4 遂行命令
全方位を覆い隠すように広がる霧のせいで、前後不覚に陥るのは容易なことである。
火花を散らせ、がらくたの山から立ち昇る白煙の向こう側では全身を包帯で巻き付けた拳銃を握りしめた男と、霧に濡れ錆びついた剣を構えた黒髪の女が戦っていた。
眼前で打ち込まれる弾丸を女は器用に剣先で軌道を変え、身を翻し。
近づいてくる男を女は持てる全ての力を込めた刀身で跳ねのけ、距離を取るように蹴りを食らわせる。
己の苦手な距離感での戦いばかりしかけてくる男のそれを、黒髪の女は知っていた。
――お前、どこから来たの?
――遥か彼方、ターゲットの人間を追っていた
白い影に隠された無残にもガラスが飛び散った廃車に、垂れ下がったワイヤーの束。時を止めたまま動かない古時計。
歴史の吹き溜まりとも言えるその場所で戦い合う彼らは、いわゆる『運命的』ともいえる再会を果たしていた。
よろめいた男は常人とは思えない跳躍力で、瓦礫の山へと飛び乗る。
月が夜空を支配していた。
吹き荒れた風が霧を晴らし、雲を流し。
霧に紛れた男の正体を映し出す。
月明りに照らされ、地面を描く黒い絵に、男の片腕はない。
汚れた包帯から覗くのは、人間のものではない部品。
骨でも、血肉でもない。形状記憶合金と、伸縮性に優れたシリコンゴム。
――お嬢様。あれは…お嬢様がわざわざ気に掛けるようなものでは…
アンジェリカの使用人たちにとって、間違いが起こり得るはずのなかった男。
時代錯誤の男は、現代に住む人間たちの領域外の記憶の中にしか存在しない。
繰り返される、失われる歴史。
今よりも化学が発展していた時代に、とある女の抹殺を遂行するためだけに作られた、アンドロイド。
「アンジェリカ、あなた一体いつからここにいるの…」
「さあ、もう忘れたわ」
そう呟く女の背に、嘘を吐いている様子はない。
本当に、そうなのだろう。
魂とは、本来記憶を保持する器官ではない。
肉体無くして、記憶を維持し続けることなど出来はしないのだ。
それでも永劫の時を超えて尚、アンジェリカがアンジェリカでいられるのは。
彼女自身の魂が誰よりも気高く、力強いものであっただけ。
「わたくしはただ…会いたかっただけだもの」
その想い一つが、彼女をここまで連れてきた。
幼い子供の体を奪い取ってでも、会いたい人がいた。
父に激怒されようと。
ドレスを脱ぎ捨てて、式を飛び出して。
賊に殺されようと。
会いたい人がいた。
「…探してたのよ、ずっと…なのに…」
探し求めていた男の瞳に、死んだアンジェリカの姿が映ることはない。
それどころか、突然現れた他の女を彼の瞳は捉えて離さない。
たとえそれがどれほど殺意の籠った瞳だとしても、アンジェリカは羨ましくてたまらないのだ。
――ずるいわ、ミツキ
死ねない女と、死なない男。
「ずるいじゃない!あなたばっかり!」
「…っ!」
常に拮抗した戦いだった。
少しでも隙を晒した方が死ぬ。
そういう戦いだった。
アンジェリカの涙に固まった女の体が、男の放った一撃を前に大きく吹き飛ぶ。
男の隠し持っていた剣尖が、女の体を貫いていた。
そのまま後ろの大木へと磔にされる。
身動きはとれなかった。
ドクドクと血が流れ、痛みだけが全身に広がっていく。
抜け出すことは難しそうだ。
本当は叫び声でもあげるシーンなのだろうが、痛みに慣れすぎたこの体はそんなことすらしようとしない。
傷口だって、すぐに塞がるだろう。
こんな痛み、今更気にするまでもない。
だが。
何百年、何千年と時が流れようと、消えることのない傷もまた存在するということを、『ミツキ』は知っていた。
【君は知らない】
だからもう頷くことはできなかった。
頷くわけにはいかなかった。
【わたしの呪いにこれ以上、君を巻き込むわけにはいかなかったのだ】
不死の命を持つことは決して幸福なことではないと、女は思っている。
けれども大多数の人間にとってどうやらそれは違うらしい。
何の話をしているのかって?
これは今そこで、男に磔にされている女の話だ。
アンジェリカ・ベルシュタインに同情してしまった女の。
ただの、女の話。
「アンジェリカ!!」
話を戻そう。
己の鎖骨辺りに刺さる刀剣を素手で鷲掴み、それを無理やり引き抜きながら彼女は叫んだ。
「来い」と言う。
アンジェリカに、らしくもないその力強い瞳で。
『まったく…困ったものです。あの子は…本当に』
ポタポタと滴り落ちる鮮血に、投げ捨てられた剣。
黒翡翠の瞳に、燃え上がるようなアイスブルーが溶け込んだ。




