EP 8
ブラック企業、再び! スパルタ天使の地獄特訓と完璧な受け身
「……さあ、まずは腹筋一万回から始めましょうか」
白亜の鎧に身を包んだ絶世の美女、天使族長ヴァルキュリアから放たれたその言葉に、俺は自分の耳を疑った。
「ひ、一万回……? あんた、正気か? 俺はまだ三歳児だぞ! 腹筋が崩壊する前に背骨が折れるわ!」
「ご安心を。回復魔法を常時かけながら行いますので、肉体が崩壊することはありません。筋肉の繊維を極限まで破壊し、即座に修復する。これを繰り返すことで、アナスタシア世界の過酷な環境にも耐えうる最強の肉体が手に入るのです」
ヴァルキュリアは、完璧な微笑みを浮かべたまま恐ろしいことを言った。
筋肉を破壊して修復する? それは筋トレではない。拷問だ。
「ちょっと待てルチアナ! お前、なんとか言え! これがお詫びの品かよ! ただの嫌がらせだろ!」
俺は給湯室でコーヒーを啜っている駄女神に助けを求めた。
しかし、ルチアナはビクッと肩を揺らすと、手元の『エンジェルすまーとふぉん』をチラリと見て、わざとらしく声を上げた。
「ああっ! ヤバい、月人くんのゲリラ配信が始まっちゃう! スパチャの準備しなきゃ! リオンくん、あとはヴァルキュリアちゃんに任せたから! 彼女、教え方は厳しいけど腕は確かだから! じゃ、アデュー!」
「あっ、てめえ逃げ……っ!」
ルチアナが指を鳴らすと、空間に光のポータルが出現した。彼女は芋ジャージを翻し、一瞬で天界(コタツ部屋)へと逃亡してしまった。
残されたのは、防弾ガラスで守られた密室の交番と、槍を持ったガチギレ寸前(笑顔)のスパルタ天使、そして絶望する俺である。
「ルチアナ様もあのように仰っています。さあ、リオン。立派な警察官(公務員)となるべく、基礎体力作りから始めましょう。外の荒野は魔獣の気配が濃いので、この交番の裏庭(防護ガラス内)で行いますよ」
「嫌だ! 働きたくない! 俺は一生この交番のデスクでネットサーフィンして生きていくんだ!」
俺がデスクの脚にしがみついて抵抗していると、奥から母さん(マリア)が「太陽芋のお茶が淹れ終わったわよー」と呑気な声で出てきた。
「あら、ルチアナちゃんは帰っちゃったの? ……まあ、そちらの綺麗な方は?」
「初めまして、お母様。私はヴァルキュリア。リオンの家庭教師として、本日から彼を心身ともに鍛え上げさせていただきます」
「まあ! 家庭教師の先生! ルチアナちゃんからの贈り物ね。リオンは最近、お部屋の中で四角い板(ノートPC)ばっかり見てて運動不足だったから、ちょうど良かったわ!」
母さん! 違うんだ、こいつの言う運動はラジオ体操とかそういう次元じゃないんだ!
しかし、平民上がりで「身体を動かすことは良いこと」というタローマン精神を持つ母さんは、ヴァルキュリアと完全に意気投合してしまった。
「お任せください。必ずや、リオンをルナミス帝国随一の立派な法執行者へと育て上げてみせます」
「はい、よろしくお願いしますね! ほらリオン、先生の言うことをよく聞くのよ!」
「母さぁぁぁぁん!!」
俺の悲痛な叫びも虚しく、ヴァルキュリアの黄金の神気が放たれ、俺の身体はフワリと宙に浮いた。そのまま首根っこを掴まれ、交番の裏庭スペースへと引きずり出されてしまった。
「まずは、精神の叩き直しです」
裏庭の土の上に立たされた俺を見下ろし、ヴァルキュリアは聖槍を地面に突き立てた。
「あなたのスキル『犬のお巡りさん』。お父君たちはハズレスキルと嘲笑したそうですが、それは大間違いです。市民の安全を守り、悪をくじき、弱きを助ける。警察官とは、まさに正義の体現者! その崇高なる使命を果たすため、まずは圧倒的な武力と制圧術を身につけてもらいます!」
ヴァルキュリアの瞳には、一切の淀みがない。
彼女は本気で、この俺を「正義のヒーロー」にしようとしているのだ。事勿れ主義で、手取り十四万の不労所得だけを目当てにしているニート志望の俺を、だ。
「いや、俺は別に正義の味方になりたいわけじゃ……」
「言い訳は不要! さあ、私に向かってきなさい! 柔道の基本、組み手から教えます!」
ヴァルキュリアが一歩踏み込み、俺の小さな胸ぐらを掴んだ。
速い。見えなかった。
そして次の瞬間、俺の視界はぐるんと反転していた。
(あ、これ、投げられる……!)
前世の記憶が蘇る。中学、高校の体育の授業で習った柔道。大外刈りをかけられ、空を舞う感覚。
だが、このアスファルトよりも硬い異世界の荒野の土に叩きつけられれば、三歳児の華奢な骨など一溜まりもない。
「ぐっ……!」
俺は無意識に目を閉じた。
だが、その時。俺の身体に宿るユニークスキル『犬のお巡りさん』が、自動的に発動した。
——バァァァンッ!!
大きな音が響いた。
俺の右腕が、地面に激突する寸前、完璧な角度とタイミングで土を叩き、落下の衝撃を見事に逃していたのだ。
顎を引き、後頭部を守り、身体を丸める。
体育の授業レベルだったはずの俺の柔道スキルが、スキルの【身体能力補正(一般警官レベル)】によって強制的に引き上げられ、芸術的なまでの『完璧な受け身』を成立させていたのである。
「…………痛く、ない?」
俺がパチクリと瞬きをして起き上がると、ヴァルキュリアが驚愕の表情で俺を見下ろしていた。
「素晴らしい……! 今の受け身、無駄な力が一切入っていませんでした! 三歳児にして、あれほど完成された受け身をとるとは……リオン、あなたには天賦の才があります!」
「え? いや、これはスキルが勝手に……」
「謙遜は不要です! 受け身が取れるということは、どんなに投げられても心が折れない証拠! よし、今の受け身がまぐれでないか、千本投げで確かめましょう!」
「はあああ!?」
俺のスキルの有能さが、完全に裏目に出た。
ヴァルキュリアは目を輝かせ、「そりゃっ!」「はあっ!」「えいっ!」と、流れるような美しいフォームで俺を次々と地面に投げ飛ばし始めた。
「ぎゃあああ! 待て、タンマ! タイム!」
バァン! バァン!
俺の身体は、地面に叩きつけられるたびに自動で『完璧な受け身』を取ってしまう。
骨は折れない。だが、目は回るし、スタミナはゴリゴリと削られていく。
何より、この理不尽な強制労働感。
(ああっ……思い出す! 前世の新人研修だ! 山奥の合宿所に押し込められて、大声で社訓を叫ばされた、あのブラック企業の地獄のブートキャンプ!!)
「声が小さいですよリオン! 警察官は気合いが命! 悪を威圧する声帯を持ちなさい!」
「ふざけんなぁぁぁ! 辞めさせてくれえええ! 退職届どこだあああ!」
「良い気合いです! では次は、銃剣道と捕縛術の連携モーションに移ります!」
一時間の千本投げ(俺はひたすら受け身を取るだけ)が終わると、休む間もなく、ヴァルキュリアは分厚い本をドンッと地面に置いた。
「体力の限界を迎えたところで、次は座学です。ルナミス帝国の法律、ならびに『警察官職務執行法』の暗唱。正義を執行するには、誰よりも法に精通していなければなりません。明日までにこの三百ページを丸暗記してください」
「む、無理だろ……俺、三歳だぞ……?」
「甘えないでください。あなたの交番にある『AI賢者君』を使って効率的に記憶定着を図れば、徹夜すれば可能です」
「賢者君は在宅学習の道具であって、徹夜のためのツールじゃねえ!」
ゼェゼェと息を切らし、泥だらけになった俺は、交番の床に大の字に倒れ込んだ。
冷房の効いた快適な空間が、今は拷問部屋の休憩室にしか思えない。
「……あー、すいません。俺、手取り十四万の固定給なんですけど。こんな過酷な訓練、完全に業務委託契約の範囲外……」
「文句を言う暇があるなら、テキストを開きなさい」
ヴァルキュリアの黄金の瞳が、俺を射抜く。
俺は悟った。
アルディス伯爵家というブラックな環境から追放され、ついに自由な不労所得ライフを手に入れたと思ったのは、完全な間違いだった。
俺は今、ルチアナ女神というポンコツ社長と、ヴァルキュリアという絶対コンプラ遵守の鬼部長に支配された、神聖なる超ブラック企業(警察官育成機関)に再就職してしまったのだ。
「う、うわあああああああん! 俺の、俺のスローライフを返してくれええええええ!!」
嘆きの荒野に、三歳児(中身は二十五歳の元社畜)の悲痛な叫び声がこだまする。
こうして、手取り十四万のダメ巡査と、最強のスパルタ天使による、血と汗と涙の『最強警察官育成プログラム』が、幕を開けたのであった。
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