解放者 ――名も知らぬ男、村を救う
またあの臭いだ、と思った。焦げた木の臭い。
足を止め、風上に目をやる。傾きかけた日の下、黒い煙が一筋、まっすぐに立ち上っていた。何かよくないことが起きている。距離はさほどない。半刻も歩けば着く。
迷いはなかった。踏み固められた道を外れ、煙の方へ足を速める。
近づくにつれ、焦げ臭さが濃くなっていく。金属同士がぶつかる甲高い音、怒号、悲鳴。それらが入り混じった喧騒が、風に乗って届いてきた。
茂みに身を屈めながら、村へと近づく。
木の柵に囲まれた、小さな集落だった。柵の外に群がった黒ずくめの一団を、鍬や鎌を手にした村の男たちが、防壁越しに必死で押し返していた。
腕に、見覚えのある幾何学紋様の腕輪。黒地に赤い、尖った意匠。数はざっと二十人。対する村人は、その半分にも満たない。それでも、防壁一枚を隔てているぶん、まだ拮抗を保っているようだった。
「うおおおおっ! 来るな、来るなあ……!」
柵の隙間から突き出された槍の穂先が、黒ずくめの一人の肩をかすめる。舌打ちと共に、その男が下がった。柵の上からは、煮え立った湯らしきものが浴びせかけられ、悲鳴が上がる。村なりの知恵を絞った抵抗だった。
だが、それも長くは続かない。柵板の一枚が、蝶番ごと軋みながら剥がれ落ちる。生まれた隙間へ、黒ずくめの得物が突き込まれた。短い悲鳴と共に、柵の内側で誰かが崩れ落ちる気配がした。
「押し込め、押し込め! もう少しだ!」
黒ずくめの一人が、嗜虐的な笑い声を上げながら喚いた。
「はーっはっは! 良い声で鳴くじゃあねえか、おい!」
その声に応えるように、他の男たちも品のない笑い声を重ねる。追い詰める側の余裕が、声色にはっきりと滲んでいた。
それでも柵は、まだ完全には破られていない。指揮官らしき男が、痺れを切らしたように舌を鳴らした。
「時間の無駄だ。あれを出せ」
荷馬車の方へ、顎をしゃくる。
「へへっ、待ってましたぜ」
荷台の陰から、ひときわ大柄な影が引き出された。首に鎖を繋がれ、両脇を屈強な男二人に固められている。革の面で目元を覆われ、うつむいたまま、まるで人形のような足取りだった。
「見てなァ、あんたら。すぐに終わらせてやっからよォ!」
男の一人が下卑た声で叫び、面を外す。露わになった顔に、正気の色はなかった。焦点の合わない目、額に浮いた血管、皮膚の下で異様に盛り上がった筋肉。
「行け」
低い声で命じられ、鎖が外される。
一拍の後、その体が動いた。
柵に向かって迷いなく突進する。振り上げた拳が、防壁の丸太に叩きつけられた。木材の弾ける音と共に、太い丸太が根元から折れ、そこにいた村人たちを巻き込んで宙を舞う。悲鳴が幾重にも重なった。誰かが吹き飛ばされ、地面を転がる。武器を握ったまま、二度と動かない者もいた。
均衡が、崩れた。
崩れた柵の隙間から、黒ずくめの一団がなだれ込んでいく。
「うわあああ! 逃げろ、逃げてくれえ!」
年老いた男が、子どもの手を引きながら叫んでいた。武器を構えていた村の男たちも、戦い慣れた相手ではなかった。一撃を受け止めた腕がへし折られ、脇腹を蹴り飛ばされ、次々と地に伏していく。倒れた者を、黒ずくめの男たちが嗤いながら踏みつけて通り過ぎていった。
家々の間を、悲鳴が縫うように駆け抜けていく。逃げ場を探して右往左往する人影、頭を抱えてうずくまる老婆、母親の背にしがみつく子ども。村じゅうが、ただの狩り場に変わっていた。
その混乱の中を、一人の女が必死に走っていた。だが、すぐ後ろから伸びた手に、髪を掴まれる。
「ひゃははッ、上等な逃げっぷりだったぜぇ!」
下卑た笑い声を上げながら、黒ずくめの男が女を地面に引き倒した。周りに立っていた村人たちが、悲鳴を上げながらも動けずにいる。得物を持たない手が、震えながら宙をさまよう。誰も、助けに入る勇気がなかった。
「まあまあ、ゆっくり味わわせてもらうかァ……」
汚い言葉を吐きながら、男が女に覆いかぶさろうとする。女の悲鳴が、喉の奥で引き攣れた。
もう、見ている場合ではなかった。
ヒュンと、空気を切る音がした。
次の瞬間、女に伸し掛かろうとしていた男の体が、横合いから何かに弾かれたように吹き飛んでいた。悲鳴を上げる間もなく、地面を転がって動かなくなる。
「怖い思いさせたな。もう大丈夫だ」
声をかけながら、女を家の陰へと押しやる。手にした山刀の切っ先に、確かな手応えの余韻が残っていた。
黒ずくめの群れへと向き直る。大ぶりな山刀を、肩に担ぐように構えた。
「この村を、これ以上好きにさせるつもりはねえ」
低く言い放つ。
「あぁ? どこの誰だか知らねえが……」
にやついていた男の一人が、こちらへ得物を向けてくる。
「一人で粋がってんじゃねえぞ、坊主がよォ!」
三人の男が、下品な笑い声を上げながら得物を構えて突っ込んできた。得物を躱し、懐に潜り込みながら、山刀を一閃させる。
「ぎゃんっ!?」
一人の腕が浅く裂け、間の抜けた悲鳴と共によろめいた。返す刀で、二人目の脇腹を打ち払う。
「へぶらッ!?」
三人目の得物を弾き飛ばし、柄で顎を打ち抜いた。声にもならない呻きを残し、男が崩れ落ちる。
「な、なんだこいつ……!」
「ば、化け物か……!」
さっきまでの笑いはどこにもなかった。倒れた男たちを踏み越え、次々と向かってくる黒ずくめを打ち払っていく。長年、似たような相手を数え切れないほど相手にしてきた。恐れる理由は、もうどこにもない。
残るは、あの一体だけだった。
指揮官らしき男が、初めて焦りの色を見せた。
「やれ! そいつを潰せ!」
短く命じられ、それが向き直る。
——警告。対象の膂力、通常の強化兵を上回ります。接近時は注意してください。
頭の中の忠告に、小さく頷いて応える。焦点の合わない目に、それでも殺意めいたものが宿った気がした。踏み込みの速さは、確かに常人のものではない。
拳を躱し、懐に潜り込む。山刀の峰で、腹に一撃。それでも、相手はすぐには崩れなかった。理性を失っているぶん、痛みへの反応が鈍いのだろう。
振るわれる腕の重さが、並みの村人のそれとは明らかに違った。かすっただけの一撃で、足元の土が抉れる。まともに受ければ、骨の一本や二本では済まない。
拳を紙一重で躱し続けながら、隙を探る。懐に飛び込み、山刀の柄を顎に叩き込んだ。二度、三度と繰り返す。何度目かの一撃で、ようやく膝から崩れ落ちた。白目を剥き、動かなくなる。
「ひ、退けえ!」
指揮官の男が、悲鳴じみた声を上げて踵を返した。
その背中を、視線だけで追う。逃げ足だけは速いらしいが、道の先は袋小路だった。足を踏み出し、間合いを詰める。
「た、頼む、金なら……!」
命乞いの言葉は、最後まで形にならなかった。
山刀を一閃させる。それで、終わりだった。
血の滴る刃を提げたまま、しばらくその場に立ち尽くす。荒くなった息が、少しずつ静まっていった。焼け跡の匂いに混じって、鉄錆に似た臭いが鼻をついた。
崩れた柵の向こうで、村人たちが恐る恐る顔を出していた。誰もが、まだ何が起きたのか信じられないという顔をしていた。
「あ、あんた……助けてくれたのか」
年老いた男が、震える声で言った。
「間に合って良かった」
短く答え、山刀の血を払う。
倒れた黒ずくめの男たちと、まだ意識のない大柄な体を見下ろす。これで終わりではない。この程度の被害で済んだのは、たまたま自分が通りかかったからに過ぎなかった。
「これから、どうするつもりだ」
静かに尋ねる。
「柵一枚で、いつまでも防げる相手じゃねえ。次は、もっと数を連れてくるかもしれねえ」
老人の顔が、強張った。
——灰原領、レジスタンスによる抵抗活動を確認。詳細な状況は不明です。
頭の中の一文を思い出しながら、口を開く。
「灰原の方には、会に楯突いてる連中がいるって噂だ。会を恨む者なら、拒みはしないはずだ」
老人は、しばらく黙り込んでいた。それから、深く頭を下げた。
「……考えてみる。世話になった」
「気にすんな」
短く答えて、崩れた柵の外へと歩き出す。振り返ることはしなかった。
背後で、村人たちのざわめきが遠ざかっていく。旅を続けていれば、この程度の光景はいくらでも目にする。それでも目にするたびに、胸の奥の重さは少しも軽くならなかった。
◆◆◆
まだ、何も知らなかった頃の話だ。
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