終わりなき者 3
車のエンジンの単調な排気音と、ゆっくりとした調子のやや低い歌声が、意識の朦朧としたオリバーの耳に響いてきた。
気がつくとオリバーは網目状のフェンスの上で仰向けになって寝ていた。フェンスは地面に積まれた四ヶ所のブロックの上に乗せられている。
彼は少しずつ意識を回復すると、何度も勢いよく咳き込んでから目を開いた。そこは暗くて広い場所だった。天井は体育館のように高く、壁には無数のパイプがまとわりついている。夜の冷たい風が彼のまわりを吹き抜けていった。どうやらここは閉鎖された工場のようだった。横たわっている彼のそばにはライトをつけたままの車が停めてある。
オリバーは身体を起こそうとしたが、すぐに両手と両足が針金のようなものでぐるぐる巻きに固定されていることに気がついた。彼はフェンスの上で激しく身をよじらせると、言葉にならない怒鳴り声をあげた。 (おおスザンナ)の歌声がピタリと止まり、頭のちょうど後ろあたりから誰かがゆっくりと近づいてくる気配がした。
「どうしてこんなところに寝てるのかと思ってるだろうけど」
オリバーは左右に首を振った。
「ソフィア……」
オリバーを見下ろしているソフィアの顔には少しの動揺も恐れも浮かんではいなかった。
「少しだけれど私も魔術が使えるの。でも以前よりずっと力が増してるわ。だって1時間以上もこうしてあなたを気絶させることが出来たんだもの。お陰でいろいろと調べさせてもらったわ。あなたは本格的な魔術が使えるようね、オリバー・ヒドルストン」
「俺をこんなところに縛り付けてどうするんだ?」
ソフィアは身体を折って自分の顔をオリバーの顔に近づけると、いろんな角度から彼を眺めた。黒い瞳がオリバーの青灰色の瞳とぶつかった。
「ハリーからあなたのことを聞いた時、只者じゃないとすぐにわかったわ。ねえ、逃げようとしたって無駄よ、銅線だから魔術は効かないわ」
オリバーはソフィアの目を見据えながら言った。「俺を新しい仲間に引き入れたいのか?」
「仲間ですって? 」、ソフィアはオリバーからそっと視線を逸らすと、彼の耳元に囁きかけるように言った。「冗談じゃないわ」
「あんたは吸血鬼なんだろう? 血も吸わずに俺を生け捕りにしたってことは仲間にするためだ」
ソフィアの冷たい指が、何かを確認するようにオリバーの顔の上をゆっくりと這いまわった。
「仲間なんていらないわ。私はただ息子と一緒に生き延びたいたいだけよ」とソフィアは言った。「どうして私たちを放っておいてくれないの? どうして回りくどいやり方をしてハリーに近づいたの? あの子は関係ないのよ」
「人間を襲う吸血鬼を放っておくわけにはいかない。それにハリーと知り合ったのは偶然だ」
ソフィアは目を閉じてからため息をついた。「私はもう何年も人間を襲っていないわ」
「じゃあ誰が二人の釣り人を殺したんだ?」
彼女はゆっくりと身体を起こすと、薄暗い廃工場の中をぐるりと見まわした。
「私はずいぶん長いこと生きて、物事の始まりと終わりを何度も目にしてきた。けれどそのどれもたいした意味なんてなかった。昔は大勢の人間で賑わっていたこの工場と一緒」とソフィアは言った。「けれどたったひとつだけ私の人生にも意味のあることが訪れた。それはハリーよ。あの子を授かったのは正真正銘の奇跡だった。妊娠を知った瞬間から人間を襲っていないわ」
ライトに照らされたソフィアの端整な横顔に、淡い悲しみの影が差した。
「そんなこと不可能だ。吸血鬼にとって人間の血は欠かせないもんだろう。10年以上も血を吸ってなかったら不死と呼ばれているあんたらだってさすがに飢えて死ぬはずだ」
ソフィアは首にかけられている銀の弾丸を指でそっと触った。
「ずいぶんと吸血鬼に詳しいのね。あなたコバルトの人間?」
「だったらどうした?」とオリバーは言った。「素手で銀に触れて平気なのか?」
「もちろん痛いわよ。これは昂ぶった感情を鎮めるためのお守りなの。ねえ、私の両親は二人ともコバルトに殺されたのよ」
「人間を守るのが俺たち組織の役目だ。あんたら悪魔の派生は人間の血を吸って殺すだけじゃなく新たな化け物を生み出す。見逃すわけにはいかない」
ソフィアは唇を噛んだ。弾丸に添えられた彼女の細い指が微かに震えた。
「私は本能を抑えるために鶏や牛の血を飲んでずっと我慢してきたのよ。ほかにも食事療法や瞑想で誘惑を退けてきた」
「なんだって?」
「それが優しかった父の教えよ。私たちは絶滅の危機にあるの。いくら人間より長寿で力があっても数では人間に敵わない。だから父は人間を襲わずに共存する道を家族に示した。それなのに父の言い分に少しも耳を傾けもせず、コバルトの連中は残酷な手段で父を殺したわ」
オリバーは唇を固く結んだまましばらくソフィアの顔を見ていた。
「なあ、いくら涙ぐましい努力をしたって10年以上も血を吸わない吸血鬼なんているわけがない」とオリバーはきっぱりと言った。混乱している思考を断ち切ってしまいたかった。「10年前、6人の男女を殺したのはあんただな? 人間を襲う度に街を転々としているんだろう?」
「私じゃないわ。今の時代はお金さえ払えば新鮮な血を買うことができるのよ」
「ハリーの父親も吸血鬼なのか?」
ソフィアは首を振ると、ジャンパーのポケットから小型のナイフを取り出した。脇の下に冷たい汗が流れるのをオリバーは感じとった。
「あの子は吸血鬼じゃないわ」
「人間との間にできた子供か?」
「いいえ」とソフィアは言った。彼女は鞘からナイフを抜くと、それを天井にかざした。「最初から父親なんていないのよ」
「どういう意味だ?」
「私は誰とも交わらずにあの子を授かったの」
オリバーは息を呑んだ。
「じゃああんたは悪魔になったはじめての女、リリスの血を引いた第二の聖母マリアってことか。中世だったら拷問されて火あぶりの刑だな」
「信じなくてもいいわ。けれどあの子は人間よ」
「そんな話を信じると思うのか?」
ソフィアは無表情に言った。「縛られているあなたを騙して、私に何の得があるの?」
「俺をどうするつもりだ? 言っておくが俺の血は一滴残らず呪われてるぞ」
ソフィアはナイフをじっと見つめたまま黙っている。
オリバーは続けた。「あんたはハリーの自慢の母親だ。優しい母親がこんなところに隠れて俺を始末したのがバレたらあの子はどう思うだろうな」
「少し黙りなさい」とソフィアは低い声で言った。彼女はナイフを下ろすと、左手でオリバーの髪を乱暴に掴んだ。「立場をわきまえなさい。今すぐお前の血を一滴も残さずに吸いつくすことだってできるのよ」
オリバーは息をつめてソフィアを睨みつけた。「たぶんあんたは俺を殺さない」
「さあ、どうかしら? いま生き残っている吸血鬼たちは全員コバルトに恨みがあるわ。お前の身柄を補給用としてあいつらに引き渡すことだってできるのよ。暗いところに監禁されて何か月も死なない程度に血を吸われれば、死にたくなくても死にたいって思うわよ」
「自分の手は汚さずに餌として人間を提供するのか? 」とオリバーは冷ややかな声で言った。「愛する息子の友達を殺すのなら責任を持ってあんたがやれ。化け物とはいえ母親だろう」
ソフィアは右手を高く振り上げ、ナイフを地面に叩きつけると、拳をきつく握りしめてオリバーの頬に思い切りストレートを打ち込んだ。顔面から激しい痛みが走り抜け、口の中に鉄の味が広がった。
「若造のお前に何がわかるって言うの? お前たち人間こそ正義を振りかざしているつもりの残酷な破壊者で悪魔よ!」
ソフィアは左手でオリバーの胸倉を掴むと、再び右手の拳を振り上げた。しかしその拳はなかなか振り下ろされなかった。
オリバーはソフィアの顔を正面から見る。やがて彼女の黒い瞳から涙がこぼれる。腕の力が少しずつ抜けていくのが伝わってくる。ソフィアはオリバーの胸倉を掴んだままきつく目を閉じると、声を出さずに泣き続けた。
「お願いよ」、ソフィアは今にも消え入りそうなか細い声で言った。「私はいつ首を切り落とされても構わない。でもあの子はまだ10歳でこの広い世界に頼れるのは私しかいないの。せめてあと5年、いいえ、2年だけ待って。お願い。なんでもするから」
長いあいだオリバーは、彼女の微妙なまつげの動きと流れ続ける涙を見つめて口を閉ざしていた。遠くから犬の鳴き声がした。
男の怒鳴り声が広い倉庫に響いたのは、ソフィアの涙がシャツの上に音を立てて落ちた時だった。彼女は後ろを振り向いて声の方に目をやる。その低い声の持ち主は自動小銃を手にしたジョシュだった。
ソフィアはすかさずフェンスから飛び退いた。ジョシュは彼女に向けて立て続けに銃を発射した。足と腕に銃弾を撃ち込まれたソフィアは、短い悲痛な叫び声を上げると、さっさっと敏捷に身体の向きを変えながら工場の外に向かって走り出した。彼女の動きは素早く、なかなか弾は命中しない。薄暗い工場の中に重い衝撃音が鳴り響き、あちこちに着弾の砂煙が上がった。ジョシュは逃げ惑う影に照準を合わせ、弾が尽きるまで銃弾を撃ち込んだ。
オリバーは思わず叫んだ。「やめろ!」
オリバーの声が耳に入らないのか、ジョシュは不気味な笑みを口元に浮かべたまま新しいマガジンをセットし、再び暗闇に向かって引き金を引いた。その顔には冷たい殺意と陰鬱な快楽が笑みとなってはっきりと浮かんでいた。
ソフィアは苦痛に呻き声を上げながら、ガラスを破って暗闇に逃げ去った。
ジョシュは構えていた銃を下ろすと、にやりと笑ってから光の乏しい目でオリバーを見据えた。
「よお、オリバー。ざまあねえな」
「何しやがる! あんなに弾を撃ち込んでどうするつもりだ!」とオリバーは大声で怒鳴った。「銃で吸血鬼は殺せない!」
ジョシュは少し驚いたように言った。「俺は超一流のプロだ。銃で奴を仕留められないことくらい知ってる」
「あの女は人間を襲わないんだぞ!」
「あの女だって?」、ジョシュは呆れたように言った。「あの化け物に何を吹き込まれたか知らんが、俺はおまえを助けたんだぞ。礼を言うのが筋ってもんだろうが」
ジョシュはペンチを使って手際よく銅線を切っていった。オリバーは目を閉じたまま黙ってうなずいた。
「ライアンに手出しをしてないだろうな?」
「ライアン?」とジョシュは言う。「あんなど素人のガキを使っているのか? おまえもずいぶん落ちぶれたもんだな」
「深い訳がある」
「まあ、どうだっていい。俺が何よりも興味のあることは吸血鬼をいたぶってから首を切り落とすことだ」
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ライアンは全力を尽くしてサリヴァン農場に向かって走り続けていた。1台の車がやっと通りかかると、彼女はほとんど反射的に車の前に飛び出していた。ハンドルを握っていた男は、いきなり飛び出してきた小さな人影を見て勢いよくブレーキを床まで踏みこんだ。車はブレーキの音を響かせてライアンのいる場所から僅か50センチ手前で急停止した。
車通りの少ない夜道を運転していた若い夫婦は、恐るおそる車から降りると、ボンネットの前でふらふらと地面に崩れ落ちてしまった子供らしき人物にそっと近寄った。
ハンドルを握っていた夫は声を震わせながら言った。「おい君、大丈夫か?」
「ぶつかってないわよね?」と妻が夫の腕をつかんで感情的に尋ねた。夫は妻に向かって弱々しくかぶりを振ってから、地面に横たわっている子供に目を向けた。
彼は背をかがめると、とにかく急いで病院に連れて行こうと小さな身体に向かって腕を伸ばした。その時地面に倒れていた子供は、突然起き上がって差し出された腕を力強く握り返した。驚いた彼は慌てて身体を引いたが、その美しいボーイッシュな少女は、力づくで彼の身体を自分の方に引き寄せると、両手で頭を押さえつけた。夫はすぐに目を閉じると、その場で膝から崩れた。それを見ていた妻は叫び声を上げようとしたが、深い海のように青い瞳が彼女をとらえると、彼女もすぐに夫の上に重なるように倒れこんだ。
ライアンは道路の真ん中で眠りに落ちてしまった夫婦を手早く安全な場所に移動させると「ごめんなさい」とつぶやいてから運転席に乗り込んだ。
「オリバー」
ライアンはそうつぶやくと、アクセルを強く踏み込んだ。




