第十二話 約束
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客室へ静寂が落ちる。
マギーはユリアナを真っ直ぐ見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。
「貴重なお時間をいただきありがとうございます。
この度は、先日の医務室でのことについて、お伺いしたいことがございまして、第六王女殿下に無理を言ってこの機会をいただきました」
「はい、それでどのようなことを尋ねられたいのですか?」
ユリアナは静かに問いかける。
「まず、お断りしておきます」
マギーは、これから話す内容はすべて医務室にいた複数の者から聞き取りを行い、裏付けを取ったものであることを前置きした。
「エレノア様は、医師の方々が診察された時点では、呼吸もままならないほど苦しんでおられたと聞いております。
そして、医師の方々が退出された後、およそ十分ほどで症状は劇的に落ち着いておられたとも伺いました」
その声に責める様子はない。
ただ、事実を一つひとつ確認しているだけだった。
「私は長くエレノア様にお仕えしておりますが、それほど短時間で症状が落ち着くところは、一度も見たことがありません」
ユリアナは黙って耳を傾けていた。
「姿勢を整え、医師の方が処方された薬を服用されたとのご説明は、確かに承りました。
それらが回復を助けたことは疑いません。
ですが、あの短時間で劇的な改善が見られた理由としては、それだけでは説明がつかないように思えるのです」
マギーは一度言葉を切る。
「何か私の知らない対処法がおありでしたら、ぜひご教示いただきたいのです」
客室には物音一つなかった。
ユリアナたちが答えないまま沈黙が続くと、マギーは静かに言葉を継いだ。
「もう一点、私が疑問に思いましたのは……」
穏やかな口調は変わらない。
だが、その視線は一つひとつ事実を確かめるようにユリアナへ向けられていた。
「宮殿医様には、とても必死に食い下がっておられたと聞いております。
しかし、医師は追加の処置を施すことなく退出されたそうですね。
その後、クラリッサ様のご指示で、侍女を一人残らず部屋の外へ出されたとも伺いました」
マギーはそこで言葉を切った。まるでユリアナの表情を確かめるように、静かに視線を向ける。
ユリアナはその視線を受け止めながらも、何も答えなかった。
「そして十分ほど後、戻った者たちが目にしたのは、先ほどまで呼吸もままならなかったエレノア様とは思えないほど落ち着いたご様子だったと申します。
さらに、お二人はご回復を確認されると、そのまま医務室を後にされたとも伺っております」
客室には静かな緊張が流れていた――誰も口を開かない。
ユリアナは静かにマギーを見つめ返していた。
胸の内では、やはりそこへ辿り着いたかと、小さく息を吐いていた。
「もちろん、一つひとつを見れば偶然で説明できるのかもしれません。
ですが、それらが一つの出来事として重なると、私にはどうしても見過ごせないのです」
マギーは椅子から立ち上がる。
そして、深々と頭を下げた。
「お願いでございます」
その声には先ほどまでの冷静さとは違う、切実さが滲んでいた。
「エレノア様の命に関わることなのです」
頭を下げたまま続ける。
「もし、あの時だけの奇跡ではなく、今後同じような方を救える方法があるのでしたら……どうか、どうかお教えいただけないでしょうか」
その場には再び重い沈黙が戻る。
マギーの姿にエレノアが、小さく息をついた。
「マギー」
穏やかな声だった。
「もう、そのくらいになさい」
マギーは動かない。
「ですが……」
「十分です」
エレノアはゆっくり首を横へ振った。
「ユリアナ様を困らせるために、今日ここへ伺ったわけではありません」
しかし、それでも。
マギーはなお頭を下げたまま、一歩も引こうとはしなかった。
部屋には重苦しい沈黙が流れていた。
マギーは頭を下げたまま動かない。
エレノアも、それ以上は言葉を重ねなかった。
やがて、ユリアナは静かに息を吐いた。
「……分かりました」
その一言に、マギーがゆっくりと顔を上げる。
エドワードもクラリッサも、黙って成り行きを見守っていた。
ユリアナは二人へ一度だけ視線を向ける。
――ここで手札を切る。
昨日、エドワードと話して決めた、一つの大きな秘密だ。
「ですが、その前に、一つだけお約束をお願いいたします」
ユリアナは真っ直ぐエレノアとマギーを見つめた。
「これからお話しすることは、この部屋にいる皆様だけの秘密にしてください。
決して他言なさらないと、お約束いただけますか」
マギーが小さく眉を寄せる。
「……それほど重要なお話なのですか?」
「はい」
ユリアナは頷く。
「方法そのものは、それほど大層なものではありません」
一拍置いて、静かに続けた。
「ですが、その話だけが一人歩きすれば、余計な混乱を招きかねません」
エレノアは静かに頷く。
「もちろんです。
今日ここで伺ったことは、私もマギーも決して他言いたしません」
「ありがとうございます」
ユリアナは安堵したように微笑んだ。
「それでは、まず一つ確認させてください。
私が水魔法と風魔法を使えることは、ご存じですよね?」
エレノアは少し考えたあと、小さく笑った。
「ええ。春の宮廷夜会で、第四王子殿下と第五王女殿下を見事に吹き飛ばされたことは、今でも語り草ですもの」
その言葉に、客室の空気がわずかに和んだ
マギーも口元を押さえた。
「……あの時は、侍女たちの間でも大変話題になりました」
ほんの一瞬だけ、口元が緩む。
第四王子と第五王女の横暴に振り回されていたのは、王族だけではない。
侍女たちもまた、日頃からその横暴に振り回され、鬱憤を募らせていたのである。
ユリアナは少しだけ苦笑した。
「その魔法を応用しました」
「応用……ですか?」
エレノアが首を傾げる。
「様々な医学書や文献を読んでいて、一つ気になったことがありました」
ユリアナは静かに話を続ける。
「薬は、できるだけ患部へ直接作用させた方が効果を発揮しやすい――そう書かれていたのです」
マギーが真剣な表情で耳を傾ける。
「そこで私は考えました。
薬を細かな霧にし、呼吸とともに吸い込めば、直接気管や肺へ届き、より効果があるのではないかと……」
客室が静まり返る。
「あの時、水魔法で薬を可能な限り細かな霧へ変え、風魔法で少しずつエレノア様のお口元から送り、呼吸とともに気管や肺へ届けました」
「……それだけ、なのですか?」
「はい」
ユリアナは素直に頷いた。
「もちろん、成功する保証などありませんでした」
その声は静かだった。
「推測に過ぎませんでしたし、本当に効果があるのか、自分でも分かりませんでした」
少し目を伏せる。
「結果として症状は落ち着きましたが、あれほどの効果が出るとは、私自身予想しておりませんでした」
そして、ゆっくりと頭を下げる。
「もし、あの判断が軽率であったとお考えでしたら、その責任はすべて私一人が負います」
真っ直ぐ前を向いたまま続けた。
「どうか、ライゼン家の皆様には責任が及ばないようお願いいたします」
その言葉に、誰もすぐには口を開かなかった。
静寂を破ったのは、マギーだった。
「でしたら、その方法を今後のためにも――」
なおも何かを問おうとした、その時だった。
「もう十分です」
穏やかな声が、その言葉を遮った。
エレノアだった。
マギーは驚いたようにエレノアを見つめた。
エレノアは静かに立ち上がると、ユリアナへ向き直った。
「そのお話で十分です」
「エレノア様……」
「成功する保証のない方法を試したことは、本来であれば褒められることではないのでしょう」
そう前置きして、小さく首を横へ振る。
「ですが、あの時の私は、このままでは助からない状況だったのでしょう?」
ユリアナは答えなかった。 静かに目を伏せる。
その沈黙だけで十分だった。
「ならば、私はその判断を責めることはいたしません」
エレノアはゆっくりと頭を下げた。
「それどころか、改めてお礼を申し上げます」
「私の命を救おうとしてくださり、本当にありがとうございました」
「お、お顔を上げてください!」
今度はユリアナが慌てて立ち上がる番だった。
「私は本当に、自分にできることをしただけですから」
クラリッサも思わず苦笑する。
王女が伯爵令嬢へ頭を下げるなど、普通なら考えられない光景だった。
マギーもまた、口を開きかけたまま言葉を失っていた。
やがてエレノアが顔を上げる。
客室は再び静けさに包まれた。
誰もすぐには言葉を発しない。
マギーは、なお胸の内に引っ掛かるものを感じていた。
説明は筋が通っている。
水魔法と風魔法を応用したという説明にも筋は通っている。
だが、本当にそれだけで、あれほど劇的な回復が起こるものだろうか。
疑問は残る――
しかし、それ以上追及することはできなかった。
エレノアが、ユリアナを信じると決めたからだ。
ユリアナもまた、表情こそ穏やかだったが、胸の奥では張り詰めていた糸が少しだけ緩むのを感じていた。
どうにか切り抜けられた―― 少なくとも今は、それで十分だった。
だが、本当に信じてもらえたのかどうか、その答えだけはまだ分からない。
エドワードもクラリッサも、最後まで口を開かなかった。
それでよかった――
この場で最も大切なのは、自分たちがユリアナを庇うことではない。 ユリアナ自身の言葉で、この場を乗り越えることだったからだ。
しばらく流れた静寂を破ったのは、再びエレノアだった。
エレノアは場の空気を和らげるように、小さく微笑んだ。
「ところで、ユリアナ様」
「はい」
「一つ、不思議に思っていたことがあるのです」
エレノアは少し首を傾げる。
「それほど精密な魔力操作は、どのように身につけられたのですか?」
ユリアナは一瞬だけ目を瞬かせた。
その質問は予想していなかった。
「春の宮廷夜会でも思いました」
エレノアは続ける。
「風魔法でお二人を吹き飛ばした時もそうでしたが、必要以上に周囲へ被害を広げることなく、狙った相手だけへ魔法を当て、思いどおりの場所へ吹き飛ばしていらっしゃいました」
エドワードは苦笑交じりに頷いた。
「実は、その件については王宮でも少し話題になっていたそうだ」
「ええ」
エレノアも頷く。
「王宮魔道士団では、『あれほど精密な魔力操作ができる者には、ぜひ話を聞いてみたい』という声まで上がっていたそうです」
ユリアナは思わず苦笑した。 それだけは、できれば聞かなかったことにしたい話だった。
「そんな大した理由ではありません」
そう前置きすると、静かに語り始める。
「魔法が使えるようになったのは、春の宮廷夜会より少し前のことです」
エレノアもマギーも、静かに耳を傾ける。
「第四王子殿下と第五王女殿下の暴行を受け、死にかけたことがきっかけでした」
客室の空気がわずかに重くなった。
「その時、必死に生き延びようとしているうちに魔法が発現したんです」
ユリアナは苦笑した。
「ですが、魔法が使えると知られれば、また何をされるか分かりませんでした」
だから、と続ける。
「なるべく人目につかないように、こっそり練習を続けました」
庭の隅や人気のない場所で、誰にも見つからないように。 人前で使う時も、誰にも気付かれないように。
「少しでも思いどおりに使えるようにならなければ、生き残れないと思っていましたから」
静かな口調だった。
だが、その言葉には幼い少女のものとは思えない重みがあった。
エレノアは目を伏せた。
目の前にいる少女は、ただ魔法が上手な王女ではない。 生き延びるために、その技術を身につけるしかなかった少女だった。
「……そうでしたか」
その短い返事には、痛ましさと、自分の知らなかった現実へのやるせなさが滲んでいた。
ユリアナは改めて姿勢を正す。
「ですから、この件も含め、どうか秘密にしていただけると助かります」
「魔法そのものより、目立つことの方が怖いのです」
エレノアは穏やかに頷いた。
「もちろんです。このお話は誰にもいたしません」
その隣で、マギーも頭を下げる。
「……口外はいたしません。それは、お約束いたします」
その言葉に偽りはなかった。
だが、その胸中にはなお拭えない疑問が残っていた。
――本当に、それだけなのだろうか。
霧状にした薬だけで、あれほど劇的に回復するものなのか。
説明に矛盾はない。
それでも、どうしても引っ掛かる。
この方法は、王宮魔道士団と宮廷医師団が協力して検証すべきものではないだろうか。
職務柄、一度抱いた違和感は簡単には消えなかった。
もっとも、それを今ここで追及するつもりはなかった。
今日得られた答えだけでも、この訪問には十分な価値があった。
残る疑問は、自分の中で預かっておけばいい。
ようやく、ユリアナの肩から力が抜けた。
話は終わった。
そう思った、その時だった。
「ああ、そうでした」
エレノアがふと思い出したように立ち上がる。
「最後に、一つだけよろしいでしょうか」
ユリアナが首を傾げる。
次の瞬間だった。
エレノアは一歩近づき、そっとユリアナを抱き寄せた。
「ありがとうございました」
「えっ……」
突然のことに、ユリアナは目を丸くする。
耳元で、エレノアが小さく囁いた。
「医務室で意識が朦朧としていた時のことです。
身体の奥へ、温かなものが流れ込んできたような気がしたのです」
ユリアナの鼓動が一瞬だけ速くなる。
まさか――
気付かれているのだろうか。
だが、エレノアは優しく微笑んだ。
「その時、不思議と感じました――
生きなさい、と
そう背中を押していただいたような気がしたのです」
ユリアナは何も答えられなかった。
ただ、小さく息をのみ、抱き締め返すこともできずに立ち尽くしていた。
治癒魔法に気付いているのか。
それとも、本当にそう感じただけなのか。
確かめる術はない。
エレノアは静かに身体を離した。
「助けていただいた意味を無駄にしないよう、これからの生き方を考えていきたいと思います」
その優しい笑顔に、ユリアナも自然と笑みを返した。
「きっと、エレノア様なら大丈夫です」
エレノアは嬉しそうに目を細めた。
「それから、もう一つ」
「はい?」
「急に姉妹と言われても、お互い戸惑ってしまうと思いますので」
少し照れたように笑う。
「まずは、お友達としてお付き合いいただけませんか?」
その申し出に、ユリアナも思わず笑みをこぼした。
「はい。ぜひ、よろしくお願いいたします」
二人は改めて笑顔を交わした。 先ほどまで客室を包んでいた緊張は、もうどこにもなかった。
その様子を見ていたクラリッサも、エドワードも穏やかな表情を浮かべていた。
マギーは深く一礼する。
「本日は、不躾な質問を重ねましたこと、お詫び申し上げます」
「いいえ」
ユリアナは首を横へ振った。
「大切な方を案じてのことですもの。お気になさらないでください」
その言葉に、マギーもようやく柔らかな笑みを見せた。
やがて、一行は玄関へと向かう。
ライゼン家の面々に見送られながら馬車はゆっくりと王宮へ向けて走り出した。
馬車へ乗り込んだマギーは、窓の外へ視線を向けた。
「……あれは、本当に水と風の魔法だけだったのでしょうか」
誰にも聞こえないほど小さく呟く。
その答えは、まだ見つからなかった。
馬車の姿が見えなくなるまで見送ると、エドワードは静かに息を吐いた。
「……終わったな」
その一言で、張り詰めていた空気がようやくほどける。
ユリアナも苦笑しながら、小さく肩の力を抜いた。
「……本当に、当たって砕けなくてよかったです」
その言葉に、クラリッサがくすりと笑う。 エドワードもつられるように笑みを浮かべた。
午後の柔らかな陽射しが、三人を静かに包み込んでいた。
お読みいただきありがとうございました。
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