第十三話 行きたい場所
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エレノアの訪問から、一か月ほどが過ぎた。
ライゼン家には、あの日以来これといった騒ぎもなく、穏やかな日々が流れている。
ユリアナの日々も、驚くほど変わり映えのしないものだった。
朝はクラリッサと共に朝食を取り、教師の訪れる日は午前中を授業に充て、そうでない日は書庫で本を読む。
昼食を挟み、午後も書庫で調べ物をする日もあれば、クラリッサの手伝いをすることもある。
以前では考えられなかった、静かで温かな毎日だった。
そんな生活の中でも、ユリアナだけは変わらず書庫へ通い続けていた。
手に取る本にも、少しずつ変化が表れていた。
歴史書や法律書も手に取るが、最近最も多く開いているのは医学書や薬学書だった。
「やっぱり……」
読みかけの本を閉じ、ユリアナは小さく呟く。
「私は、医の道へ進みたい」
あの日、エレノアを救った出来事が、その思いを強くした。
治癒魔法は隠し通さなければならない。 それでも、人を救う道まで手放すつもりはなかった。
前世で学んだ知識と経験。
この世界で本を読み続けて得た知識と魔法。
それらを生かせる道があるのなら、進みたい。
だが、現実はそう簡単ではない。
この国で王宮に仕える医官は、ほとんどが男性だった。
女性の医官がいないわけではない。
しかし、その多くは妊婦や産後の女性を診る役目を担っており、立場も決して高くはない。
一方、庶民の町へ目を向ければ事情は少し違っていた。
町医者の娘が父の仕事を手伝い、そのまま家業を継ぐことも珍しくない。
また地方では、薬師と医師を兼ねる者も多く、薬師に女性が多いこともあって、女性の医師が活躍している地域もあると書かれていた。
ページをめくりながら、ユリアナは静かに考える。
「でも……」
自分が目指したい場所は、そこでもなかった。
宮廷医官になって王侯貴族だけを診る未来は想像できない。
町医者になることも、一つの道ではある。
けれど、それだけでは何か足りない気がした。
思い浮かぶのは、これまで見てきた前世の人々だった。
病気になっても薬を買えず、怪我をしても医者へ掛かれない。働けなくなれば、その日の食事さえ失ってしまう。
そんな人たちを、前世で何人も見てきた。
今世でも、そうした人たちは決して少なくないだろう。
――いや、この国では前世以上かもしれない。 王族や貴族、裕福な商人はほんの一握りで、大半の人々は決して豊かな暮らしを送っているわけではない。
助けを必要としている人は、自分が思っている以上に多いはずだった。
「助けたいのは……そういう人たちなんだよね」
静かな書庫に、小さな独り言だけが溶けていく。
そのためには、単に医師になるだけでは足りない。 怪我や病気に苦しむ人が安心して足を運べる場所を作らなければならない。
一人でも多くの命を救うには、それだけの土台が必要なのではないか。
そこまで考えたところで、ユリアナの手が止まった。
「施設……?」
その言葉を口の中で転がす。
診察を受ける場所があり、患者を休ませる部屋がある。必要な薬を調合し、その材料となる薬草も自分たちで育てられる――
そんな光景が、ぼんやりと頭の中へ浮かんできた。
まだ輪郭は曖昧だ。
だが、もしそんな場所を作ることができれば、今より多くの人を助けられるかもしれない。そ
ユリアナは白紙を引き寄せると、羽根ペンを手に取った。
思い描いた構想を、忘れないうちに書き留めておきたかったのである。
まず思い浮かんだのは、患者を診察するための建物だった。 怪我人や病人を休ませる病室も必要になるだろう。 さらに、薬を調合する設備も欠かせない。
できれば薬草を栽培する畑も併設したい。
薬をすべて外から仕入れていては、診療費も高くなってしまう。
薬草から育てられれば、費用も抑えることができ、少しでも多くの人を救えるはずだった。
「それから……」
ペンを走らせながら、さらに考えを巡らせる。
建物を用意するだけでは足りない。 そこで働く医師や薬師はもちろん、患者の世話をする者も必要になる。
一人でできることには限界がある以上、いつかは同じ志を持つ人を集める仕組みも考えなければならない
そこまで考えたところで、ユリアナは思わず苦笑した。
「まだ、何十年も先のことかもしれないのに」
思い描く理想だけは、どんどん膨らんでいく。
だが、それを実現するには避けて通れない問題があった。
「……お金」
建物を建てるための土地代も必要になるし、働いてくれる人へ支払う費用も必要になる。
思いつくまま必要なものを書き出していくたびに、紙の上には項目が増えていく。 それに伴って必要な費用も膨らみ、合計を想像しただけで気が遠くなりそうだった。
何をするにも資金は欠かせない。 前世で参加していた事業団も、活動を続けるために資金集めへ奔走していたことを思い出す。
「これじゃあ、一生働いても足りないかも……」
小さくため息をつく。
もちろん、今すぐ建てようという話ではない。
少しずつ貯金をしながら、何年も掛けて準備していけばいい。
そう考えていた、その時だった。
「……あれ?」
ふと、以前エドワードが話していたことを思い出す。
第十三王女として本来受け取るはずだった支援金や、王家から支払われることになった補償金については、詳しい話はまだ聞いていなかった。
「そういえば、あのお金ってどうなったんだろう……」
あの時は、それどころではなく、詳しく聞く余裕もなかった。
だが今となっては、気になる。
もし自由に使えるお金があるのなら、その構想を形にするための第一歩になるかもしれない。
ユリアナは羽根ペンを置くと、小さく頷いた。
「夕食の時に聞いてみよう」
そう決めると、机の上の紙を丁寧に重ね、引き出しへしまった。
夢を実現するには、まだ何もかもが足りない。
それでも今日という日は、その実現へ向けた最初の一歩になったような気がした。
その日の夕食。
いつものように穏やかな食卓を囲みながら、ユリアナは昼間から考えていたことを、いつ切り出そうかと機会をうかがっていた。
何度か口を開こうとしたものの、そのたびに言葉を飲み込んだ。お金の話は、どうしても少し聞きづらかった。
しかし、いつまでも先延ばしにしていても仕方がない。
ユリアナは意を決して、向かいに座るエドワードへ尋ねた。
「少しお聞きしたいことがあるのですが」
「何だい?」
エドワードは食事の手を止める。
「王宮からの支援金というのは……現在、どれくらい残っているのでしょうか?」
その瞬間。
エドワードの動きが止まった。
「……支援金?」
「はい」
ユリアナは真剣な顔で頷く。
あまりにも予想外の質問だったのか、エドワードは一瞬言葉を探した。
「急にどうしたんだい?」
隣で聞いていたクラリッサも、不思議そうに首を傾げる。
「何か欲しいものでもあるのかしら?」
「ええ、まあ……」
ユリアナは少し考える。
そして、真面目な顔で答えた。
「病院が欲しくて」
エドワードもクラリッサも、しばらく言葉を失った。
食卓に、妙な沈黙が流れる。
「…………」
エドワードとクラリッサが、揃ってユリアナを見る。
ユリアナは首を傾げた。
「……何か問題がありますか?」
「いや……」
エドワードは額へ手を当てた。
「問題というか……」
まさか、欲しいものを尋ねた答えが病院だとは思わなかった。
クラリッサも困ったように笑う。
「普通は、服や宝石、家具などを考えるところだと思うのだけれど」
「そういうものは、もう十分すぎるほどいただいていますから」
ユリアナは自然に答える。
その言葉に、二人は少しだけ目を細めた。
以前なら、「欲しいものはありません」と遠慮して終わっていただろう。 それが今は、自分ではなく誰かのための願いを口にしている。
「……詳しく聞かせてもらえるかな」
エドワードが穏やかに促した。
食後、三人は居間へ移動する。
居間へ移ると、ユリアナは昼間から考えていた構想を静かに語り始めた。
医療の道へ進みたいこと。 そして、いつかは貴族だけでなく、困っている人たちも安心して診てもらえる場所を作りたいこと。
そのために、今から少しずつ準備を始めたいと考えていること。
「ですから、すぐにという話ではありません」
ユリアナは慌てたように付け加える。
「必要な知識を身につけながら、少しずつ資金も蓄えていければと思いまして……」
エドワードは、ユリアナが話し終えるまで黙って耳を傾けていた。 時折、小さく頷きながら。
やがて、ユリアナが言葉を止めると、エドワードは穏やかに口を開いた。
「つまり、今すぐ建てたいというわけではなく、将来に向けて準備をしておきたいということだね」
「はい」
ユリアナは頷く。
「まだ私自身、今世の医療について十分な知識を持っているわけではありませんし、もっと勉強しなければいけません」
少し考えるように視線を落とす。
「ただ、いつか必要になった時に、『何も準備できていない』という状況だけは避けたいと思っています」
その言葉に、クラリッサは優しく微笑んだ。
「本当にあなたらしいわね」
「そうでしょうか?」
「ええ」
クラリッサは頷く。
「自分が欲しいものではなく、誰かのために必要なものを考えているところがね。」
ユリアナは少し照れたように視線を逸らした。 そんな言葉を向けられることには、まだ慣れていなかった。
「ただ…問題は資金です」
現実的な部分へ戻る。
「土地を用意して、建物を建て、人を集めるとなると……かなり長い時間が必要になると思います」
エドワードはその言葉を聞いて、少し苦笑した。
「その心配なら、そこまで必要ないかもしれない」
「え?」
ユリアナが顔を上げる。
「そういえば、この話はまだ詳しくしていなかったね」
エドワードは椅子へ背を預ける。
「君が本来受け取るはずだった王女としての支援金は、長年にわたって横領されていた」
ユリアナの表情が少し曇る。
自分が知らないところで起きていたことだ。
けれど、今となっては過去の話でもある。
「その分の返還に加えて、今回の件に対する王家からの補償もある」
エドワードは続けた。
「もちろん、浪費できるようなお金ではない。だが……」
少し間を置く。
「君が考えている規模の施設を一つ建てるくらいなら、資金面で大きな問題にはならないだろう」
「……」
ユリアナは言葉を失った。
「えっと……」
しばらく考えたあと、恐る恐る尋ねる。
「そんなにあるんですか?」
クラリッサが思わず笑う。
「あなた、自分が王女だったことを時々忘れているでしょう?」
「……」
否定できなかった――
これまでの人生で、王族として何かを与えられる経験はほとんどなかった。 食事も衣服も、安心して眠れる場所でさえ、自分にとっては当然に用意されるものではなかったからだ。
加えて、正式に第十三王女として扱われるようになってから、まだ一年も経っていない。
物心ついて以来、今世の大半は下働きとして酷使される毎日を送ってきたのだ。
王女としての自覚など湧きようがない。
だからこそ、今こうして未来のために使えるものがあると言われても、まだ実感が追いつかなかった。
「……なら、資金の問題よりも、どのような場所にするかを考えた方がいいということですね」
エドワードは目を細めた。
「普通なら、まず自分が何を買えるか考えるものなのだが――」
「そういうものなのですか?」
ユリアナは首を傾げる。
「必要なことに使えるのでしたら、その方が良いと思うのですが……」
迷いのない答えだった。
エドワードとクラリッサは顔を見合わせ、小さく笑い合った。
「まあ、急いで決める必要はない」
エドワードが言う。
「今から少しずつ考えていけばいい」
「はい」
ユリアナは頷いた。
頭の中では、すでにいくつもの考えが浮かんでいた。
どのような施設なら本当に人を救えるのか。必要な人材をどう集め、どのような医療を届けるべきなのか。
まだ答えは出ていない。
それでも、考えるべき未来があるという事実が、ユリアナには不思議と嬉しかった。
それは以前のような不安から生まれる悩みではなかった。
夢を形にするための悩みだった。
そんなユリアナを見ながら、クラリッサがふと思い出したように口を開く。
「でも、その前にね」
「はい?」
「ユリアナは、少し楽しむことも覚えた方がいいと思うわ」
ユリアナはきょとんとした。
その反応に、エドワードも苦笑する。
「君は食べて眠る時間を除けば、勉強をしているか、書庫に籠もって本を読んでいるかのどちらかだからね」
「そんなことは……」
言いかけて、ユリアナは口を閉じた。
少しだけ……いや、結構思い当たる節があった。
「だからね」
クラリッサは優しく微笑む。
「今度、皆でお出かけしましょう」
その言葉に、ユリアナの表情が固まった。
「……お出かけ?」
まるで、その言葉自体が未知のものだったかのように。
エドワードとクラリッサは、その反応を見て思わず顔を見合わせた。
その言葉の意味を量りかねるように、ユリアナは目を瞬かせた。
「えっと……一緒に?」
思わず確認する。
クラリッサは不思議そうに首を傾げた。
「ええ。もちろん、あなたとエドワードと私でよ」
「ですが……」
ユリアナは戸惑う。
「まだ考えることもありますし、病院のことも――」
「だからよ」
クラリッサは柔らかく遮った。
「考えることがあるからこそ、少し休んで楽しむ時間も必要なの」
ユリアナは黙る。
言われてみれば、その通りだった。
ライゼン家へ来てからというもの、自分はこれからの生き方や、自分に何ができるのかを考え続けてきた。 誰かの役に立つには何をすればいいのか、その答えを探す毎日だった。
それは決して嫌なことではない。
むしろ、初めて自分で未来を考えられることが嬉しかった。
けれど、クラリッサたちの言うとおり、楽しむということは、いつの間にか頭の片隅へ追いやってしまっていたのかもしれない。
「……どこへ行くのですか?」
ようやく出た問いに、クラリッサは微笑んだ。
「それを今から考えるのよ」
「私もですか?」
「ええ」
エドワードも頷く。
「行きたい場所を考えておいてくれ」
その言葉に、ユリアナはまた困った顔になる。
「行きたい場所……」
そんなこと考えたことがなかった。
下働きの頃のユリアナには、明日のことを考える余裕などなかった。
失敗せず、怒られず、一日を終えることだけを考えて生きてきた。
そうして一日を終えられれば、飢えることなく生き延びることができた。 そんな毎日だった。
ライゼン家に来てからは、明日の食事や寝る場所を心配せずに過ごせるようになった。
娯楽について尋ねられても、すぐには答えが浮かばなかった。 自分が何を望んでいるのかを考えること自体、これまでほとんどなかったのだから。
「……少し、考えてみます」
そう答えるのが精一杯だった。
「ええ。急がなくていいわ」
クラリッサは笑う。
「ただ、次の安息日は、一緒に出かけましょう」
「はい」
ユリアナは頷いた。
そして、その夜。
寝室へ戻ったユリアナは、しばらく窓の外を眺めていた。
「行きたい場所を考えておいてくれ」
エドワードの言葉を思い返す。
自分は、どこへ行ってみたいのだろう。 何を見てみたいのだろう。
そんなことを考えているうちに、ふと小さな笑みがこぼれた。
遊びに行く先を思い悩む時間が、自分にもある。
それ自体が、少し前までのユリアナには考えられないことだった
「……ねえ、エドワード」
「何だい?」
「家族でどこかへ出かける予定を立てるだけでも、何だかワクワクしません?」
エドワードが眉を上げる。
「……そう、なんだろうか?」
「結婚してから、こうして出かける予定を考えることなんて、一度もありませんでしたわ」
その言葉に、エドワードは一瞬黙る。
そして、咳払いをした。
「人は何歳になっても、新しい体験ができるものだよ」
あまりにも真面目な顔で言うので、エレノアは思わず笑ってしまう。
「まあ……」
呆れたように、しかし嬉しそうに目を細めた。
「レオンとアレクの時には、そんなこと少しも考えなかったあなたがね」
エドワードは何も言い返せなかった。
ただ、少しだけ苦笑する。
昔の自分には見えていなかったものが、今なら少し分かる気がした。
ユリアナが、少しでも笑って過ごせる時間を増やしてやりたい。 そんなことを思う自分がいることに、エドワードは小さく苦笑した。
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