3 束の間の逢瀬
「いい加減、外に出たいわ」
そんな日々が数か月も経った頃、屋敷の中で男の存在は都合の良い『物』として認識されるようになっていた。
生まれるよりも先にいた婚約者との結婚を控えたアンジェリカが、毎日別の男と過ごすこと。その事実は問題視されるかのように思われていたが、不思議と使用人たちが二人の邂逅を止めることはなかった。
長らく不在にしている父親から夜会に出るどころか、屋敷の敷地外への外出すら禁止され。
やんごとなきお方へ輿入れするための教育だけ施される日々。
彼らにしてみれば、間違いが起こり得るはずのない男に喋りかけているだけでアンジェリカの癇癪が収まるのだから、決して悪い話ではなかったのだろう。
けれどもそんな使用人たちの思惑はとある夜に巻き起こった一幕を前にして、完全に崩れ去ることになる。
「…外に出たいのか?」
その日、初めて男が喋った。
退屈だったのか、気まぐれか、それこそ知らない。
男は無音の室内をぎしりぎしりと足を鳴らしながら歩き出すと、アンジェリカと彼女が見つめる宵闇の世界を見比べて「外に出たいなら出ればいいだろう」と言ってくる。
淡々とした感情の薄い喋り方。
さすがのアンジェリカも驚いていた。
口を開けてぽかん、と男を見ていた。
呆けたままのアンジェリカに対して「違ったか」と男は頭を掻いた。
その刹那。
「違わない!」
「違わないわ」
アンジェリカは叫ぶ。
体温のない男の手を掴むと、思い切り己の方へと引っ張った。
「わたくしこういうシーンを小説で読んだの!」
軽々と女を横抱きにした男は、地上三階より飛び降りた。
「お前、どこから来たの?」
「遥か彼方、ターゲットの人間を追っていた」
「お前、何なら食べるのよ」
「食事は必要ない」
「お前、いい加減名前を教えなさい」
「名前はない。好きに呼べ」
たなびく雲の隙間から降り注いでくる月光が、噴水の前で踊る男女の姿を映し出していた。
噴き上がる水しぶきが二人の話し声をかき消し。
「ほら。クイック、クイック、スロー」
踊る女の歌声も、その雫の中へしまい込まれる。
ダンスなどしたことがないとぼやく男の声も。
二人の初めての逢瀬の全てが。
ここで初めてアンジェリカは、自身の胸の内に灯るような、燃えるような感情が芽生えていくのを感じていた。
少なくとも男のこの手を離すことは、もう彼女にはできなかった。
彼女は言う。
円舞曲を踊りながら。
「ねえ、わたくし。結婚するの」と。
「お前も来なさい」
その言葉はきっと、間違っていた。
彼女の住んでいる時代では、世界では許されているのかと言われれば、決してそういうわけではなかった。
分かっていた。分かっていて尚、アンジェリカは伝えずにはいられなかった。
だって今、彼女は恋をしている。
「ああ、やっと会えた…」
時は戻り、現代へ。
黒髪の女を殺そうと濃霧を切り裂き現れた想い人を見て、アンジェリカは恍惚の表情で微笑んだ。




