34話目 『邂逅』
「――雪桜」
不意に零れた名前。その呼び声は視界を覆う闇の中へ溶けていった。不思議だった、先程まで確かに感じていた恐怖が今は何処にもない。
雪月は手探りで前へ進む。黒霧の中を彼の姿を探すように。真実なんて聞けなくていい、理由なんて分からなくてもいい。ただもう一度だけ話したかった。
そんな縋るような想いが、暗闇の中で彼の腕を掴んだ。
「雪桜!」
次の瞬間、身体が僅かに浮く浮遊感。そして、霧が晴れた。
橙色の街並みが視界いっぱいに広がる。夕暮れの名残を残した空、疎らに灯る室内灯。夜の訪れを告げる街の匂い。いつも下から見上げていたビル群は、今や足元へ広がっていた。あれほど恐れていた人混みも、蟻の群れのように小さく見える。
「ここは……」
腕を振り払われ、雪月は数歩後退った。
周囲へ視線を巡らせる。どうやらビルの屋上らしい。吹き抜ける風は涼しく、肌を撫でる空気には清涼感があった。先程まで住宅街にいたはずなのに、いつの間にか景色が丸ごと入れ替わっている。
改めて二人へ目を向けた。そして紺碧の瞳と視線が交差する。雪月を見据えるその瞳は、昨日見た時と何も変わっていなかった。感情が見えない、何を考えているのか分からない鋭利な刃のような視線。それだけで胸が締め付けられる。雪月は胸元の服を握り締め、耐え切れず視線を逸らす。
代わりに紫髪の少女へ目を向けた。ルミ、否、サタン。ソイツはビルの縁へ腰掛けていた。足をぶらぶらと揺らしながら、まるで幼い子供のように楽しそうに街を見下ろしている。あまりにも無防備で無邪気だった。だからこそ恐ろしい。
雪月は静かに息を呑む。
――これは、機会だ。
今まで知り得なかった真実へ近付ける。逃げ続けるだけでは終われない。聞かなければならない、確かめなければならない。そう思えるだけの距離に、ようやく辿り着いたのだから。
「……はぁ。ミスったな」
後頭部を掻きながら低く零す。雪月まで連れて来るつもりは無かったのだろう。予想外だったはずだ。ならば、何かしら条件がある。何かしらのトリガーが。そう考える方が自然だった。
「雪桜、話そう?」
「……」
返事は無い。ただ街並みを見下ろしている。まるで何かを待っているように、最初以降一度も視線は合わなかった。それでも諦めたくない。僅かでも希望が見えたのだ、無かった事になどしたくない。
彼には目的がある。それだけは分かる。そして雪桜は合理的だ、ならば。
「雪桜、目的があるんでしょ?」
「……」
反応はない、些細な変化すら見せない。だが聞こえていない訳ではない、無視しているだけだ。それでも構わなかった。こちらにも目的があるのだから。
「ねぇ、俺ができる事全部やるよ」
「……」
沈黙。だが次の瞬間、紺碧の瞳だけがこちらを向いた。それで十分だった。聞いている、関心がある。それだけで突破口になる。
「だから使ってよ。全部話すからさ」
雪月の目的は一つ、ただ一つだけだった。
――雪桜を味方に付けること。
「それじゃ、だめかな?」
「…………はぁ」
深い溜息。長い睫毛に縁取られた瞳が伏せられる。長い逡巡と沈黙、そしてようやく雪桜は身体ごと雪月へ向き直った。
漸く得た関心。逃してはいけないと奥歯を噛み締める。空気が張り詰め、一挙手一投足、一言一句全てを試られている。そう感じた。だが、それが今は嬉しかった。
「気色悪ぃな、お前」
「ごめんね」
「俺は言ったよな。危険因子は排除すると」
「ごめん、意味が分からなくて」
「クソッタレ……」
眉間へ深い皺が刻まれる。不快感も苛立ちも隠そうとしない。それでも対話している、向き合っている。それだけで十分だった。どれだけ酷い言葉を浴びせられようと、この事実に勝るものはない。
「お前を殺す。それが目的だと言ったら?」
「うーん、頑張ってみるよ」
「ここから飛び降りろと言っても?」
「やるよ」
「……正気かよ」
理解不能な物を見るような目だった、それでも構わない。もう一度彼と日常を過ごせるなら、そんなものは些細な事だ。
四回殺された。理不尽、無慈悲。何度も問い掛けた。どうして日常を奪うのか、どうして放っておいてくれないのか。何度も何度も。
「本気だよ。俺は、また雪桜と友達になりたい」
「嘘なんだぞ、お前に近付いたのは」
その言葉は胸へ刺さる。それでも否定出来なかった。あの時間は確かに存在していた。絶望ばかりだった日々の中で、彼との時間だけは救いだった。たとえ全てが嘘だったとしても救われた事実だけは消えない。現実を、見なかった事にはしたくなかった。
「嘘でもいいよ。用無しになったら捨てたっていい。もし雪桜が友達だって思ってくれてなくても俺だけはそう思ってる」
仮初の関係でも偽物でもいい。だってもう、雪桜は大切な人になっているから。
「友人って、言ってくれたでしょ?」
あの言葉だけは、少しだけでも本当だったんじゃないのか。
「……お前は、怖くないのか」
「怖くないよ」
「俺は化物だぞ。人間じゃない」
「雪桜は雪桜だよ」
「殺すかもしれない」
「いいよ」
「……馬鹿野郎」
その瞬間だった。雪桜がしゃがみ込み、頭を抱えた。コンクリートを見つめるように、そのまま動かなくなった。
暫く沈黙だけが流れる。やがて、深い息を吐いた。そして胡座を搔き、顔を伏せたまま、重く硬く閉ざされていた口をようやく開いた。
「クソ、俺は……守らなきゃならねぇ奴がいる」
「うん」
「――四百年、ずっと捜していた奴が」
「そっか」
「だから、お前を排除しようと」
「うん」
「殺そうと、したのに……」
「そうなんだね」
途切れ途切れに紡がれる言葉。その姿は、今まで見てきた雪桜とは少し違って見えた。恐怖は無い、畏怖も無い。ただ酷く孤独に見えた。誰にも頼れず、誰も信じられず何百年もの歳月を、一人で歩いてきたのだろう。
何かあれば排除する、邪魔なら殺す。それで全て解決してきた。それが成功体験になってしまっただけ。誰も教えてくれなかったのだ、それ以外の方法を。誰かと歩く方法を。
「俺でもそうするかもしれない」
「……無理だろ、貧弱なんだから」
「そ、そうかな……」
即答に思わず苦笑が漏れる。
なら、教えてあげればいい。傍にいて、良い事と悪い事の区別を一緒に考えればいい。これは慈善でも同情でもない。ただの利害の一致だ。
雪月は彼の隣へ歩み寄る。眼下には夜景が広がっていた。夜の帳が降りた街は、無数のネオンに彩られていた。まるで地上に散りばめられた星屑のように静かに煌めいている。そして空を見上げれば本物の星々が瞬いていた。
「屋上って星が綺麗なんだね」
「……田舎の方が綺麗だがな」
「へぇ、いつか見てみたいな」
穏やかな風が吹く。そのまま視線を移した。紫髪の人物、サタン。ソイツは相変わらず何も言わず、街を見下ろしている。何を考えているのかは分からない。きっとこれからも分からない。それでも先程まで感じていた圧迫感はもう無かった。
「オレは雪桜の意思を尊重するよ」
「黙ってろ」
「えー、優しくしたのにィ」
唇を尖らせるサタン。そんなやり取りさえ、今は少しだけ可笑しく思える。雪桜の刺々しい態度も、不器用な言葉も今なら理由が分かる気がした。
背後から足音が近付いてくる。ほんの少し前までなら身構えていただろう。だが今は違う、自然と笑みが浮かんでしまう。
隣に居る雪桜もまた、ネオンに染まる街並みを紺碧の瞳に映していた。同じ景色を見ている、ただそれだけの事実が不思議なほど心を満たしてくれる。
「またお話してくれる?」
「今もしてんだろ、泣き虫が」
相変わらず素っ気ない、冷たい言い方だ。けれどそれで良かった。きっとこれが本来の雪桜なのだろう。取り繕わない、飾らない、不器用で面倒臭くて少しだけ優しいそんな彼と。また話せる、また笑える、その事実だけで十分だった。
明日になれば学校がある。授業があり、昼休みがあり、他愛もない会話をして、そんな日常がまた始まる。昨日よりも一昨日よりもずっと穏やかな日々が。
だから今だけは、この時間だけは二人で同じ景色を眺めていたかった。
失われかけた日常を、取り戻した温もりを確かめるように。




