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オデッセイ  作者: 右田優
14/20

終わりなき者 4

 

 すぐに起き上がることはできなかった。頭が重くかすんでいる。ソフィアのかけた魔術はまだしっかりとオリバーの身体に残っていた。彼は大きく息をつくとフェンスの上で半身を起こした。

「あの女を殺すのか」とオリバーはそばにいるジョシュに訊いた。

 ジョシュは刃のような冷笑を口元に浮かべた。「あたりまえだろうが。なんか文句でもあるのか」

 ジョシュがそう言って動いた瞬間、オリバーは隠し持っていたナイフを抜き取り、ジョシュの胸元に突きつけようとした。ジョシュは敏速に身を翻すとオリバーの右手首を強い力で握りしめた。ナイフが音を立ててフェンスの上に落ちる。

「俺の獲物を横取りしようってのか?」

 ジョシュは手の力を一切緩めず、憎悪のこもった目つきでオリバーを見据えた。オリバーも視線を外さなかった。

「見逃せ」とオリバーが低い声で言った。「今回は見逃せ」

 切れのある重い一撃がオリバーのみぞおちに走った。全身から力が抜けていく。オリバーは再びフェンスの上に倒れこんだ。ジョシュが物凄い力で上からオリバーの身体を押さえつける。オリバーは身体を起こそうともがいたが、抗いようのない圧倒的な力だった。

「邪魔するんならおまえも殺すぞ」

 ジョシュは落ちたナイフを手に取ると、オリバーの左手の甲にまさに躊躇なくナイフを振り下ろした。オリバーが呻き声をあげる。激しい痛みが全身を駆け巡る。右手はあっという間に赤く染まった。

「てめえはすっこんでろ」

そう言ってジョシュは後ろを振り返ることもなく早足で工場を出て行った。 

オリバーはきつく歯を食いしばり、柄の根元まで突き刺されたナイフを一気に引き抜くと、フェンスからずるずるとゆっくりずり落ち、アスファルトの上に倒れこんだ。

建物の外から複数の犬の鳴き声と銃声が聞こえてくる。彼は深く息を吸い込むと、肘をついてよろよろと身を起こした。

 視界に映る暗い工場は、嵐にあった船のように禍々しく上下左右に揺れている。彼は立ち上がってすべてのポケットに手を突っ込んでみたが、携帯も銃も見つからなかった。

オリバーは唇をきつく噛むとナイフを拾い上げ、銃声のした方向に向かって白い息を吐きながら走り出した。

  

         ♦♦♦   ♦♦♦   ♦♦♦   ♦♦♦



 ハリー少年は目を覚ますとソファーの上でゆっくりと起き上がり、部屋の中を見回してから首を傾げた。どうしてこんなところでこんな時間に寝てしまったのだろう? 母はどこにいるのだろう?

 用事を頼まれて戻ってくるとすでにオリバーの姿はなかった。急用ができたんですって、と母はいやに素っ気なくハリーに告げた。

 がっかりしていると母がそばに寄ってきて、顔を近づけてから聞きなれない短い言葉をつぶやいた。粉のようなものが顔にかかった気がした。記憶はそこでぷっつりと途切れている。

 母さんは僕に向かって何をつぶやいたのだろう? あの粉のようなものはなんだったのだろう? 彼はわけがわからないまま立ち上がると、母を探すために表へ出た。

 外はもう真っ暗だった。遠くから複数の狼の遠吠えが聞こえてくる。あちこちの厩舎から馬たちの怯える声がする。ハリー少年はピッチフォークを手に取ると早足で厩舎へと向かった。

 見慣れた農場はいつもと様子が違っていた。目に映る敷地内のすべての庭園灯が信号のようについたり消えたりを繰り返している。闇夜に響く馬たちのいななき、複数の狼の威嚇的な遠吠え。夜風に乗ってほんの微かに硫黄の匂いがしてきた。ひどくいやな予感がした。

すぐ近くで目には見えない巨大な獣が息を殺し、こちらの様子を伺っているような気配がした。注意しなければ気がつかないほど小さな息づかいの音。少年は思わず足を止める。庭園灯はさらに激しく点滅する。暗闇は幾重にも重なり、闇が深くなるにつれて不吉な影は急速に濃くなっていった。全身の血が冷えわたり心臓が早鐘を打つ。ハリー少年は動きを止めると、そこで銅像のように立ちすくんだ。その巨大な見えざる獣は、いつこちらに襲いかかろうかとタイミングを見計らっているような気がした。目の前でいったい何が持ち上がっているのか、ハリーにはまるで見当がつかなかった。

そこへ華奢な体つきの小柄な少女が、どこかから疾風のように走ってきて少年の前に立ちはだかった。少女は肩越しに大きな青い目でハリーを凝視した。

 ハリー少年は言葉を失い、ぽかんと口を開いて少女を見つめた。

「オリバーは?」

 ハリーは黙って首を振った。その美しい少女の年齢はたぶん12、3歳くらい。髪はブロンドでやや長めのショートカット。全身黒い恰好でキャスケットをかぶっている。ぱっと見少年にも見える。少女は幻でも見ているかのように目を細めると、あたりをぐるりと見まわした。

「ついてきて!」と少女は言ってハリーの腕を掴むと、自分の方へ引き寄せた。「車まで走って!」

 ハリーは突然現れた少女に引きずられるようにその場から駆け出した。

「オリバーに何かあったの?」とハリーは走りながら訊いた。

「どうして悪魔に追われている?」、少女は息せき切りながら横目でハリーの顔を見た。

「悪魔?」

「そう」

 ハリーは走りつつ戸惑いの表情を浮かべながら、少女の横顔を見た。

「なに言ってんの? 僕は母さんを探しているだけだよ」

 ハリー少年は見知らぬ少女と肩を並べ、車を目指して走った。何かが近づいて来る。少年は獣特有の臭気を感じ取った。浮かんでは消える黒々とした影。なぜなのかその影からは絶対的な怒りや憎しみといった負の感情がビリビリと伝わってきた。

 少女は短く舌打ちをしてから突然立ち止まると、器用に手を重ねて小さな声で何かをつぶやいた。重ねた手と手の間に眩しいほどの青白い光が浮かびあがると、彼女はすかさず腕を高く振り上げた。青い光はロープのように伸びると、鞭のようにしなりながら暗い宙を切った。打ち出された光は、こちらに飛び掛かってくる寸前の、巨大で黒光りしている二匹の獣を照らし出した。

 それは狼に似ていた。しかし狼にしては巨大すぎるし、あまりにも黒すぎた。脚は長く、毛は短い。筋肉は隆々と盛り上がっている。そして何よりも異様なのは、その獣には頭部が3つあった。ハリーはひとめ見てそれが邪悪な生き物だということを本能で理解した。悪魔、とハリーは思った。

 悪魔の狼のうちの一頭が、青く光る鞭に身体を縛られ、悲鳴をあげながら横転した。もう一頭は闇の中に逃げ出した。少女は横転した狼の化け物に駆け寄ると、片膝をついてしゃがみ込んだ。そして拘束されている巨大な化け物に顔を近づけた。

「お前は誰の使い魔だ?」

 悪魔の狼は、全身を大きく震わせながら低く耳障りな唸り声をあげた。開かれた口から白い鋭利な牙がびっしりと覗いている。小さな目は燃え盛る地獄の炎のように真っ赤に濁っている。少女は悪魔の狼をしばらく無言で見下ろしていた。彼女はその異形のものと口をきかずに意思疎通を試みているようにハリーには見えた。

 しばらくして少女は左手を回転させると、長さ30センチほどのガラスのような鋭利なものをどこかから呼び出し、それを化け物の身体めがけて容赦なく振り下ろした。化け物の断末魔が闇を切り裂いた。振り下ろされたガラス片のようなものは、化け物の身体に突き刺さるとその場で砕け散るように宙に消えていった。

 少女は真っ黒な返り血を全身に浴びて立ち上がった。ハリーはその光景を見て言葉を失った。足の裏から背中にかけて、冷たいものがさっと這いのぼっていった。

異形の狼たちがいなくなると、広い農場の庭園灯にぼんやりとした灯りが戻ってきた。普段見慣れている淡い灯りがひどく懐かしく感じられた。

 少しして今のなんなんだよ? とハリーは少女に向かって言った。

「あの怪物みたいなのは何? それにどっからあの武器を出したの?」

 少女は短いため息をついた。「今のは悪魔。正確にいうと悪魔の使い魔。通称ヘルハウンド」

 ハリーは大きく首を振った。「そんなまさか……信じられない……」

「初めて見る人は大抵そう言う」

「ねえ、母さんはどこ? 母さんは無事なの?」

 少女は険しい顔でしばらくハリーを見つめてから、静かに手を差し出した。

「一緒にお母さんを探そう」

 ハリー少年は少し迷ってから、差し出された手をそっと握り返した。

「僕はハリー。ハリー・ヘイワ―ス」と言ってジャンパーのポケットからハンカチを取り出すと、それを少女に渡した。 

 少女は無表情でハンカチを受け取ると、顔についた血をぬぐってから小さくうなずいた。

「ライアン」と少女は言った。それから繋いだ手に力を込めた。「絶対に私のそばを離れないで」

 重い銃声が再び夜の農場に響いた。



         ♦♦♦   ♦♦♦   ♦♦♦   ♦♦♦



夜の森は、今にも自分を死の世界に連れて行こうと大きく口を開いて待ち構えているような気がした。

 ソフィアは意識が薄れていくのを感じた。胸と脇腹に受けた銃創から血が流れ続けている。血と一緒に理性が流れていくかのようだ。抗うことがひどく苦痛だった。すべてを委ねて地面に倒れてしまったらどんなに楽だろう。ソフィアは首を振る。ハリーが一人で生きていけるようになるまで死ぬわけにはいかないとソフィアは思う。彼女は薄れゆく意識の中、なんとか立ち上がって追手から逃げようと、そばに立っている木に向かって腕を伸ばした。だが伸ばした腕はわずかに木に届かない。何度か空振りするうちにだんだんと手の動きは鈍くなり、ついに腕を上げることすらできなくなった。

 ほとんど意識を失いかけたその時、すぐ近くで神経質そうに甲高く吠える犬の声がした。目を開くと、暗がりの中に何匹もの犬を従えたジョシュが立っていた。

ソフィアは力ない声を出した。

「こないで……」

 ジョシュは素早くソフィアに歩み寄ると、細めの電信柱ほどありそうな腕を振り上げ、彼女の腹部めがけて何発も拳を振り下ろした。悲痛な絶叫が真っ暗な森の中に響き渡る。

 ジョシュはぐったりとしたソフィアの身体に覆いかぶさると、首にかかったネックレスを乱暴に引きちぎった。

「あのとき取り逃がした獲物をやっと仕留められるぜ」

「あんたあの時の……」、ソフィアは顔をひきつらせた。「あんたが父さんと母さんを殺したのね」

 ジョシュはにやりと笑うと、腰に差した鞘から刃渡り20センチはありそうな鉈を抜いて彼女に見せつけた。

「30年たってようやく探し出したんだ。簡単には殺さねえぞ。ゆっくり時間をかけて殺してやる」

ジョシュは面白いことでも思いついたように、薄い唇を曲げて笑った。彼は手と膝でソフィアの身体を押さえつけると、彼女の着ていたネルシャツのボタンを強引に引きちぎった。白い胸が露わになった。

「殺す前に楽しむか」とジョシュは言うと、はだけられたソフィアの胸を鷲掴みにした。「死ぬ前にちょっとはいい思いさせてやるよ。化け物だって好きだろ?」

 彼女は大きな音を立てて唾を飲み込むと、小さな叫び声をあげた。

 その時ジョシュの背後に人影が現れた。それは月に照らされたオリバーだった。ジョシュが振り返るとオリバーはすぐさま顔面を殴打した。

 ジョシュはオリバーの強力な右フックを食らうとその場でよろめいてから、低いうなり声を上げた。

「このくそがぁ!」

 ジョシュはオリバーの顔面に強烈なパンチを見舞い、さらにうずくまったオリバーの頭や肩を数回蹴りつけた。オリバーは一心不乱に立ち上がると先ほどのナイフをジョシュの腕をめがけて振り上げた。だがジョシュはさっとナイフをかわすと、コートの中に手を突っ込み、両手で素早く2丁の銃を構えてオリバーとソフィアに銃の先端を向けた。

「そんなに死にたいんなら今すぐ二人仲良く殺してやる」


目も眩むほど強烈な二筋の光が、目の端を一瞬で通り過ぎた。

 光はオリバーの耳をかすめてジョシュの身体に突き刺さると、ジョシュは二、三歩よろめいてから背後に重たく倒れ込んだ。二丁の拳銃が派手な音を立てて地面の上に落ちた。

オリバーは振り返って目を見開いた。

「ライアン!」 

遠くでライアンが肩で刻むように息をしている。ライアンの隣にはハリーの姿があった。

「それ以上手出しするなら」とライアンは息を切らしながら言った。「次は心臓を狙う」


ソフィアはすぐに立ち上がってナイフを拾い上げると、オリバーのかたわらを通り過ぎてジョシュのそばで屈みこんだ。

腕と足から血を流し、仰向けで地面に倒れているジョシュは、怒りと屈辱で目をギラギラさせながらソフィアを睨んだ。

「吸血鬼のクソアマが……」

「あんたを許さない」とソフィアは言うと、唇をきつく噛んでから手にしたナイフに力を込めて振り上げた。

 ハリー少年が大声で母さん! と叫ぶと、少年は持っていたピッチフォークを放り投げ、木の根に躓きながらソフィアに駆け寄った。


「ハリー、どうして……」 と言いかけて、ソフィアは言葉を失った。

ハリーは黙って自分の手を広げ、ソフィアの両腕を強い力で掴んだ。

「母さんは、僕の自慢の母さんなんだ。だから、だから、こんな奴のために手を汚しちゃ駄目だ。絶対に」とハリーは言った。それから顔を伏せた。「母さんが何者でも僕にとってはたった一人の大切な母さんなんだ」

 ソフィアは少し間をとって何かを考え込むと、両手で顔を覆った。


 ライアンはオリバーのそばに駆け寄ると、手を伸ばして血まみれの左手を自分の胸元に引き抱き寄せた。その小さな身体は小刻みに震えていた。

「あなたは無茶をしすぎです」とライアンは目を閉じたまま言った。

オリバーはライアンの頬にそっと右手を触れた。それから小さな笑みを浮かべた。

「無茶でもしなきゃここまで生き延びられなかったからな」

ライアンは薄く目を開くと、困ったように眉を下げた。

「あまり心配をかけないでください」

「すまない」とオリバーは言った。それから血の滲んだ耳を人差し指で指した。「俺もお前に傷を負わされた。これでおあいこだ」

ライアンは少し考えていた。それから唇を軽く緩めた。


         ♦♦♦   ♦♦♦   ♦♦♦   ♦♦♦   



 美しい眺めだった。見渡す限りの豊かな緑と青い空。

 舗装されていない道路の真ん中にRAV4を停車させると、オリバーとライアンは車から降りてバンパーにもたれかかった。オリバーはクーラーボックスからビールを取り出すと、それを一気に半分まで飲んだ。

「ヘルハウンドか……」とオリバーは言った。それからまた一口ビールを飲んだ。「狙いはハリーだったのか?」

 ライアンはわからないという風に首を振った。

「ハリーにいろいろ聞いてみたんですが、あの子は誰とも取引なんかしていませんでした。ところで手はまだ痛みますか?」

「ああ、お前のおかげで痛みはもうほとんどない」とオリバーは答えた。「ソフィアも悪魔とは無関係だな」

 ライアンは少し言いにくそうに言った。「ソフィアさんが何もせずにハリーを身ごもったって信じるんですか?」

「おそらくそれはないだろう。忘れたいことは誰にでもひとつやふたつある」

 しばしの沈黙があった。

「あの親子は近いうちに街を出るようです」

「そうだろうな。あのジョシュに居場所を知られたんじゃおちおち眠ることも出来ない。またヘルハウンドが現れるかもしれないしな」

「ソフィアさんがこれから先も耐えてくれればいいんですが」とライアンは言った。それから少し間を置いた。「そうじゃないといつか私が彼女を仕留めることになるかもしれません」

 オリバーは少女をちらりと横目で見た。「ソフィアなら大丈夫だ。心配ない」

 しかし正直なことを言うと、ソフィアがこれから先何百年も人を襲わずにいられるのかは疑問だった。

 吸血鬼の寿命は正確には誰もわからない。リチャードに聞いたところ、これまで確認できた吸血鬼の最高齢は600歳だったらしい。吸血鬼の最期は首を落とされるか、絶望して自ら命を絶つかのどちらかだった。そう考えるとオリバーは吸血鬼という存在に対していくらか気の毒に思えた。何百年という言葉は彼に永遠を約束していた。

 ライアンは何も言わずに背中を反らせ、どこまでも続く高い青空を見上げた。

 オリバーはライアンの頭に手をやると、上からぽんぽんと軽く叩いた。

「もう飲んだからお前が運転するんだぞ」

 少女は小さく笑った。


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