言葉にできない引っかかりが、胸に残った。
日が傾き、柵の影が長く伸びる頃だった。誰もが落ち着かない一日を過ごしていた。
そこに、あの唸り声が聞こえた。
「……嘘だろ」
まだ日も暮れきっていない。柵の門が乱暴に開き、荷車が土埃を上げて戻ってくる。御者台には、昼間と同じダン。今度は一人ではない。屈強な男を三人、荷台に乗せていた。
「話は終わったはずだ」
前に出たシゲルが、静かに言う。
「終わってねえよ。会議にかけるだの何だの、あれは断りの返事だろうが」
「断ってはおらん。答えは出すと言ったはずだ」
「フジツ様の顔に泥を塗った落とし前だ。今日はそれをつけに来た」
不穏な言葉に、広場が恐怖に変わった。連れてきた男たちが、逃げ道を塞ぐように散っていく。
「村の者に指一本触れさせん。文句があるなら、わし一人に言え」
シゲルが一歩前に出て、両腕を広げた。ダンとの間に、自分の体を置くように。
「都合のいい話だな」
ダンが腰の短剣を抜いた。刃が夕日を鈍く反射する。
俺は動こうとした。だが、すぐ横にいた男の一人が鋭くこちらを見た。腰の得物に、わずかに手が動く。
「おい。動くなよ」
足が、地面に張りついたように動かなかった。得物を持った男が四人。こちらは丸腰の村人ばかりだ。飛びかかったところで、何人が無事で済むか分からない。分かっていながら、それでも動かなかった自分に、腹の底が熱くなった。
「悪いようにはせんと言ったはずだ。わしの首一つで、村が収まるなら」
「オッサン、いい覚悟だ」
ダンはそう言うと、迷いなく踏み込んだ。
一瞬の出来事だった。
刃は柄まで深く、力任せに突き立てられていた。シゲルの体が崩れ、地面に膝をつき、そのまま横に倒れる。杖が乾いた音を立てて転がった。垂れ目がちの目は、最後まで見開かれたまま、夕焼けの空を見ていた。
「父さん……!」
スズの叫びが広場に響いた。駆け出そうとする体を、俺は反射的に掴んで止めた。今動けば、次に殺されるのはスズだ。腕の中でもがくスズを抑える手が震えた。
ダンは短剣についた血を無造作に払うと、周囲の村人たちをゆっくりと見回した。
「これが見せしめだ。次に断る奴が出たら、今度は一人じゃ済まさねえ」
その視線が、俺の腕の中でもがき、父のもとへ駆け寄ろうとするスズの姿に向けられた。ダンの口元がわずかに歪んだが、それ以上は何も言わず踵を返す。荷車が動き出し、来た時と同じ唸り声を上げながら村の外へ消えていった。
門が閉まる音がした瞬間、スズが俺の腕を振りほどいた。
「父さん、待って、今……!」
崩れるようにシゲルのもとへ駆け寄り、地面に膝をつく。右手首の組紐を傷口に押し当てると、淡い光が灯り、震える唇で呪句を紡いだ。何度も見てきた、擦り傷や打ち身を癒すときと同じ光だった。だが、光はすぐに弱まり、傷を癒すことのないまま消えた。
「なんで……どうして」
村の男が数人、遅れて駆け寄る。それでも、シゲルの体はぴくりとも動かなかった。
俺はその場に立ち尽くしたまま、何もできなかった。周りを見ると、誰もが同じだった。目を伏せる者、震える手で口を押さえる者、それでも一歩も動けない者。みんな、俺と同じだけの重さを抱えて立っていた。
拳を握る。だが、もう遅い。握っても、開いても、何も変わらなかった。夕日が沈みきり、広場に薄闇が下りてくる。スズの泣き声だけが、いつまでも止まなかった。
昼間、シゲルは言っていた。動かなかったのは正しい判断だと。その拳を忘れずにいてくれと。あの言葉の意味が、今になってようやく分かった気がした。だが、分かったところで、目の前の光景は何一つ変わらない。




