5 君の名前は
その女を見た瞬間、ないはずの心がざわついた。
同時にいくつかの景色が脳裏をよぎっては消えていく。
夜空から顔を出す満月に。
音を立てて水を降らす噴水。
微笑みを浮かべた唇。
美しい薄氷色の瞳。
ガラクタの山たちと夜を超すたび。
不意に瞼の裏に映るこの映像は。
いつも思う。
「本当にただの夢なんだろうか」と。
アンドロイドの癖にして、保存されている記憶は曖昧だ。
己の型番も分からなければ、生み出した人間の顔すら分からない。
とある女の暗殺命令だけを置き去りに、鮮明な記憶は。遠い昔失った右腕と共に切り落とされた。
『お前も来なさい』
ただ一つ。
『知らないの?お前。今お前が感じているそれは【恋】っていうのよ』
とある人間の女の微かな記憶だけ残して。
自慢げにその感情を教えてきた女の名前も覚えてはいない。
顔も、いつも靄がかかったようにして見ることはできない。
確か、踊ることが好きで。
歌うことが好きだった。
『うるさいわね、いいから早くそれを助けなさい』
高飛車で、傲慢で。
大人びているようで、子供っぽくて。
我儘なくせに、諦める。
誰よりも自由に生きながら、ずっと何かに捉われている。
その女の…。
女の名前は。
「わたくしを忘れるなんて許さなくてよ」
――こいつはなんだ?
豹変した黒髪の女を呆然と見つめながら、男は思う。
黒色の瞳に浮かぶ薄氷。
「もう!痛いじゃない!」
泣き叫ぶかの如く激しい声。
今まで女が纏っていた静寂とは真逆の苛烈な色。
何もかもが違う。
「聞いてるの?」
何もかもが違う。
「ほら。クイック、クイック、スロー。こうして踊ったはずよ、わたくしたちは昔」
何もかもが違う。
「満月の下、噴水のある公園で、わたくしたちは踊った」
何もかもが。
「忘れたのなら思い出しなさい」
放たれる言葉は、横暴で。
きっと自分のことを世界で一番偉い、女王様か何かだと思っている。
愚かで愛おしい、初めての人間。
彼女の名は。
「アンジェ…リカ」
「そうよ」
アンジェリカ・ベルシュタイン。
激怒した彼女の父親にこの片腕は落とされた。
後ろから激しく、殴りつけられたことで記憶領域は破損した。
もう二度と娘の元に男が帰ってこないように。
男はもう死んだのだと、娘に見せつけるために。
そうして、山に捨てた。
「アンジェリカ…」
「ほら踊りましょう」
降り注いでくる月の光。
水音を立てる噴水。
地を叩く、彼女の足音。
断片的な記憶が、彼女を円にして全て繋がる。
その想いは雫となって降りそそぐ。
そして。
「お前、泣いているの?」
天から零れた涙が男の頬を伝って、地面へと落ちた。
目を丸くするアンジェリカに対して、顔を背け逃げようとする男。
だが女がその行動を許すわけもなく。
束の間の攻防。
仲良く地面へと倒れた二人、勝利したのは女の方。
「…お前ってそんな風に泣くのね」
己の下で涙を流し続ける男をアンジェリカはまじまじと見て、
「初めて見たわ、もっと見せなさい」
満足げな唇は弧を描いて、止まる。
男の髪をあやすように撫でると、膝の上にのせ、その額にキスを落とした。
「礼を言うわ、ミツキ」
愛おしそうに男の体を抱きしめたまま。
歌う。
もう二人、二度と離れ離れにならないよう。
初めて円舞曲を踊ったあの月の下で。
歌う、唄う。謳う。
君は歌う。
そして消えた。
世界で唯一の宝物を握りしめて、君は消えた。




