悪かったな
東の空が白み始める頃には、屋敷全体の抵抗が完全に止んでいた。
拘束された見張りたちが、広間に並べて座らされている。誰も、もう抗おうとはしなかった。統率を失った兵たちの目には、疲労と諦めがない交ぜになった色が浮かんでいる。あちこちに転がる得物や割れた燭台、焦げた壁の跡が、昨夜の乱戦の激しさを物語っていた。
仲間の負傷者も少なくなかった。それでも、命を落とした者は一人もいないと聞き、僅かに肩の力が抜ける。誰かが誰かの傷に晒し布を巻き、誰かが水を分け合っている。疲れ切った顔の中にも、確かな達成感が滲んでいた。
「儀式の間、詰所、物資庫。主要な区画は全部押さえた」
仲間の一人が、息を切らしながら報告に来た。ジンが頷き、傷の手当てをする手を止めずに答える。
「檻の方はどうなってる」
「強化兵は、もう黙らせた。暴れ出して手に負えなかった連中は、仕方なくやった」
その一言に、隣で報告を聞いていた痩せた男の肩が、僅かに強張るのが分かった。
——暴れ出して手に負えなかった連中。
昨夜、乱戦の中で組み伏せた幾つもの影が、脳裏をよぎった。統率を失い、闇雲に得物を振り回してきた強化兵たち。あの中の誰かが、あるいは。考えかけて、すぐに打ち消した。確かめようのないことだった。それでも、一度浮かんだ疑念は、簡単には消えてくれなかった。
「行ってこい」
短く声をかけると、男は弾かれたように駆け出していった。
その後を追うように、檻のある区画へと向かう。夜通しの戦いの疲れが、今になって体の節々に響いてきていた。それでも、確かめずにはいられなかった。
鉄格子の並ぶ通路に、男が立ち尽くしていた。一つの檻の前で、動けずにいる。覗き込むと、痩せこけた男が一人、血だまりの中に横たわっていた。もう、指一本動かなかった。
「……ケンタ」
震える声で、名を呼ぶ。返事はなかった。何度呼びかけても、二度と返ってくることのない声だった。
「おい、ケンタ。しっかりしろ。俺だ、兄ちゃんだ」
必死な呼びかけにも、何一つ変わらなかった。生きて見つかることを、どこかでまだ望んでいた。だが、その淡い望みは、目の前の現実に静かに打ち砕かれていた。
かける言葉が見つからなかった。ただ、隣に立ち、男の背中にそっと手を置いた。手のひらに伝わる震えが、自分自身の中にある拭えない疑念と重なった。昨夜、暴れる強化兵の一体を、確かに自分の手で沈黙させた。あれが誰だったのか、今となっては確かめようもない。
「……そうか」
短く呟き、男は膝から崩れ落ちるように座り込んだ。声を上げることも、涙を流すこともなかった。ただ、長い沈黙だけが、そこに横たわっていた。
「連れて帰る。それだけは、させてくれ」
しばらくして、絞り出すような声で男が言った。頷き、肩を貸す。せめて村の土に還してやりたい。その願いだけは、誰にも奪えないはずだった。確かめようもない疑念だけを胸の奥にしまい込んだまま、それだけを口にした。
「……悪かったな」
短い一言に、男は驚いたように顔を上げた。何に対しての謝罪か、うまく説明できなかった。それでも、言わずにはいられなかった。
「……あんたのせいじゃねえよ」
掠れた声の返事に、何も言い返せなかった。
広間に戻ると、ジンが険しい顔で誰かの報告を受けていた。
「兵舎が落ちた。防衛拠点の一つも、内通者の手引きで制圧されたそうだ」
伝令らしい男が、息を切らしながら続けた。
「他の拠点も、次々と連絡が入ってる。屋敷が落ちたって話が広まった途端、あちこちで一気に動きが出たらしい」
ジンが、届いたばかりの報告を並べていく。庁舎では下働きの一人が書庫を封鎖し、幹部連中を軟禁したという。防衛拠点の一つでは、内通していたハンドラーが仲間を集めて詰所を制圧したらしい。どれも、長い時間をかけて仕込まれてきた蜂起だった。屋敷という中心が崩れた瞬間、堰を切ったようにそれぞれの拠点で牙が剥かれていた。
——広範囲での騒乱を検知。灰原領全域で、統治機構の機能停止が進行しています。
頭の中の一文に、小さく息を吐く。予定通りとはいえ、これほど鮮やかに事が運ぶとは思っていなかった。
「灰原領は、もう終わりだ」
ジンが、誰にともなく呟いた。その声には、これまでの重みを全て吐き出すような響きがあった。
「頭目の本部が動くにしても、もう手遅れだ。この領は、俺たちの手に落ちた」
窓の外、夜が明けていく空の下に、灰原一帯の輪郭がぼんやりと浮かび上がっていた。長く続いた支配の象徴だった屋敷は、今はもう、ただの静かな建物に過ぎなかった。
「この後は、どうする」
誰かの問いに、ジンは拘束されたフジツと家族を見下ろした。
「まず、捕らえた連中の始末をつける。それから……」
言葉を切り、ジンはこちらへ目を向けた。
「村々に知らせを出す。今日中に、な」
昼を待たずして、灰原領陥落の報せは、領内の隅々にまで走り抜けていた。早馬に乗った伝令が、次々と村々へ向けて飛び出していく。長年支配してきた領主が捕らえられ、屋敷が落ちた。その報せに、どの村がどう動くか、誰にも予想がつかなかった。
◆◆◆
カガリ村の広場にも、伝令の馬が乗りつけた。
「灰原領が落ちた! フジツが捕らえられた!」
叫び声に、家々から人が飛び出してくる。にわかには信じられないという顔が並ぶ中、スズは井戸端に立ち尽くしたまま、しばらく動けずにいた。
「……本当に?」
震える声で聞き返すと、伝令は大きく頷いた。
「ああ。討ち取ったのは、村の生き残りだって話だ。名前までは分からねえが……」
言葉の途中で、スズの脳裏に一人の顔が浮かんだ。確かめる術はなかった。それでも、浮かんだ名前を、口には出さなかった。
「代表を一人、屋敷跡まで寄越してほしいそうだ。裁きを見届けてほしいと」
伝令の言葉に、村の者たちが顔を見合わせる。誰からともなく、視線がスズに集まった。
「……わたしが、行きます」
短く答え、旅支度に取りかかった。父を失ってからずっと張り詰めていた何かが、その一言で僅かに緩んだ気がした。
◆◆◆
「明日、屋敷跡で裁判を開く。フジツと、捕らえた幹部連中の裁きだ」
ジンが、集まった仲間たちに告げた。
「公開で、か」
「ああ。隠れてこそこそやるようなことじゃねえ。この領がもう恩寵会のものじゃなくなったってことを、誰の目にも分かる形で示す必要がある」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。長年の恐怖の象徴を裁く場を、正々堂々と晒す。それは、この地に新しい秩序が生まれたことを告げる、何よりの証になるはずだった。
「村々には、代表者を寄越すよう伝えてある。見届けたい者は、誰でも見届けりゃいい」
ジンの声には、これまでにない重みがあった。単なる報復ではなく、この地の行く末を左右する宣言でもあるのだと、その口ぶりから伝わってくる。
日が傾く頃、最初の一団が屋敷跡に到着した。土埃にまみれた旅装の男たちが、警戒した目でこちらを見回している。灰原領内の、どこかの村から来た代表者たちだった。
「本当に、あのフジツを捕らえたのか」
信じられないという顔で、代表の一人が呟いた。ジンが短く頷くと、その場に崩れ落ちるようにして地面に座り込んだ。長年の重圧から解放された者だけが見せる、そんな表情だった。
夜が更けるにつれ、続々と代表者たちが集まってくる。中には、聞き覚えのある村の名を口にする者もいた。カガリ村からも、明日には代表が到着するという報せが届いていた。誰が来るのか、あえて確かめなかった。想像すればするほど、落ち着かない気持ちになる気がした。
長かった夜が、ようやく明けようとしていた。だが、決着は、まだついていなかった。
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