Too Good At Goodbyes
オリバーは顔を上げ、緑の草原に沈んでいく赤い太陽を見つめながら物思いにふけった。ここに来るのもずいぶんと久しぶりだ。子供の頃よくパウラと並んで地平線に沈んでいく夕日を眺めたっけ。
彼は車から降りると、助手席にいるライアンに目をやって合図をした。ライアンはうつむいたまま長い時間をかけて車から降りた。
ライアンが手に持っている分厚い本は、その幼い外見とはおよそ似つかわしくないものだった。クレタ島に伝わる魔術を解説した貴重な本で、1845年に発行されたギリシャ語の書籍だ。
彼女は目を細め、蔦の絡まるレンガ造りの古い建物を見上げた。大きなゴシック様式の建物は、よく言えばフランス風の歴史を思わせる古風な豪邸だっだが、悪くいえば世界恐慌時代の負の遺産を象徴するような遺物だった。
「ここが孤児院ですか?」とライアンは言った。「まるで修道院みたいですね」
ロビーでは20歳前後の美しい女が二人を待ち構えていた。彼女はオリバーを目にすると一瞬表情を失い、何も言わずにただ彼を眺めた。しばらくして女は小さく微笑むとオリバーのそばにゆっくりと近づいていった。
「お久しぶりです。マスター・ヒドルストン」
キャロラインは身体の線が綺麗に出たグレーのスーツを着て、かかとの低いパンプスをはいていた。オリバーは自動的にうなずいた。彼女は真っすぐでつややかな髪を指で上品にかき上げると、手を伸ばしてオリバーと握手をした。柔らかい小さな手だった。
オリバーは黙ってキャロラインの顔を見つめた。キャロラインの印象は今から三年前、最後に彼女を見た10代の時とほとんど変わっていなかった。しかし気丈な曇りのない濃褐色の目が、姉のパウラとますます似てきた。そのことが彼をひどく切なく息苦しい気持ちにさせた。その綺麗な瞳はこの三年間、多くのことを目にしてきたに違いない。気の毒なキャロライン。過去に縛られて身動きの取れない女。
「君は変わっていないな」とオリバーは言った。ほかに適切な言葉が浮かんでこなかった。「ここも昔と同じだ」
「あなたはずいぶん感じが変わったわ」
しばらく沈黙があった。
キャロラインは小さく首を振ってから、離れたところにいるライアンに少しのあいだ目を向けていた。ライアンの顔には、はっきりとした戸惑いの表情が浮かんでいた。少女は言葉を飲み込んだままオリバーとキャロラインの顔を交互に見つめると、オリバーが何かを口にするのを待った。
オリバーがキャロラインに向かって言った。「この子がリチャードに話した少し訳ありの子だ」
キャロラインは呆然と立ち尽くしているライアンに歩み寄ると、小さな咳払いをしてから少女に向かって「こんにちは」と声をかけ、右手を差し出した。
「私はキャロライン。ここで教師の真似事をしているの」
ライアンは軽く頭を下げると、そっと右手を差し出した。
「とても素敵な指輪ね」
ライアンは黙ってキャロラインの顔を見ていた。それから小さな声で「はい」と答えた。
「あなたはライアンね。リチャードから話は聞いているわ。さあ、どうぞ中に入ってライアン。オリバーも」
「リチャードは出迎えに来ないのか?」
「一昨日から衛星電話の電源を切ったまま行方知れずよ。今頃ヒマラヤにでもいるんじゃないかしら」
「おい冗談だろう?」
「本当よ」
「急いで見つけて来いって俺に命令しておきながら、本人が来ていないのか?」
「今に始まったことじゃないわ」
キャロラインが木製の頑丈な扉を押し開けると、三人は白く輝く長い廊下を歩きだした。オリバーは後ろからついてくるライアンに振り返って話しかけた。
「思っていたよりも綺麗なところだろう」
ライアンはひどく無表情のまま口を開いた。「突き当りの壁が見えません」
「入るたびに広さが変わるんだよ」
ライアンは一瞬奇妙な顔をしたが、すぐにまた無表情に戻った。オリバーの隣ではキャロラインが困ったように微笑んだ。
「それでリチャードはいつ頃帰国する予定なんだ?」
「それがわかればいいんだけど」
「ここの管理はいま誰がやってるんだ?」
「実質ケビンとトヨヒコ、それから私の三人ね。以前より減ったとはいえここで暮らしている子供たちは20人近くもいるのよ。人手は全然足りないわね」
オリバーはわずかに顔をしかめた。「ケビンとトヨヒコがいればここは安泰だ。でもどうして君がまだここにいるんだ? 大学の寮で暮らしているんじゃなかったのか?」
「あなたがいない間にいろいろとあったのよ」とキャロラインは言った。「それにちっとも安泰なんかじゃないわ。ここのところ結界が不安定なのよ。もちろんあなたもわかっているでしょうけれど」
三人は無言で長い廊下を歩き続けた。大きな窓からは夕焼けの赤い空といくつかの小さな雲が見えた。天井の高い大理石の廊下は相変わらず念入りに掃除されていて、ごみのひとつ、しみのひとつも見つからなかった。白い壁には地上に存在するありとあらゆる護符が等間隔に刻まれている。普通の生活をしている大方の人間がここを訪れたら、怪しげな新興宗教の施設と感じるに違いない。
途中の広いホールでは5歳から8歳くらいの子供たちが何人か集まり、休憩用のソファーに座っていた。その中の一人の少年がキャロラインを見て嬉しそうに微笑むと、手にしているスプーンを高く掲げて見せた。するとスプーンはたちまち液体のようにぐにゃりと曲がった。少年が誇らしそうに笑った。それを見ていたまわりの少女たちがくすくすと笑い、ほかの少年たちが自分の持っているフォークやスプーンを真剣な顔で睨んだ。
「マスター。その人たち誰?」
スプーンを曲げた年長の少年が大きな声を出した。
「忘れちゃったの? こちらの方はマスター・ヒドルストンよ。昔あなたたちもちょっとだけ教わっていたでしょう」
キャロラインと子供達が話している間、ライアンは子供たちを見つめたまま小さな声でオリバーに尋ねた。
「少しあの子たちと話をしてもいいですか?」
オリバーは首を横に振った。「しばらくここであの子たちと暮らすんだ。明日にでもゆっくりと話せばいい」
「でも二人だけで積もる話があるんじゃないですか?」
オリバーは顎に手をあてた。確かにライアンの言うとおりだった。
「私の前では話しづらいこともあるはずです。ここで待っていますから気にせずに行ってください」
オリバーはうなずいた。「大人しく待っていろよ」
「ありがとうございます」
ライアンはそれだけ言うと早足で子供たちの集まっているソファーに向かって歩いて行った。
「なんだか娘を心配する父親みたいね」とキャロラインが言った。
広くてシンプルな応接室に入ると、オリバーは四人掛けの革のソファーに腰を下ろした。キャロラインはコーヒーの入ったカップをひとつオリバーに手渡してから自分も飲んだ。湯気の立ち上がる温かいコーヒーは、長い運転で疲労していたオリバーの神経を落ち着かせてくれた。
「大学はどうした?」
「今は休学しているの」
「いつ頃戻るんだ?」
「今のところ戻る予定はないわね」
彼はしばし沈黙してから彼女に言い聞かせるように言った。「子供の頃から医者になるのが夢だっただろう。戻らないと後悔するぞ」
「しないわ」と彼女はきっぱり言うと、ウイスキーの入ったボトルを手に取った。「こっちの方がよかったかしら?」
「いや、すぐに出発するから酒はいい」
キャロラインは神妙な顔をすると掛け時計に目をやった。
「今着いたばかりじゃない」
「やり残したことがある」
彼女はため息をついてから首を振った。
「あの少女をLAで見つけたって報告を受けてから到着するまでずいぶん時間がかかったけれど、いったい何があったの?」
「ここに来る途中、これまで見たこともないほど強い悪魔と出くわした。地獄に送り返すことも封じ込めることもできなかった。それから吸血鬼に会ってジョシュと少し揉めた」
キャロラインは目を細めた。
「悪魔に憑依された青年は救えなかった。吸血鬼は……見逃した」
キャロラインは何度か瞬きを繰り返すと、確認するようにゆっくりと尋ねた。「どういうこと? 詳しく説明して」
「俺が聞きたいくらいだ」
「悪魔払いに失敗はつきものよ。残念だけれどそれはある程度仕方ないわ。でも憑依された人間を助けられなかったの? あなたが?」
「誰にでも失敗はある」
彼女はカップをテーブルに置くと、目を細めてオリバーの顔を覗き込んだ。
「吸血鬼を見逃したっていうのはどうして?」
「仕方なかった」とオリバーは言った。そして自分がソフィアを見逃した顛末を簡単に説明した。
彼女はこめかみに手をあてて目を閉じるとしばらく考え込んだ。
「新鮮な血液がそう簡単に毎回手に入るわけないじゃない。いつかそのバンパイアは人を襲うわよ。わかってて見逃したの?」
「10歳の子供がいたんだぞ。その子にとってたった一人の身内を君なら手にかけられるのか?」
「だから言葉を話す魔物と会話をしちゃいけないのよ。見つけ次第粛清する。長い間そうやって私たちは人知れずに世界の均衡を保ってきた。あなたのしたことはコバルトに対する裏切りよ」
「わかっている。だが間違いだったとは思ってない」
キャロラインは浅くて長いため息をついた。
「やっぱりあなたは変わっていないわ」
オリバーはうんざりしたように首を振った。「終わったことをいつまでもダラダラ話しあったって無駄だ。俺はすぐにコロラドに戻らなきゃいけない。そこらじゅうで異常気象が起きてる。ヘルハウンドも現れた。何かとてつもなく大きなことが起きようとしている」
彼女はカップからコーヒーをひとくちすすり、窓の外に目をやった。初冬の夕暮れの光が応接室の床に敷かれたカーペットの上に差している。
「子犬を拾ったんじゃないのよ。しばらくここであの子のそばにいてあげなさいよ。身寄りのない子供が誰一人として知らない場所に置き去りにされることがどれだけ不安なのか、あなたには想像できないの?」
「なあ、人は孤独からしか学べないし強くなれない。荷物が重ければ重いほどそれは自立に繋がる。それは大人とか子供とかとは関係のないことだ」
「それはあなたの理屈よ」
しばらく重い沈黙が続いた。キャロラインは苛立っているように見えた。
少ししてからキャロラインは言いにくそう口を開いた。「あのボーイッシュな少女は……その、本当に天使なの?」
「嘘をついているようには見えない。何より強力な魔術が込められた指輪を自在に使いこなしている。それに正確にいうと天使の記憶を持って生まれた人間だ」
「私にはよくわからないわ。だって彼女の言うことが事実ならとっくに100歳を超えているんでしょう? どう見たって12、3歳くらいしか見えないもの」
「口にはしないがおそらく本人も混乱している。長い目で様子を見てやってくれ。いずれにしても天使は貴重な存在だ」
「リチャードは何年か前まで天使と繋がっていたけど、ある日ぱったり現れなくなったって聞いてるわ」
「真の姿を直接見ることができるのなんてリチャードくらいなもんだろう」
「パウラも繋がっていたわよ」とキャロラインは言った。それから唇を結んでコーヒーカップを見つめた。「姉さんは特別な存在だったから。私はどれだけ訓練しても目にすることはできなかったけれど」
「パウラは君をこちらの世界に関わらせたくなかった。どう転んでもまともな仕事とは呼べない。最後は食われるか刺されるか燃やされるかして誰からも同情されずに野垂れ死ぬのがオチだ」
「パウラのように?」
オリバーははっとしてから唇を噛んだ。
「すまない」
キャロラインは長い髪を上にあげ、形のいい小さな耳にかけた。それからわずかに首を振った。
「あなたがあの場にいた人たち全員を救おうとしてやったことだと頭では理解しているの。結果的に姉が選んだってことも。でも心の底で私はあなたのことを恨んでいるのよ。三年経った今でも、私はその歪んだ感情を手放せないでいる。私はあなたのしたことも、何もできずに泣くことしかできなかったあの日の自分も許せない」
「わかっている」
「何もわかってないわよ」、キャロラインは両手をテーブルの上に置いてしばらく黙り込んだ。「それでも私は、あなたにそばにいてほしかったのよ」
「すまない」とオリバーは言った。 「全部俺のせいだ」
キャロラインは静かに立ち上がると暖炉のそばまで行き、前かがみになって炎に見入った。彼女はしばらく瞬きもせずに炎を見つめていた。やがてどうしてなの、と掠れた声で呟いた。
「どうして一番苦しくて辛いときに私を置いて行ったの。そんなのってあんまりにも身勝手すぎるんじゃない?」
オリバーは無意識に立ち上がるとキャロラインの肩に黙って手を置いた。彼女の身体は細かく震えていた。彼は強い罪悪感と淡い憧れにも似た複雑な感情にとらわれた。キャロラインは両手で顔を覆った。
「本当にすまない」とオリバーは言った。「正直に言うと君のことを間近で見ているのが辛かった」
キャロラインは肩に置かれた大きな手にそっと自分の顔を乗せると、かすかに一度うなずいた。まぶたが細かく震えていた。しかし彼女は泣いているのではなかった。
「知ってるわ」
「なあ、君は大学に戻ってこことは別の場所で君にふさわしい人生を始めた方がいい。もしここにパウラがいたらきっとそう言う」
彼女は何も言わず、長いあいだじっと彼の手の上に顔を載せていた。
オリバーが廊下に戻るとライアンはいなかった。急いであたりを見まわすと、広い窓の向こうでライアンが中庭の池の前で立っているのが見えた。
ライアンは月と星の光を浴びて静かに夜の空を見上げていた。冬の月の光は穏やかで眩しく、月は水面にその神秘的な姿をくっきりと映し出していた。銀杏の乾いた葉が小さな音を立てて夜風に吹かれている。オリバーは時間にして五秒から十秒ほど気配を消し、息をひそめたままその光景を眺めていた。
「こんなところにいたら風邪引くぞ」
ライアンは口をつぐんだままオリバーの顔をじっと見上げた。それからふと思い出したように視線を外すと、念入りに自分の指輪を見つめた。
「キャロラインとトヨヒコがお前と話したいそうだ。トヨヒコは日本人で柔術の師範だぞ。面白いやつで料理が上手だ。彼からいろいろ教わったらいい」
ライアンは横目でちらりとオリバーを見た。
「てっきりあの女性が写真に写っていたパウラさんかと思いました」
彼は小さくため息をついた。「パウラとキャロラインは姉妹だ。子供の頃から似ていたが今では瓜二つだ」
「パウラさんはどこにいるんですか?」
「もういない」
「彼女に何があったんですか」
オリバーは芝生の上に腰を下ろすと、落ちていた小石を指で掴んで池に投げた。冬の月と星座を映した静かな水面が波紋を広げた。
「ある修道院の神父が三人のシスターを殺害して焼身自殺をした。修道院の付近では住民が立て続けに行方不明になっていた。俺とパウラは枢機卿から依頼を受けたリチャードの指示で異端審問官を装って偵察に向かった。高校生だったキャロラインは悪魔払いを直接見たいと言って俺たちに強引について来た」
オリバーは静かに小さく息をすると、目を閉じてあの日の出来事を思い返した。早いものであれから三年の歳月が過ぎ去っていった。しかし彼の脳裏には、つい昨日起きたことのようにクリアにあの日の映像が再生された。その記憶はこれからもこの先も、自分自身の影のように一生付きまとい、決して薄れることはないだろう。心の傷は時間が癒してくれるなんてのは根拠のないただの楽観的観測だなとオリバーはよく思った。魂に刻まれた傷はこの先何が起こったとしても一生癒えることなんてない。
あの日真っ暗な地下では拉致された罪のない人たちが猿ぐつわをされて椅子に繋がれていた。オリバーとパウラは隙を見計らって人質を解放していった。しかし地上で見張りをしていたキャロラインが、シスターに憑依していた悪魔に捕まり、オリバーとパウラは複数の悪魔に取り囲まれてしまった。
「悪魔どもはこちらの世界に生身で侵入する儀式を行おうとしていた。人質はそのための生贄だった。少なくとも奴らはそう信じていた」
オリバーは続けた。「悪魔は俺の一番大切なものを捧げれば人質の命は助けてやると交渉を持ちかけた。つまりパウラのことだ。腹を切り裂かれた俺は、あの日生まれてはじめて神や天使に心から救いを求めたよ。文字通り喉が枯れるほどな。もちろんどこからも助けなんて現れなかった。神にも天使にも見捨てられた俺は腹から血を流しながら、藁にもすがる思いで強力な悪魔を呼び出した」
しかし物事は彼の予期したようには運ばなかった。
「取引するために……?」
オリバーは短くうなずいた。
「もっと強い悪魔を自分に憑依させ、その力でそこにいた下っ端の悪魔どもを追い払おうとした。だが叶わなかった」
オリバーは目を閉じた。彼は夏のとうもろこし畑の中にいる。隣には青いワンピースを着た少女の頃のパウラがいる。彼は雨上がりの夏の匂いと、少し湿った土を肌に感じることができる。とうもろこしの葉を揺らすざわざわという風の音が聞こえる。彼女はゆっくりと上半身を起こすと、オリバーの目を見つめて優しく微笑む。彼はそっと彼女の額に唇をつける。
「パウラは自分の命と引き換えにその場にいた全員の命を救った。キャロラインは目の前で姉が切り裂かれ、地獄に引きずられていくのを見ていた」
パウラの視線、パウラの唇、共に歩むはずだった時間、そんなものがあの日、跡形もなく一瞬にして消えてしまった。
オリバーとキャロラインはその事件を最後に今日まで一度も顔を合わせることがなかった。リチャードから聞いたところ、彼女はその後一年間ほとんど誰とも口をきかず、ろくに部屋から出られなかったらしい。
「俺は」と口を開きかけてからオリバーは言葉を失った。それから立ち上がった。
俺はあの日からずっと方向を失い、人生の責任を回避して流されるまま生きてきた。いつかその借りを返せる日が来るのだろうか? でもどうやって?
ライアンがオリバーの手に自分の手をそっと重ねた。
「彼女を探すために地獄に降りて行った?」
彼はゆっくり息を吐いてからうなずいた。
「神が存在しているのは知ってる。だがお前たちのボスは人間に救いの手を伸ばすことも出来ないし、おそらく俺たちに関心もない。だからいつか必ず俺がパウラを見つけ出して地獄から救い出す」
「わかりました」とライアンは言って首を振った。それから手を伸ばすとオリバーの両腕を強い力で掴んだ。「あなたは何ひとつ間違っていません」
オリバーは深々と息を吸い込むと、顔を上げて夜空を見まわした。ライアンは彼の腕を掴んだまま顔を伏せ、何度も首を振った。
「ごめんなさい」とライアンがうつむいたまま呟いた。
オリバーは彼女の頭に手をのせると、不揃いな長さの髪を手のひらぐしゃぐしゃにかき混ぜた。それから相好を崩した。
「言いたくないことを言わせてしまってごめんなさい」、くしゃくしゃ頭のライアンが弱々しい声で言った。
オリバーは小さな子供に言い聞かせるように言った。「お前が謝ることなんてない」
彼はライアンの頭の上に手を置いたまま、身をかがめて彼女の小さな顔を覗きこんだ。
「お前にふたつ頼みがある。ひとつはキャロラインの話し相手になってほしい。ふたつ目は俺の分まで幸せになれ」
ライアンはさっと顔を上げると、オリバーの顔をまっすぐ見上げた。少女の顔の上でぐらりと表情が揺れるのがわかった。しかし彼女はすぐにまた顔を伏せてしまったので、その揺れの理由はわからなかった。
「本当に私を置いて行ってしまうんですか?」とライアンは尋ねた。声がかすかに震えていた。「地獄に行って生きたまま戻って来られたのは奇跡です。あなたがいくら魔術に精通していても、地獄や天国、無数に存在している多元宇宙を行き来するのには途方もない時間と才能と労力が必要なんです。人間の寿命じゃそもそも無理なんです。次に同じことをしたら生きて戻れません。今の私は記憶が曖昧な普通の人間ですが元々は天使です。きっとあなたの力になれます」
「リチャードは何千年に一度しか現れない最高位の魔術師だ。まだ若いし野心が強すぎるが本物の魔女も知っている。それで十分だ」
少女は肩で大きく息を吸い込んでから吐き出した。
「私ではあなたの相棒は務まらないですか?」
「前にも言ったが、お前には人として生きてほしいと思っている。それに俺はお前の父親の代わりにはなれない」
ライアンは黙って話の続きを待つ。
「いろいろあったが、ライアンに会えて良かった。お前には元天使というだけじゃなく、不思議と周囲を照らす淡い光があると俺は思っている。それはいつか誰かを正しいところに導くはずだ。その光を絶対に消すなよ」
オリバーはそう言ってから自分の額を彼女の額にぴったりとつけた。
「どれだけ遠く離れていてもライアンが幸せになるのを祈っている。お前も気が向いたとき、ほんの少しでいいから俺の幸運を祈ってくれ」
オリバーはライアンからそっと手を離すと、くるりと背中を向け、振り返りもせずに車に向かって歩いて行った。
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ライアンは数秒のあいだ池の前で立ち尽くしていたが、気がついたとき、彼女の二本の足は勝手にオリバーの元へと駆け出していた。
彼女はオリバーの前まで来ると、息を整えてしばらくそこに立っていたが、彼の顔には不思議なくらい表情がなかった。
「オリバー」と彼女は声をかけた。それから急いで手から指輪を外すとそれを彼に差し出した。「これをあなたに差し上げます」
短い沈黙があった。
しばらくしてオリバーは乾いた声で言った。「俺には使いこなせない」
「お願いだから貰ってください」
オリバーは小さくうなずくと、彼女の手から指輪を受け取った。
ライアンは反射的に手を伸ばすと、あらん限りの力で彼の胸に正面から抱きついた。頭の中が真っ白になった。オリバーは何も言わずに彼女の身体をただ強く抱きしめかえした。オリバーの大きくて温かい指の感触が背中から伝わってきた。
ライアンには進むべき道も思いつかなかったし、帰るべき家もいなかった。かつてはあったのかもしれないが、今はこの世界のどこにもない。少女にとって唯一の家族はオリバーだけだった。ライアンは彼の硬い胸に顔を押しつけながらきつく唇を噛む。いいえ、違うんです、と彼女は声に出して言いたかったが、言葉にはならなかった。父親になってほしかったわけじゃない。私はこの背が高くて無愛想な男の隣で共に迷い、共に生きたかったんだ。これが人として生きるという意味なのだろうか、とライアンは目を閉じながら思う。まるで砂粒ほどに細かく身体を刻まれて宙に撒かれてしまった気分だった。さまざまな感情が渦を巻き、瞬時に体中を駆け巡っていく。こんなにも切なく息苦しい気持ちになったのは初めてのことだった。ライアン少年の父親を手にかけた時ですらここまでの喪失感を彼女には与えなかった。彼女はペネムが言った言葉を思い出した。
「ライアン」、オリバーは目を閉じるとライアンの耳元で囁くように言った。それからまた目を開くと、彼女の顔を見つめながらそっと抱擁を解いた。「さよなら」




