第十四話 花咲く丘で
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ライゼン家の馬車は、王都を離れ、緩やかな街道を進んでいた。
窓の外には初夏の陽光を浴びた草原が広がり、その向こうには濃い緑の森が続いている。街中では決して目にすることのない長閑な景色が、馬車の進みに合わせてゆっくりと流れていった。
ユリアナは窓際へ座り、その景色を静かに眺めていた。
表情はいつもと変わらないものの、瞳だけは忙しなく景色を追い掛けている。
(すごい……)
王宮からライゼン家へ移る時にも馬車へ乗ったが、あの時は周囲を見渡す余裕などなかった。
こうして落ち着いて窓の外を眺めるのは、ほとんど初めてだった。
風に揺れる麦畑の向こうでは牛や羊がのんびりと草を食み、街道沿いには澄んだ小川が穏やかに流れている。
目に映るものすべてが新鮮で、そのたびに胸が少しずつ弾んだ。
思わず窓へ顔を近づけそうになり、慌てて姿勢を正す。
(危ない、危ない)
はしゃいでいると思われるのは、少し恥ずかしい。
何事もなかったように座り直した。
その様子を向かいから見ていたクラリッサは、小さく口元を緩めた。
「楽しそうね」
「えっ?」
ユリアナは反射的に自分の頬へ手を当てる。
「顔に出ていましたか?」
「いいえ」
クラリッサはくすりと笑った。
「お顔はいつもどおりよ。でも、目がずっと外を追い掛けているもの」
ユリアナは少しだけ照れたように視線を伏せた。
隣では、エドワードも穏やかな笑みを浮かべている。
「楽しんでくれているようで何よりだ」
その言葉に、ユリアナは小さく微笑んだ。
「……はい」
その一言だけで、クラリッサにもエドワードにも十分伝わった。
この日を迎えるまでにも、一つ小さな騒動があったことを思い出し、ユリアナは思わず苦笑する。
それは数日前の朝食の席でのことだった。
数日前――
その日の朝食も、ライゼン家では穏やかな時間が流れていた。
食事も一段落した頃、エドワードが思い出したように口を開く。
「そういえば、ユリアナ」
「はい」
「先日話していた、お出かけの件だが」
ユリアナは顔を上げる。
「行きたい場所は決まったかな?」
「はい」
迷いのない返事だった。
その様子に、クラリッサは嬉しそうに微笑む。
「まあ、もう決まったのね」
「はい。厳選いたしました」
ユリアナは胸を張る。
その自信に満ちた様子に、エドワードとクラリッサは顔を見合わせる。
(よほど行きたい場所があるのだろう)
花の名所だろうか。
湖畔だろうか。
あるいは王都で評判の店かもしれない。
そんなことを考えていると、ユリアナが指を一本立てた。
「第一候補は、王立図書館です」
「なるほど」
エドワードは一つ頷いた。
(確かにユリアナらしい)
そう思った、その時だった。
「第二候補は、王立学園図書館です」
「……」
エドワードの表情が止まる。
さらにユリアナは満足そうに三本目の指を立てた。
「そして第三候補は、貴族院資料館です」
食堂へ、何とも言えない沈黙が流れた。
エドワードは静かにこめかみへ手を当てる。
クラリッサは笑顔のまま固まっていた。
その反応が不思議だったのか、ユリアナは首を傾げる。
「どうかなさいましたか?」
「いや……」
エドワードはゆっくり息を吐いた。
「君は、厳選したと言ったね」
「はい」
ユリアナは大きく頷く。
「何日も考えました」
その表情には、やり切ったという満足感すら浮かんでいる。
「その結果が、この三か所です」
「そうか……」
エドワードは再びこめかみへ手を当てた。
「家の書庫へ籠もってばかりだから、たまには外へ出ようという話をしていたはずなのだが……」
一拍置いて苦笑する。
「外へ出てまで書庫へ籠もるという発想は、さすがに予想していなかったよ」
ユリアナはきょとんと首を傾げた。
「ですが、どれも一度は訪れるべき場所ではないかと……」
真剣そのものの返事だった。
その様子に、クラリッサは思わず笑みを漏らす。
「この子、"外出して楽しむ"ということ自体が、まだよく分かっていないのね」
その一言に、エドワードもようやく腑に落ちたように頷いた。
言われてみれば、そのとおりだった。
クラリッサは優しく微笑みながら、ユリアナへ問い掛ける。
「ユリアナは、前はどんなふうにお出かけを楽しんでいたの?」
「前……ですか?」
ユリアナは少し考え込んだ。
前世の記憶をたどる。
「そうですね……」
ゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。
「学生時代は、放課後も休日も予備校で勉強するか、図書室で過ごしていました」
「前世でもか!?」
思わず声を上げたエドワードへ、クラリッサが小さく苦笑する。
ユリアナは二人の反応に気付かないまま、さらに続けた。
「就職してからも、休日はセミナーへ参加したり、書店や図書館で資料になる本を探したりしていました」
エドワードは静かに目を閉じる。
クラリッサも笑顔のまま固まっていた。
(これは……筋金入りね)
そんな思いが、二人の間を静かに行き交う。
その空気をよそに、ユリアナが「あ」と小さく声を上げた。
「でも……」
何かを思い出したように手を軽く打つ。
「同僚の方は、休日になるとお店を見て回ったり、気になっていたレストランで食事をしたりしていました」
「ふむ」
エドワードはようやく頷いた。
「それから、家庭を持っている方でしたら、遊園地のようなレジャー施設へ行ったり、景勝地へ出掛けたりもしてまいした」
「よびこう……? せみな……?」
クラリッサが首を傾げる。
「ゆうえん……? れじゃあ……?」
エドワードも聞き慣れない言葉を繰り返した。
ユリアナは、しまったという顔になる。
「あっ……すみません。前世の言葉でした」
「構わないわ」
クラリッサは苦笑する。
「半分くらいは分からなかったけれど、景勝地へ……?
景色の美しい場所へ出掛けるということかしら」
「景色を眺めながら、家族でのんびり過ごしたり、お弁当を食べたりするそうです」
「ああ……」
クラリッサが嬉しそうに手を合わせた。
「ちょうどこの季節、とても綺麗な場所があるの」
エドワードが口を開く。
「王都から馬車で半日ほどの丘だな」
「ええ」
クラリッサは頷いた。
「花が一面に咲いて、本当に素敵なのよ」
ユリアナは、その光景を思い描くように小さく目を細めた。
「そこへ……行くのですか?」
「もちろん」
クラリッサは迷いなく答える。
「日帰りもできるし、エドワードのお休みに合わせて、三人で行きましょう」
隣で話を聞いていたエドワードは、小さく苦笑した。
(もう決まっているんだな)
そう思いながらも、不思議と異論を挟む気にはならなかった。
「ああ」
穏やかに頷く。
「せっかくの機会だ。家族三人で出掛けよう」
その言葉に、ユリアナは嬉しそうに微笑んだ。
「はい。よろしくお願いいたします」
こうして、三人で初めて出掛ける日が決まった。
そして迎えた当日――
◇
馬車が丘の上へ差しかかり、視界が一気に開ける。
その瞬間だった――
「……わあ」
ユリアナの口から、小さな感嘆の声が漏れた。
馬車の前には、一面の花畑が広がっていた。 赤や白、黄色、紫の花々が風に揺れ、丘全体を鮮やかに彩っている。
見上げれば、どこまでも続く青空。
吹き抜ける風は心地よく、甘い花の香りを運んできた。
ユリアナは思わず馬車の窓へ顔を寄せる。
表情はほとんど変わらない。
しかし、その瞳は、隠しようもないほど輝いていた。
(すごい……こんな場所、本当にあるんだ――きれい……!)
心の中では、何度も「すごい」と叫んでいた。
それでも顔には、わずかに口元が緩む程度しか表れない。
クラリッサはそんなユリアナを見て、そっとエドワードの袖をつついた。
「見てくださいな」
「ああ」
エドワードも小さく笑う。
「今日は随分と目が輝いている」
「ええ」
「本人な自覚はないのだろうけれどな」
「気に入っていただけたかしら?」
クラリッサが微笑みながら尋ねる。
ユリアナは振り返ると、少し照れたように頷いた。
「はい。こんな場所は初めてです」
馬車が止まり、御者が扉を開く。
ユリアナは地面へ降り立つと、目の前へ広がる景色をもう一度見渡した。
足を踏み出すたびに花の香りが風に乗って届く。
書物の中でしか知らなかった景色が、今は目の前に広がっていた。
そのどれもが、胸の奥へゆっくりと染み込んでいく。
「少し歩いてみましょう」
クラリッサの声に、ユリアナは小さく頷いた。
三人は並んで丘の散策を始める。
名前を知っている花もあれば、初めて目にする花もある。
「これは何という花ですか?」
「こちらは春の終わり頃から咲く花よ」
クラリッサは立ち止まり、一つひとつ丁寧に教えていく。
ユリアナは興味深そうに耳を傾け、ときおりしゃがみ込んでは花を眺めた。
その様子を見ながら、エドワードは穏やかな笑みを浮かべる。
「今日は書物ではなく、本物の植物の勉強だな」
その一言に、ユリアナは少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「……確かに、そうですね」
花の間をゆっくり歩きながら、たわいない会話を楽しんだ。
王都では決して味わえない穏やかな時間の中で、季節の花を眺めながら他愛もない話を交わす。
急ぐ必要のない時間が、静かに流れていた。
やがて丘の中ほどまで歩いたところで、木陰に設けられた白いテーブルセットが目に入る。
侍女たちはすでに準備を終え、温かな紅茶と軽食が並べられていた。
「少し休憩にしましょう」
クラリッサがそう声を掛けると、ユリアナも素直に頷く。
今日だけは、本を閉じ、未来のことも忘れてよかった。
ただ、家族三人で過ごすためだけに用意された、穏やかな休日だった。
◇
焼きたてのパンに、色鮮やかな野菜を使った料理。
果物を添えた菓子と、湯気の立つ紅茶。
青空の下で囲む食卓は、屋敷での食事とはまた違った趣があった。
「外でいただくと、同じお料理でも不思議と違って感じますね」
ユリアナがそう呟くと、クラリッサは嬉しそうに頷く。
「でしょう?」
「景色もご馳走の一つなのよ」
ユリアナは改めて辺りを見回した。
見渡す限りの花畑と青空を眺めながら口にする料理は、心地よい風も手伝って、いつも以上に美味しく思えた。
食事を終えると、三人はしばらく木陰でのんびりと紅茶を楽しむ。
誰かに急かされることも、何かを急いで片付ける必要もない。
穏やかな時間だけが静かに流れていた。
やがてユリアナは席を立つと、少し離れた花畑へ歩いていった。
しゃがみ込み、咲いている花を一輪ずつ眺め始める。
その様子を見守っていたクラリッサは、不思議そうに首を傾げる。
「ユリアナ?」
クラリッサが不思議そうに見守る中、ユリアナは花を傷めないよう茎の長さを確かめながら、いくつか摘み取っていく。
摘んだ花を膝の上へ並べると、細い茎を一本ずつ丁寧に編み始めた。
「まあ……」
クラリッサが思わず声を漏らす。
ユリアナの指先は迷いなく花を編み込み、細い茎を傷つけることなく編み込み、少しずつ輪の形が出来上がっていく。
エドワードも興味深そうにその様子を眺めていた。
「見事なものだな」
「花冠、です」
手を止めることなく、ユリアナが答える。
「前世で、支援先の村の子どもたちが遊びながら作っていて、私も教えてもらったんです。」
最後の一本を編み込むと、小さな花冠が完成した。
ユリアナは形を整え、そっとクラリッサへ差し出す。
「よろしければ、どうぞ」
「私に?」
「はい」
クラリッサは目を丸くしたあと、嬉しそうに受け取った。
「ありがとう」
そう言って花冠を頭へ乗せる。
色とりどりの花は、穏やかな笑みを浮かべるクラリッサによく似合っていた。
「似合います」
ユリアナが小さく微笑む。
表情の変化はわずかだったが、その声はいつもより少しだけ弾んでいた。
「ふふ、ありがとう」
クラリッサも照れたように笑う。
その様子を見ていたエドワードは、小さく肩をすくめた。
「私にはないのかな?」
珍しく拗ねたような口調に、ユリアナは一瞬きょとんとする。
次の瞬間、小さく吹き出した。
「では、もう一つ作ります」
その言葉に、クラリッサがくすりと笑う。
初夏の丘には、穏やかな笑い声が静かに溶けていった。
◇
花畑の向こう、深い森の木陰。
木立に身を潜めた何者らが、丘の様子をじっと見つめていた
視線は一度も逸れることなく、楽しげに過ごす三人だけを捉えている。
風が枝を揺らす――
葉擦れの音だけが静かに響く。
その姿は濃い木陰へ溶け込み、丘にいる誰の目にも映ることはなかった。
迫りつつある危険を知る者は、まだ誰もいなかった。
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