動けねえだろう、その図体じゃ
踏み込みの速さに、反応が一瞬遅れた。
振り抜かれた拳が、頬すれすれを掠める。空気そのものが殴りつけられたような重い衝撃が、頬の皮膚を張り裂けさせた。とっさに身をひねっていなければ、顎が砕けていたはずだった。拳自体は、掠っただけだった。それでも、肌の表面がぱっくりと裂け、生温かい血が頬を伝う。まるで見えない鉄槌にでも殴られたような衝撃だった。
「さっきよりは、粘るじゃねえか」
フジツが、忌々しげに口の端を歪める。拳を握り直すたび、指輪の赤い光が濃さを増していった。踏み込みも、振り抜きも、無駄がない。喧嘩慣れした素人の動きではなかった。組織の中で、それなりの修羅場を潜ってきたことが窺えた。
踏み込み、間合いを詰める。放った蹴りを、フジツは腕一本で受け止めた。骨を軋ませるはずの一撃が、見えない壁にでも当たったかのように弾かれる。着地の瞬間、右足の甲に鈍い痛みが走った。骨まで響くような、嫌な痺れだった。着地と同時に、追撃の拳が横合いから飛んできた。紙一重で躱すと、掠めた拳圧だけで背後の壁に亀裂が走った。
——警告。相手の防御に、通常の物理法則を超えた反応があります。
頭の中の警告に、奥歯を噛みしめる。この男が纏っているのは、ただの度胸や慢心ではない。あの指輪が、正真正銘の武器として機能していた。
背後で、金属と絶叫の入り混じった音が響く。ヒトミの放った衝撃波が、仲間の一人を弾き飛ばしていた。ヒトコの拳が、長机ごと男を吹き飛ばす。ジンが割って入り、盾のように得物を構えた。
「そっちはジンに任せろ! お前は目の前に集中しろ!」
叫んだのは、隣で戦っていたはずの誰かだった。頷く余裕もなく、迫る拳を紙一重で躱す。
「オレ様のことは覚えてても、状況は覚えてねえみたいだな! お前はもう、負ける側なんだよ!」
叫びと共に、指輪の光が一段と膨れ上がる。振り下ろされた拳を、両腕で受け止めた。骨に響く衝撃に、体ごと後方へ吹き飛ばされる。壁に背中を打ちつけ、一瞬、息が詰まった。視界の端に星が散る。それでも、体は勝手に動いていた。転がるようにして体勢を立て直し、追撃の拳を紙一重で避ける。
「レン、まだ動けるか!」
ジンの声が、遠くから届く。答える代わりに、体を起こした。肩で息をしながら、フジツの拳筋を見極める。単調な力任せの連打ではなかった。緩急をつけ、こちらの呼吸を読んで打ち込んでくる。侮れない相手だった。
打ち合いが、拮抗し始めていた。素手の間合いなら、こちらにも分がある。ゴウジ爺さんに叩き込まれた躱し方が、少しずつフジツの拳筋を読み切りつつあった。その手応えは、フジツの側にも伝わっているはずだった。
「……チッ」
苛立たしげな舌打ちが漏れる。踏み込みが、一瞬だけ止まった。値踏みするような目が、こちらの動きを注意深く追っている。素手の殴り合いでは、押し切れない。そう悟った目だった。
「調子に乗るなよ」
低く呟いた直後、指輪の光の色が変わった。赤から、もっと暗く、重たい色へ。
その瞬間、体が沈んだ。
「……ッ、な……!」
膝が、勝手に折れた。立っているだけの動作に、途方もない重さがのしかかってくる。まるで自分の体重が、一息に数倍にでも膨れ上がったかのようだった。踏ん張ろうとした足が、石畳にめり込むように沈む。
「見えない拳より、こっちの方が性に合ってるだろ? お前だけに、な」
フジツの声に、初めて余裕が戻っていた。
「動けねえだろう、その図体じゃあ」
嘲るような言葉が降ってくる。腕を上げるだけで、鉛の塊を持ち上げているような抵抗があった。指一本動かすたび、骨の芯まで軋む。息を吸うことすら、胸の上に岩でも乗せられているように重かった。
——警告。対象への重力操作を検知。通常の数倍の負荷が、全身にかかっています。
頭の中の一文が、やけに遠く聞こえた。
「そんなこと……言われなくても、分かってる……!」
歯を食いしばり、体を起こそうとする。指先が石畳を掻いた。膝が、再び崩れ落ちる。
フジツの拳が、ゆっくりと振り上げられた。急ぐ必要などない、とでも言いたげな、余裕に満ちた動きだった。この状態のこちらになら、外す理由がない。
「終わりだ、蓮」
振り下ろされる拳を、視界の端で捉える。躱すだけの脚力が、今の体には残っていなかった。両腕を交差させ、せめてもの防御に回す。骨を鳴らす衝撃が全身を貫き、視界が白く弾けた。重さに押し潰されたまま、地面に叩きつけられる。
「……ぐ……ッ」
声にならない呻きが漏れた。それでも、意識だけは手放さなかった。歯を食いしばり、鉛のような腕を、ほんの数センチだけ動かす。
背後で、悲鳴じみた声が響いた。ヒトミの衝撃波が誰かを弾き飛ばしたのか、それとも別の誰かの得物が折れた音か、判断がつかなかった。仲間たちの声が、遠く霞んで聞こえる。
「もう一発、いっとくか」
フジツが、愉悦の滲んだ声で拳を構え直す。指輪の光が、暗い赤黒さを増していった。振り下ろされる次の一撃を、今度こそ受け止めきれる自信はなかった。
——精神状態に大きな乱れを検知。呼吸を意識し、思考を止めないでください。
頭の中の一文に、奥歯を噛みしめる。思考を止めるな。分かっている。分かっていても、体がまるで動かなかった。動くのは、もう舌だけだった。
「……前世でも、自分じゃ何もできなかったもんな」
掠れた声で、それだけを吐き捨てた。非常階段で背中を押した、あの日のことだ。指一本で片をつけられなかった意気地なしが、今も指輪任せでいる。
フジツの顔が、大きく歪んだ。
拳が、振り下ろされる。
その刹那、指輪の光が、一瞬だけ揺らいだ。
「……あ?」
フジツ自身が、戸惑ったような声を漏らした。狙いが、わずかに逸れる。重さの圧力が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
——さっき、苛立ちに任せて声を張り上げた時も、確か同じように光が揺れた。
図星を突かれた動揺が、そのまま指輪の出力に表れたのだと、遅れて理解した。体を這わせるようにして横へ転がる。掠った拳の余波だけで、石畳が深く抉れた。
「くそ、が……!」
呻きながら、体を起こす。まだ、重い。だが、先ほどまでの、身動きの一つも許さない重さではなくなっていた。
——揺さぶりが効いています。動揺は、そのまま出力に出るようです。
その一文に、口の端が僅かに緩んだ。焦れば焦るほど、この男の武器そのものが、この男自身を裏切り始めている。
「調子に乗るなよ、蓮……!」
声に、初めて焦りが滲んだ。指輪の光が、赤から、不安定に明滅する色へと変わっていく。振り下ろされた拳が、狙いを僅かに外れて床を抉った。石畳が砕け、破片が飛び散る。重さの圧力も、もう安定した力としては機能していなかった。
——このまま揺さぶり続ければ、精度はさらに落ちます。
頭の中の一文に、口の端が緩んだ。あれほど正確だった拳筋が、今では明らかに読みやすくなっている。恐怖と動揺が、この男の武器そのものを鈍らせていた。
崩れ始めた均衡を、見逃すつもりはなかった。
えーはAIのえー




