達者でな
裁きの夜が明けて、さらに数日が過ぎた。
灰原領には、少しずつ新しい秩序が根付き始めていた。ジンをはじめとする元一般兵たちが、村々を回りながら、当面の統治の枠組みを整えていく。奪われていた物資は各村に分配され、恐怖に支配されていた領内の空気は、日を追うごとに和らいでいった。
「まだ、やることは山ほどある」
昼間、忙しなく立ち回るジンの姿を見ながら、そう思った。頭目のいる本部が、いつこの地に報復の手を伸ばしてくるかも分からない。防衛拠点の再編、村々との関係づくり、捕らえた一般兵たちの処遇。積み残された課題は、数え切れないほどあった。
それでも、自分がここに留まり続ける理由は、もうなかった。
夜も更けた頃、隠れ家代わりにしていた一室で、荷物をまとめた。着替えと、僅かな食料と、腰に差した山刀。それだけで十分だった。
——出発の準備が整いました。ルートの再計算は必要ですか。
頭の中の一文に、小さく頷いて応える。この相棒には、行き先などまだ何一つ告げていなかった。
——目的地が未設定です。北西の隣領、南の交易路、東の山岳部……候補は複数あります。
「まだ決めてねえよ、それは」
食い気味に遮ると、頭の中が大人しくなった。
音を立てぬよう、部屋を出る。深夜の屋敷跡は、静かな寝息に満ちていた。誰にも見つからないまま、外へと続く道を歩いていく。
「もう行くのか」
低い声に、足が止まった。
門のそばに、ジンが立っていた。腕を組み、こちらを待ち構えていたような佇まいだった。
「……気づいてたのか」
「お前がここに長居する玉じゃねえことくらい、最初から分かってた」
ジンが、口の端を僅かに上げる。
「引き止めるつもりはねえ。だが、黙って消えられるほど、お前との貸し借りは軽くねえ」
短い言葉に、何と返すべきか迷った。結局、何も言えなかった。
「灰原はもう大丈夫だ。村々も、少しずつ立ち直っていく。お前が気にかけることじゃねえ」
ジンの声には、確かな手応えがあった。この男になら、後を任せられる。そう思えるだけの重みが、その言葉にはあった。
「これからどうする」
「さあな。当てはねえよ。狭い村に縛られて生きるのは、もううんざりなんだ。ふらふら気ままに歩き回るだけだ」
答えると、ジンは小さく笑った。
「気ままに、な。お前らしいっちゃお前らしいが……まあ、灰原だけが恩寵会の全部じゃねえ。まだ他に、いくつも領がある。お前なりの落とし前のつけ方があるんだろうよ」
思っていたのとは、微妙にずれた受け取り方だった。訂正するのも面倒で、曖昧に頷いておく。
「……さあな。行ってみりゃ分かるさ」
「そうかよ」
短い沈黙が流れた。それだけで、十分だった。
「達者でな、レン」
「ああ。お前も」
それ以上、多くを語る必要はなかった。互いに背を向け、それぞれの道を歩き出す。
柵の外、闇に沈んだ廃道へと足を踏み出す。振り返ると、灰原の輪郭が、夜の中に静かに沈んでいた。
——目的地未設定。今回は候補を挙げず、周辺の情報だけ収集しておきます。
学習が早いじゃねえか。頭の中の一文に、口の端が緩む。目的地なら、これから見つければいい。急ぐ旅でもなかった。
夜風が、頬を撫でていく。冷たさの中に、微かな夜明けの気配が混じっていた。ジンは何か大層な使命でも背負ったつもりでいるようだったが、こちらにそんな大それた覚悟はなかった。旅の途中で見てきた、他の村々の惨状が、ふと脳裏をよぎる。多少の後ろめたさがないと言えば嘘になる。それでも、全部を背負うつもりまではなかった。
狭い村の柵の中で、決められた枠に押し込められて生きるのは、もう十分だった。誰に命じられるでもなく、行きたい場所へ、行きたいように歩く。それだけで、今は十分すぎるくらいだった。
腰に差した山刀の重みと、胸元のクロス・コアの存在感を確かめる。それでも、この二つさえあれば、大抵のことは何とかなる。そんな根拠のない自信が、不思議と胸の内に満ちていた。
一歩ずつ、暗い道を進んでいく。行く先に何が待っているのか、まだ何も分からない。それでも、足取りに迷いはなかった。
長い夜が明ける前に、レンの姿は、もう灰原のどこにも見当たらなかった。




